似非トルドー
人間の脳の記憶を司る部位は"海馬"と呼ばれている。
ならば、眠れば蘇る過去の記憶も、その海馬から来たのであろうか。
ナイトメア…悪夢を見せる怪物は、馬の姿をしてると云う。
私の眠りを荒らすだけ荒らして、私が起きれば去っていく、海から来たる雄々しい怪馬。
ああ、厭だ。来るな、来るな、来るな。
ザ、ザ、ザと海から出てくるな。
海から顕われて、なのに炎が燃え広がる。
10年前のあの日が、私の脳に燃え広がる。
手が黒い。痛みはない。熱さはない。
ただ、木材の下敷きになっている■を救い出さねば、と。全筋肉を用いて燃え上がる木材を押し上げよう、と。
大人でさえ満身の力を振り絞らねば持ち上げられないような木材が、僅か七歳の自分に持ち上げられるハズもなく、それでも自分は一心不乱に細腕で足掻き続ける。
熱くなる。
手が、足が、喉が、顔が。
でも、■はもっと熱かっただろう。
だから、だから早く。早くしないと。
無力な自分に鞭打って、無意味を行使し続ける。
────焦げた匂い。
炭化した肉の手触り。
熔けた掌の痛みが、鼻を突く。
────崩れる音。
消え去っていく呼吸音。
命が燃えていく音が、耳に響いて、それでも自分は、
「焔の中を覗き見れば、童が二人。一つ、紅蓮に身を焼かれ。一つ、その身を炎に投じ。躯を救わんと躰を燃やす、か」
炎の唸りが響く中で、その酷く穏やかな声は、はっきりと耳朶を打った。
手を休める事なく後ろを振り向く。
神主のような、巫女のような白い装束を着た長身の女性が、そこに居た。
「…いやはや、チラリと視えたからとうとうこの眼も曇ったかと思ったが…まさか本当にいるとは思わなんだ。
無意味を成さんと、まぁ…なんと健気なことよ」
自分を嘲けるように呟き、女性は手を差し向ける。
「少し手助けをしてやろう。"前"。木を退かし、骸を持て。"後"。水を撒いて火を鎮めよ」
淡々と指示する女性の言葉が、頭の中で反響する。
それからの事は、よく覚えていない。
ただ。
灰となった■と。
生き残った自分がいた。
涙腺は干からびてしまったのか、涙の一滴も流れない自分の頬の火傷を治しながら女性は謂う。
「自分の前に死者を助けんと、己が身を棄てるとは、いやはや当世の餓鬼は救い難い。命こそを救え。己を捨て骸を拾ったとて、無意味なのだから」
そう言い残して、去ろうとするその背に、言葉を投げた。
「…どうすれば」「ン?」
「どうすれば、誰かを救う事が出来ますか?どうすれば、」
修復されたばかりの喉は、言葉を発するには適していない。
それでも、
「どうすれば──────これ以上苦しまなくて済みますか?」
なんとかして絞り出した言葉に、彼女は目を丸くした後。
「────ハ、ハハハハハハハハ!なんとまあ、救う事しか知らぬ者よな!ハハハハハハ!」
腹を抱えながら大笑した。
その笑いが収まるまで数分は要したが…彼女は、告げる。
「ヒトは、ソレを傲慢と言う」
呵々大笑とは正反対の、冷たい声が響く。
「他者を救うと言うのは、限りなく己を救うに等しい。
斯様な存在は、誰かを救う己を肯定し、救えぬ己を否定する。事実、今まさに、■を救えなかった己がこそ死ぬべきである、と…そう考えているだろう?」
ああ、治ったハズの身体が痛い。
燃えるような、熔けるような痛みが掌に、腹に、胸に、頭に広がる。
■を救えなかった故の自己否定。
どうしようもないデストルドーが、自分の身体を火傷のように蝕んでいく。
「………だが。お前は死ぬべきではない。
うむ。その方が良いと、今この刹那に身共が決めた。
そうだ、ああそうだ。良く聴け、童」
その痛みを消し去るように、彼女は云う。
「お前は死ぬべきではないし、誰を救おうとする必要も無い。お前が救えるのはお前だけ、お前を救えるのもお前だけよ。故に、己を救って生きよ。
────唯人のように、な」
痛みは消えない。
彼女の言葉は、理解し難い。
それでも。彼女の言う通りに生きていたいと、幼い自分は思った。思ってしまった。
「ああ、そうだ─────万に一つもないと思うが…お前がまた戦禍に巻き込まれ、自分を救えなくなるのなら」
