信じ難い強さ
虚夜宮・天蓋外
明らかに異常な霊圧。軋む空気にカワキが視線を動かして、ぽかんと口を開けた。
『————は?』
泣き叫ぶ井上の背後に誰か居る。誰だ。いや————何だ、“アレ”は。
血に塗れた前髪の下、見開かれた蒼色が一点を凝視して固まった。その事に違和感を覚えたウルキオラが攻撃を止め、カワキの視線を辿る。
「————馬鹿な。生きている筈が無い」
戦場の時が止まった。吸い寄せられるかのように全員が同じ方向を見ていた。
皆の視線を集めるのは橙色の髪に死覇装を身に付けた、人型の虚のような“何か”。
「その姿は何だ。お前は、誰だ」
虚はウルキオラの質問に答えなかった。ばっと掌を広げると、離れた位置から斬月が独りでに虚の手許へ飛び込んだ。
斬月は一護の斬魄刀。それを己の得物だと言うように操った。その事が示す事実はただひとつ————アレは、一護だ。
あり得ない話では無いと同時にあり得る筈が無い話でもある。ひとつしかない手で口許を覆って、カワキが何か呟いた。
『……の一護が完全な虚化だって……?』
囁くような小さな声。前半の言葉は特に小さく誰の耳に入る事も無い——否、呟き自体が素振りの余波にかき消えた。
一護と思しき虚は軽く振った刀で屋根を大きく抉り、凄まじい風圧を巻き起こす。傍に居た井上が吹き飛ばされた。
「あうっ」
「井上さん!!」
『……っと。大丈夫、井上さん?』
地に倒れ込んでいた石田が手を伸ばすも届かない。虚を見ていたい気持ちはあったが、カワキが動いて井上を受け止めた。
「聞こえないのか。“お前は誰だ”と聞いている」
再度、問い掛けたウルキオラ。虚は仮面の口を裂いて雄叫びで応えた。
空気を揺らす大音量の咆哮はまるで獣。理性を感じないソレにカワキが顔を顰め、片腕に井上を抱き直して距離を取る。
カワキの選択は正しかった。咆哮で火蓋を切った虚とウルキオラの戦いは、虚閃の応酬から始まったのだ。
『虚閃……! 完全に大虚か何かだ……』
井上を降ろしたカワキが戦いを見つめて言った。
黒と赤の光がぶつかり合って全てが赤い光に呑み込まれる。虚夜宮の屋根に巨大な爆炎が噴き上がって楕円の雲が広がった。炎が辺りを明るく照らし出す。
井上を庇うように伏せた石田の隣、じっと戦いの行方を見据えるカワキが感嘆の声を漏らした。
「ぐ……う……!」
『————なんて力だ……!』
爆炎の中から翼で体を覆ったウルキオラが飛び出した。突如としてその背後に出現した虚がウルキオラの左腕を掴んで、容赦なく斬り飛ばす。
炎はまだごうごうと燃え続けている。
カワキの横に座り込んでいる石田と井上は、目の前で繰り広げられた凄惨な光景に信じられないものを見る表情をしていた。
「…………うそ…………うそだよ……あれが本当に……黒崎くんなの……?」
『体は一護のものだろうけど、中身は……どうだろうね。それにしても……信じ難い強さだ……』
震える声の井上にカワキが眩しそうに目を細めて答えた。
紅潮したように見える頬は、燃える炎に照らされているからというだけが理由では無いのだろう。
だが変わり果てた一護に釘付けになっていた二人は、隣に立つカワキの表情に目をやる事は無い。
屋根に降り立ったウルキオラは、俯いて荒い息を吐くと上空の虚を睨み付けた。
瞳だけを動かして千切れた左腕を見遣るとグッと力を込める。噴き出した血が枝のように伸び、立体パズルのように腕が元の形に戻った。
「…………俺の能力の最たるものは、攻撃性能じゃない。再生だ」
「強大な力と引き換えに、超速再生能力の大半を失う破面達の中で俺だけが脳と臓器以外の全ての体構造を超速再生できる」
————それはつまり、脳と臓器は失うと元には戻せないという事か。
カワキは耳を澄ませてウルキオラの言葉を聴いていた。
今は虚が優勢に見えるが、ウルキオラは強い。戦況はどう転ぶかわからないのだ。
