修正・加筆版
不幸な人間など、腐るほど見てきた。
商船に乗せられる小汚い女、首を繋がれた裸足の子ども、痛めつけられる屈強な男。
そんなこの世にありふれた不幸をいくら見たところで、ドフラミンゴの心はちっとも痛まない。滑稽だとさえ思う。
ただその中で、娼婦を見るのだけは嫌だった。
薄っぺらい生地のドレスを身に纏い、髪を結い上げて、薄暗い路地で春を売る女たち。煙草と香水のにおいが染み付いた、男の欲情を煽る肢体。隈のできた腫れぼったい目。カサついてるが色気のある唇。道端の女たちはドフラミンゴが愛した女に似ても似つかないが、そのひとつひとつの要素が路地裏にいた頃の彼女を思い出させた。
心にぽっかりと空いた穴は一体いつからだ?
心無い連中に追い立てられた。
母が死に、父を殺した。弟がいなくなった。
理想の国を作った。
それから、ただひとりおれを愛した女に恋をしたことを思い出した。
レイナ。愛しい女。町並みもそこにいる人間たちも何もかもが不快に感じた場所で、あの女だけが美しかった。
彼女と一緒にいたかった。
彼女にキスをする。髪に指を絡ませる。恋人のように彼女が笑う。
名前を呼ぶ。何度も、何度も。
彼女が笑えばおれも笑った。彼女が幸せだと言うのなら、他がどんなに満たされなくとも、おれは幸福だろう。
赤子を抱いた彼女は美しかった。神聖ささえ感じさせた。月明かりの下で子守唄を歌い、彼女はドフラミンゴに微笑む。可愛いわね、と言って赤子の額に口付けを落とす。
「アル。アロンソ。私たちの愛しい子。この世の全てはあなたを祝福するわ」
愛した女との間に生まれた子どもはやわらかく、あたたかかった。ドフラミンゴは赤子を愛した。彼らへの愛情が、ドフラミンゴを人にした。
彼女はドフラミンゴのために傷付いたから、もう彼女が泣かないでいい国を作ろうと思った。
彼女の夢枕に立って、優しく朝を教えてやりたい。問わず語りの理想郷に、彼女の手を引いて連れて行こう。
彼女の優しさが彼女自身を追い立て、傷付けるのなら、その優しさは不要だ。188cmの身体であまねく人々を抱き締めようとするのなら、おれがお前の身体ごと覆ってやる。それは世界の落とした陰だ。お前の身体じゃない。お前の肉じゃない。お前は何もできない。できなくていい。
お前が誰かを救おうと走ろうと、やがて時は流れる。誰もその優しさを求めなくなる。レイナは使い古された残りカスになる。膨張した理想は、救済を取り零す。レイナ一人を置いていったまま。
「優しいやつは傷付いてばかりだ」
レイナは柔らかなベッドに寝転がったまま、小さく首を傾げた。ドフラミンゴは彼女の頭を撫でてやり、枕元のサングラスを掛ける。
「自分のものを何でも差し出しちまう。それで損するのを分かっているのに」
「難しい話?」
「単純な話さ」
「そう……でも」
毛布を胸元まで引き上げたレイナは幸せそうに微笑み、頭に伸びた手をなぞった。
「あの日あなたに手を差し伸べたのを優しさと呼ぶのなら、私はそれを後悔してない。たとえその先にどんな不幸があったとしても」
ドフラミンゴの腕に頬を当て、眠たそうな目を細める。レイナの声はやわらかく、やさしく、ひと時の安息を中を走る。しかしそれに押し黙ったドフラミンゴを、彼女は抱き締めた。
「怒ってる?」
「まさか。だがそうだなァ……お前の無償の献身には苦労してるぜ」
「それのなにがいけないの?」
ドフィは、私のせいで悲しいの?
レイナは不思議そうに尋ねた。その微笑は相変わらず優しかった。ドフラミンゴは少し躊躇って、それから「いや」と彼女の首筋に口付けた。
「おれは何でもないんだ。ああ、レイナ。お前になんの憂いもなく、明日もおれと共に朝日を見てくれるのなら」
「うん、勿論」
レイナはくすぐったそうに笑った。
彼女を見ると、いつも死んだ母を思い出す。優しく、愚かな母だった。その優しさがあの人の身を焼いた。
ドフラミンゴは脳裏に浮かんだその人を無視して、今度は愛する女の唇にキスを落とした。
カーテンから朝日が漏れ出る。ドレスローザは今日も快晴だ。この国が彼女にとって、世界で一番幸福な国であればいいと思った。