彼女は慈しむように、私の頭を撫でる。
「縁を辿り、この身共こそがお前を救ってやろう。………まぁ、もしかしたら身共以外の者が之くやも知れぬが…その時は、許せよ?」
ザ、ザ、ザと世界が揺らいでいく。
女性のイメージが、ユラユラと歪んで落ちていく。
潮が引く。夢が終わる。
炎の海から引き上げられる。
ああ、また、また"俺"に戻る。
これで良い。忌夢から覚めればまた同じ。
10年間の、自分と同じ──────
「………ンっ……ん、あ…」
温かい毛布に包まれながら、目が覚める。
「…家?」
上手く開かない眼を使って周囲を探るが、信乃もソルヴィもセイバーもいない。
あの巨大な怪物に眠らされた時、確かに首元に痛みを感じた気もするが、少なくとも触ったところ違和感は感じない。
(…マスターとサーヴァントは念話できるんだっけ…)
現状信乃とのコンタクト方法はそれしかないだろう。
ムクリと身体を起こし、念話で語りかける。
《信乃…?》
確かに繋がっている感覚があるが、返事はない。
(…?念話は出来てるはず…だよね?)
《信乃、聞こえてる…かな?聞こえてるなら返事を……》
《駄目だ、凪…!》
信乃の必死な声が頭に響く。
《家から出ちゃ駄目!》
《え、い……いきなりなんで……?》
《細かい説明は省くけど!家の周囲には結界を張ってもらったから暫くは安全だから絶対絶対絶対に家から出てきちゃ駄目だからね!八房殿と一緒に家の中にいて!》
《……う、うん……?わかった……》
随分と執拗に念を押されてしまい、大人しく言うことを聴くことにする。
それにしても結界か。魔法使いだか魔術師だか魔術使いだかともなればそんな事が出来るのか、と感心しながら、やはり外が気になる。
(…出るなって言われたけど、でも…)
信乃は相当切羽詰まっているように聞こえた。…もしかしたら、とんでもなく強力なサーヴァントと戦っているのかも知れない。
そう考えるといても立ってもいられず、自然に玄関へと足が向いてしまう。
…信乃が逼迫するような場面で自分が加勢したとて、足手纏いにしかならないことは知っている。
……けれど、ここで何もしなけば。"私"は"俺"ですらいられなくなる。
「……あ…」
玄関まであと数歩、という所で、巨大な犬が眼の前に立ち塞がった。
「…えっと…八房?だっけ?」
ライダーの片割れこと八房は、どうやらここを通してくれるつもりはないようだ。
信乃のここから自分を出してはいけない、という考えを共有してるのだろうか。
「信乃に言われてるのはわかってる……けど、それでも行かなきゃなの」
歩みを進める自分に対して、八房は吠えたり唸ることはなく、それでも一歩たりとて譲ってくれそうな雰囲気ではない。
「お願い、通して……」
言葉は通じるのか通じないのか、そんな問答に意味はないと言わんばかりに不動を貫く八房。
その体躯はまさに壁であり、行く手を阻む大きな山のようだ。
「……どうしても通してくれない……?」
ここで八房と押し問答をしている時間はない。信乃がどんな状況かもわからない以上、今は一秒でも惜しいのだ。
「…分かった、分かったよ……信乃の下に行くのは諦めるよ」
八房の眼は、まるで自分の中の何かを見透かしているかのようで。その眼を直視する事が出来ず、思わず目を瞑りそうになるが……それでも無理矢理に前を見据えて。
「私は、ね─────令呪を以て命じる!」
手の甲に刻まれた、赤いの刻印が輝く。
「今すぐこの場を離れて信乃の下へ向って!八房!」
令呪の一画が消費され、その刹那、八房の姿が消え、段々と気配は我が家から離れて行った。
「………これはセーフ、だよね?」
護衛となってくれていた八房には悪いが、それでも信乃に危機が迫ってるなら自分なんかよりもそちらを優先するべきだ。
だって、もしも自分か信乃…或いは自分か他人、と言い換えても良いけど…のどちらかしか助からない状況に陥ったとしたら。
"私"は絶対に、他人を優先するだろう。
そうしなければ、"俺"は"私"を救えない。