例のヒートテックとフラッシュさん
蟹
ほう、と吐いた息は白くかすみ、ターフの上に広がる曇り空に混ざっていった。
思いきり走ったあとの熱を持った体が風に冷やされる。
……冬ですね。
故郷の凍えるような冬とは様子こそ違えど、やはり東京も冬は寒い。
自分たちウマ娘は平熱が高く、しかもしょっちゅう走り回っているのであまり感じないが、冬が深まるにつれて装備が増えていくトレーナーの姿を見ればわかる。
都会育ちのせいか、他の人より寒がりらしいフラッシュのパートナーの防寒具は多い。
コートがダウンのベンチコートになったことからはじまり、去年のクリスマスにプレゼントしたマフラーが巻かれ、ニット帽が耳当て付きで付いて、ストップウォッチなどの操作に支障のない指抜きの手袋が来て……。
フラッシュが日々のトレーニングでターフを駆けているうちに、どんどんと厚着のトレーナーが出来上がってしまっていた。
「……ふふ」
眠る前の5分間。
その日にあったことを思い返す時間に充てている時間は、最近では着ぶくれしたトレーナーの姿を思い返す時間となっている。
防寒着で固められた彼もまた好ましいものだが、やはり自分の走りを見て楽しそうに笑う顔がマフラーで見えにくいのがネックだ。
……Hoppla.
腕時計を見ると、トレーニング後に着替える時間が差し迫っている。
フラッシュは足早にトレーナー室に戻り、「次の予定」のために汗を吸ったジャージをぐいと脱いだ。
●
「フラッシュ、次のトレーニングについてなんだけど――」
「あ、トレーナーさん――」
扉を開けて入ってきた彼にいつものように応対しようとして、フラッシュは今の自分が着替え途中だったことを思い出した。
「ご、ごめん!?」
「あ、いえ、大丈夫ですよ」
慌てて手に持っていたバインダーを顔前に掲げるトレーナーに微笑み、一歩近寄る。
「これは下着ではないので。制服の下に着るシャツのようなものですから」
「いや、でもその形は……」
……形?
ああ、と頷く。
確かに、今の自分はリブ生地のインナーを着ている。
それは長袖から首までを覆い、それだけでなくシャツとブルマが繋がったような形で腹部まで温かく過ごすことができている。
裾周りから冷たい空気が上がってくることの多いセーラー服には必須といっていい防寒性能だ。
「ええ、腹部まで覆うことができるので防寒具としての性能も高いんですよ」
「下着じゃないの? 本当に?」
「はい。本来の下着もこの下にきちんと着けています」
「そ、そっか」
まだ若干戸惑っている彼の前に立ち、両腕を横に広げる。
体にフィットする素材だからか、ボディラインがしっかりと見えていることだろう。
「ほら、見えないでしょう?」
「あ、ああ……?」
「私もまだ、トレーニングの汗が引いていないみたいなので」
すみませんがしばらくはこのままで居させてください、と。
以前までの自分であればはしたない、と感じてしまう振る舞いだが、これも長期で行っている「先の予定」のためだ。
こちらが平然としているからか、やがてトレーナーも現状を受け入れる体制になったようだった。
「じゃあ話すけど、今後のトレーニングはレース前の調整段階に入ろうと思うんだ」
「はい」
「具体的にはーっと……ここ、見てもらえる?」
「もうメニューを組んでくださってるんですね」
つい、と身体を寄せる。
彼がこちらに見せるために90度回転させたタブレットを、彼に腕が触れるくらい近くで、しかしあえて角度をつけるような立ち位置で。
「…………っ」
「トレーナーさん?」
……見ている。
彼の視線が、狙い通り斜め前に立った自分の身体へと向けられている。
タブレット画面をのぞきこむように上体を倒す。
重力に引かれて形を変える「それ」に、いっそうの視線が刺さる。
「……あ、ごめん。具体的には2日後から、パワートレーニングを軽くして、トップスピードに乗る練習へ焦点を当てていきたいんだ」
「最大限にスピードに乗った状態に早く辿り着くために、でしょうか?」
「……ぐ」
「……?」
右手を顎に当て、左手で肘を支えながら胸を寄せて。
明らかに自身の正中線上で潰れているそこを見て、彼は声を漏らした。
「そっ、それも、ある。あとは単純な話、振り絞って最高速度を出すまでのラグを無くしたいんだ。フラッシュの持ち味はキレのある末脚だからね」
「ふふ、ありがとうございます」
少し首を傾げて微笑むと、頬を赤くして目線が窓へと逃げた。
ボディラインの管理には、完璧な自信がある。
この体にフィットするインナーなら、いつもの水着や体操着以上に彼にアピールできるはずだ。
……そもそも、です。
ボディラインや脚のかたち、胸の見せ方に至るまでに気を配ってきたのだって、こういう時に想い人へアプローチするためなのだ。
「いざ」という時に120%の効果を発揮できるよう、全身隙なく磨いてきたのだから。
今着ているものは黒のヒートテックで、インナーも透ける心配がない。
見えていないから安心してアプローチを続けられる。
「じゃあ、しばらくはウッドチップがメインになりそうですね」
「そうだね」
……23回。
会話を始めてから、トレーナーの視線がこちらの身体へ向いた回数だ。
「じゃ、じゃあそういうわけだから! 詳細は夜の連絡時間にまとめてメールするね、お疲れ様!」
「あ、トレーナーさん?」
早口で連絡事項を伝え、早々に切り上げて彼は部屋の外に出ていってしまった。
もう少し話していたい気持ちもある。
これは恋愛勝負のためではなく、ただ好きな人と1秒でも長く一緒にいたいから。
……まあ、これ以上を求めるのはできすぎですね。
アプローチも終わったのだから、いつまでもインナー姿のままでいる必要もない。
椅子の上に畳んであったスカートと上着を手に鏡の前に立ち、そこで気づいた。
黒一色のはずの自分の下半身に、白い色の花柄が見える。
思っていたよりも角度が強く切れているインナーの左右から確かに出ているもの。
それは確かに見覚えのある、具体的には朝クローゼットから取り上げた柄で。
ことここに至って、なぜ彼の視線が上半身より下半身に集まっていたのか、完璧に理解した。
理解してしまった。
……さっきまでの視線は、もしかしてこれ……!?
日本の冬は暖かいと感じていたが、今の顔の熱さではコートもいらないかもしれない、とトレーナー室で思うフラッシュだった。