俺と悪魔と魔王継承
朝七時三十分、俺はドアノブをそっと捻り、築三十年の古アパートのガタついたドアの隙間から外の様子を窺った。慣れ親しんだ家から出るだけでなぜこんなふうに警戒しているのか、それには深いとも浅いとも言えない理由があるのだ。
「私たちの王……魔王になってくださいませんか」
へたり込む俺の前に膝をついているのは、頭頂部に謎の角の生えた、露出多めの美少女……ではなく、いかにも悪魔然とした山羊の頭に人の体、コウモリの翼を持つ異形の怪物だった。といっても、絵にあるように上半身裸ではなくスーツをきっちりと着こなし、革靴はピカピカに磨かれている。せめて人の形をしていたら怪しいキャッチ、で済ませられるというのに、異形でござい、といわんばかりの姿かたちのせいで現実逃避すら出来ない。誕生日は来週で、酒を飲めるまでには一週間早かった。
「な、なんなんですか?というか魔王って何?」
「魔王とは私たち魔物を統べるもの、私達の王です。貴方様からすれば……そう、異世界にあたりますでしょうか。その異世界にあります、私たちの国の内乱を治め、王になっていただきたい」
なんだって?
人間あまりに理解が追いつかないことを理解しようとすると、頭がこんがらがるものらしい。俺は少し考えた後、山羊頭の顔を見上げた。
「お断りします」
正直これが正解だと思う。そういうわけで、その時から今まで、よくわからない怪物に延々と付き纏われているのである。
よしいない、と確認してから扉を押し開けると、ちょうど隣の部屋の扉が開いた。あ、おはようございます、といつものように癖で挨拶をしようと視線をそちらに投げた俺は、思わずあっ、と声を上げた。
「おはようございます」当然のように山羊がそこにいた。
「な、なんでいるんだよ!お隣さんは女の人だったはずだろ!」
「ええ、そうでしたね」
「まさか殺……」
「他に良い物件をご紹介いたしまして、お引越しいただいた次第です」
「あっ、そう……」
悪魔のくせにそこのところはきっちりしてるのか。肩透かしを食らって気が抜けた。部屋の鍵を締め、リュックを背負い直す。
悪魔になんて構っている暇はない。今日は一限から講義があるからだ。俺が何も言わず踵を返すと、悪魔はカツカツと革靴を鳴らしながら後ろをついてくる。ついてくるな、と言うのは無意味だとこの数ヶ月で悟った。
「魔王様、本日のご予定は」
「誰が魔王様だよ。大学行ってアルバイト!いつも通りだよ」
「なるほど、かしこまりました。本日も十時にお迎えに参ります」
「来なくて良い!」
こう言ってもおそらくこいつは来るのだろう。なんで俺が魔王なんかに選ばれたんだよ、と聞いてみても、「ふさわしいお方だからです」としか言わない。嘘でも俺のこういうところが、とか一つでも言ってくれたらもしかしたらそのつもりになるかもしれないのに。
「そういや内乱とかなんとか言ってたよな。なんで内乱起きたんだよ?兄弟で継承権争って……とか?」
「さすが魔王様、ご明察でございます」
「じゃあそのどっちかでいいんじゃないのか?勝ったほうとか」
「いえいえ、魔国の風習として、異世界からやってきた人間を王に頂くというものがございます。魔族は元々残忍な性質のものが多く、知恵の働くものも少ないのです。そのため異世界からやってきた勇者に太刀打ちできない。ですから、同じ世界から来た人間を王とすることで勇者を撃退して頂こうということです」
「いや、それならますますなんで俺なのかわかんねえよ」
「ふさわしいお方だからですよ」
またこれだ。俺はまた断る、と返して道を急ぐ。まだまだこのおかしな日々はつづくのだろうか。願わくば、早めに終わりが来てほしいものだが。そんなことを思いながら、俺は何度目かわからないため息をつくのだった。