人類最後のマスターがアキレウスとかくれんぼする話
どうして気がつけなかったのだろう。
漏れ出る吐息を噛み殺しながら、藤丸立香はひたすらに自身を呪った。
浅い呼吸音と脈打つ心臓が立香を責めるように反響する。
ああ、なんて怠惰。なんて怠慢。惰性から滲み出た油断が緩やかに、しかし確実に彼女らの首を絞めていた。
空気への干渉。この特異点において、藤丸立香が警戒すべきはこの一点。カルデアと通信が途絶えた時点であらゆる可能性を考慮すべきだった。
それができなかったのは己が毒の効かない体ゆえか。それとも、
「おーいマスター、これいつまで続ける気なんだよ」
声がした。聞き間違えようのない、大英雄アキレウスの声。いつもならば安堵と勇気をもたらすその声が、今はただ立香を震えあがらせた。彼から身を隠すにはあまりにも心許ないクローゼットの中で立香は奥歯を噛む。
ほんの1ミリあるかないかの光の線。それがひどく立香の不安を煽った。お粗末にも程がある。叩けば崩れ、内側から鍵すらかけられない砂の城。ここに隠れたところで彼の目が欺けるわけがない。
わかっている。今を生きる誰よりも、それを理解している自信がある。
けれど。もし、彼が、ここに立香はいないと、見当違いだったと思ってくれたなら。
ゼロに近い可能性に縋らずにはいられない。吊り下げられた布に紛れ、立香は固く目を閉じ顔を伏せた。
「……マスター?」
すぐそばにいる。足音は止まったり動いたりを繰り返して忙しない。引きずった槍の音が、床を傷つけながら室内を動き回っては立香の鼓動を早めた。
「…あー、まいったな」
苛立ちを含んだ舌打ちに声が漏れそうになる。
しかしクローゼットの扉はついぞ開かず、代わりに聞こえたのは乱雑に閉められたドアの音。気配が、遠ざかっていく。
安堵からか、とうとう一筋の涙が頬を滑った。ひとつ息を吐き、立香は脱力したように固く閉じていた瞼を開ける。
「よお、マスター」
瞬間、布の雨が降り注ぐ。それと同時に純白のキャンヴァスに色付きバケツをぶちまけたような色彩が目を焼いて。淡い希望が塗りつぶされていく。出来上がったのは絶望だった。
「こういうとき、『みーつけた』でいいんだったか?ま、なにはともあれ"かくれんぼ"はもう終わりだ」
なんてことないように彼は言う。見つけた歓喜も、興奮もなく。最初から気づかれていた。気づいた上で虎視眈々と狙っていた。獲物が油断するその瞬間を。
クローゼットの上半分が吹き飛んでいるからか彼の姿がよく見えた。金の瞳が立香を見下ろしている。不格好に切断された衣服を払いのけることもできずに下を向いた。焦点がいつまでも定まらない。
「ぁ"っ…!」
「遊びは終わりでいいんだよな?」
それが気に入らなかったのか、彼はわざわざしゃがんで、立香の顎を掴んで一言一言確かめるように尋ねた。
しかし顎を掴まれて固定されているので頷くことも頭をふることもできない。立香の言葉で、否応を伝えなければならない。けれど、その喉から出るのは小さな嗚咽ばかりで。
「仕方ねぇなぁマスター」
ほろほろと溢れる涙を彼の指が拭う。そうして、立香の髪を撫でて柔らかく笑った。
「それじゃ次は、おにごっこをしよう」
「え…」
立香の時が停止する。困惑のままに彼を見ても、愛おしげに目を細めるだけで。
「1分待つ。お前が俺から逃げ切れたら勝ち。捕まったらその場で犯す。なんも特別なことなんてねぇよ。ほら、立った立った」
立香を気遣いながら、けれど強制的に右腕を引っ張って立たせる。腰は抜けていないが、足は震えていてとても走れない。いや震えていなかったとしても。たった1分のカウントが、どれだけのハンデになるだろうか。よりにもよって、人類最速である、この英雄を前に。
「さぁ、覚悟はいいな、立香」
爛々と光る瞳が立香を捕らえている。
右手にはもう、赤い希望は灯らない。