そして、あの虚が仮に一護の体を使っているとしても、あの様子ではこちらにまで攻撃を向ける事は十分にあり得る————どのみち生き残った方が敵になるだろう。
「お前が何故そんな姿になったのかは解らんが、幾らお前の攻撃能力が高まろうと、腕を一本捥いだくらいで動きを止めて様子を見るようでは————」
「この俺を倒すことなど不可能だ」
ウルキオラはそう口にすると、第二階層になって初めて槍を手にする。その威力は凄まじかった。
宙空に立つ虚の真横を通り過ぎ、砂漠へ着弾した瞬間、虚夜宮の三倍近い高さまで光の柱が立ち昇る。
爆風に煽られて、石田と井上はまた頭を抱えて悲鳴を上げた。
「う……あ……ッ!」
『威力は良いけど……その分、扱いに難点があるのか』
ぶつぶつと解析し始めたカワキは最早、目前の戦いしか見えていないようだった。
そうしている間にも戦況は目まぐるしく動いていく——存外、決着は早かった。
◇◇◇
ウルキオラを斬り伏せてその半身を虚閃で消し飛ばした虚が、黒く光る鋒を倒れたウルキオラの首元に向ける。
石田が息を呑んで、虚の腕を掴んだ。
「……もういい黒崎。もう決着はついた。そいつは敵だが、死体まで斬り刻む必要は無い……もういいんだ、黒崎……」
カワキは神聖弓を手に距離を取ったまま様子を窺う。
トドメを刺そうとするのを止める理由が無いという事もあるが、それ以上に虚……今の一護が正気だと思えなかったからだ。
カワキの予想は的中した。
「石田くん!!!!」
一護に人としての一線を越えさせまいと懸命に呼び掛けていた石田を刀が貫いた。石田の腹に斬月が突き刺さって井上が悲鳴を上げる。
冷たい顔をしたカワキが言葉を発した。
『……完全に正気を失っているな。さて、どうしたものか……』
肉体が一護なら殺すのはまずい。いや、それ以前に今の自分では殺せないだろう。虚の動向に気を配りながら頭を悩ませる。
カワキが動きあぐねていると虚が石田に角を向けた。この動きは——虚閃が来る。
『…………仕方ない、か』
悩む時間は無さそうだ……とカワキは目を伏せて溜息を吐いた。虚が石田を狙っている間に、青ざめる井上を肩に担ぐようにして抱え上げる。
『井上さん、行くよ。撤退だ』
「カワキちゃん!? 待って! このままじゃ石田くんが!!」
一護の精神は消えた。石田もきっともう助からないだろう。一人で撤退しても良いがせめて彼らの当初の望み——井上の救出だけでも、可能な限りは叶えてやろう。
石田を見捨てて行けないと、肩で井上が暴れようともカワキの重心は揺らがない。決定を覆す事もない。
『ここに居たら君まで巻き込まれる。それは、あの二人が一番嫌がる事だと思うよ』
「……そんな……ッ!」
角に集った赤い光が辺りを照らす。
無表情でカワキが距離を取った。悲痛な声で井上が虚を止めようと叫ぶ。
「待って黒崎くん!! 黒崎くん!!!」
『!!』
————思わぬ人物が虚閃を阻止した。
虚の後方から、槍を携えたウルキオラが角を斬り飛ばしたのだ。拡散した光が上方へ放たれる。爆風が止んで————
「……黒……崎……くん……?」
『……仮面が……割れた? これは……』
「! 黒崎くん!!」
仮面の下にあった顔はやはり一護のものだった。カワキが井上を降ろすと、倒れた一護に駆け寄った井上が必死で名を呼ぶ。
「黒崎くん!! 黒崎くん!!」
カワキはすぐには駆け寄らず、チラリとウルキオラに視線を遣った。
全身はまだ再生出来ていない。そもそも彼が自分で話した事が本当なら、再生して見えている部分も“中身”は無いだろう。
踵を返したウルキオラを追わず、カワキは一護の様子を見に行った。
***
カワキ…友達に死んでほしいという訳ではないが優先順位が自分>>>越えられない壁>一護(護衛対象)>>友達>その他。見切りをつけるのが早い。目の前にいる虚が兄弟の仇とは知らない。