人間の話
騒がしい山の中をただ歩く。
風の音で葉が揺れる。足元の乾燥した落ち葉が踏みしめられ、遠くでは川のせせらぎが聞こえる。絶えることのない音の群れが1秒たりとも孤独を感じさせないこの場所は、我牙丸にとって世界で一番幸せを感じられる世界だった。
目の前を歩いているコイツさえいなければ。
「人間の足跡はこっち側に続いてんな、やれやれ仕事を増やしやがってよぉ」
面倒だと言わんばかりの言葉と裏腹に、そこには確かに喜びの感情があった。いったい何を喜んでいるのか、もう何年も付き合いがある我牙丸には嫌でも理解できてしまう。ヤツから死角になっている背後から、侮蔑の視線を送る。
「気持ち悪い」
「ん?何だよ吟、ようやくお前も理解したのか!?やっぱ人間は気持ち悪いよな!足跡一つ見ても吐き気がするだろ!」
「そういうことじゃ…もういい黙れ」
思わず出た言葉がヤツを喜ばせた。不愉快に拍車がかかる。無理やり会話を打ち切って、視線を合わせないように足元を見て歩き続ける。猟師は残念そうにしていたが、俺の知ったことじゃない。
黙々と歩き続けると、風に乗った不快な匂いが鼻をついた。距離があっても、この山に順応した嗅覚を持つ我牙丸には嫌でもわかってしまう。鬱蒼とした木々を掻き分けて進むと、やがてわずかに視界の開けた場所に出た。
そこで見た光景は、まだ幼い子どもには理解が及ばない。
「これ…何してんだ」
何年も生きてきた太く立派な樹木。力強いその在り方には、いっそ神々しささえ感じる。その枝には不釣り合いな赤いロープが無理矢理括られ、さらにその下には。
下には?
「何だよ吟、こういうの初めて見たのかよ。山暮らし長いんだろ?」
「知らない…」
これが元は何だったのか。何をして、結果どうなったのか。それは、わかる。
俺がわからないのは。
「何で、自分で自分を終わらせてんだよ」
動物たちなら、少なくともこの山に生きる動物たちなら、絶対にこんなことはしない。命尽きるその瞬間まで、どんなに絶望的でも苦しくても醜くても、足掻いて足掻いて足掻き切る。それが生き物として当然の姿だと思って生きてきた我牙丸にとって、目の前の光景はあまりにも信じ難い。
「それが人間っていう気持ち悪い生き物なんだよ。」
無感情に猟師が答える。人間に対する侮辱行為はいつものことだが、何故かこの瞬間だけは我牙丸はその言葉を否定できない。
怖かった。人間という生き物が。自分も同じくそちら側であるという現実が。いつか自分も、その気持ちがわかる時が来るのだろうか。
「よし。殺すか」
「…え、は?」
隣を振り返ると同時に、乾いた銃声が2発、山の中に響き渡る。羽を休めていた鳥達が我先にと慌てて飛び立ち、一気に辺りは騒然とする。猟師によって寸分の狂いなく撃ち抜かれたロープと、下に吊られていたものの額には銃痕が残り、火薬の匂いが漂った。
「うっし命中!いやー惚れ惚れする腕前だ、動かない的だったのが残念だったがな!もーちょい逃げ惑ってくれたほうがこっちも燃えるんだが、仕方ねえか!」
「お前…なんで…何でこんな…」
確かにこの猟師は異常だと分かっていた。分かっていたが、それでも理解できない。どうして終わった生き物をさらに辱めるのか。可哀想だと思わないのか。何で…嗤っているのか。
「なあ吟。お前に俺を理解できるか?」
呆然とした我牙丸の顔の前に、笑顔が溶けてなくなって、形容し難い表情を浮かべた猟師が目線を合わせてこちらを覗き込んでいた。
瞳があるはずなのに、まるで暗い空洞のようにしか見えない。心があるとは思えない。こいつは、これは、一体何だ?
「いやだ…出来るわけない。したく、ない…」
溢れた言葉は、つい先程まで持っていた、消えてしまった命を前にして考えたものとは全く別の感情。この世には一生理解が及ばないものがあるのだと、我牙丸は本能的に理解した。
「そういうことだ。人のキモチなんてもんはな、考えるだけ無駄だ。そもそも人間なんて生き物自体がぜーんぶ無価値なんだからな。」
我牙丸の理解の及ばない化け物は、そう言ってまた笑顔を浮かべた。いつだって奴は我牙丸の前では笑っている。笑顔を作ることに対して、我牙丸が忌避感を覚えるほどに。
熊たちが人の味を覚えると面倒だと、埋葬用の簡易な穴を掘って全てを放り込み埋葬する。山は、まるで何も無かったかのように全てを覆い隠した。やがて枝についた跡すらも、無かったことになるのだろう。
「忘れるなよ、吟」
帰り際に放った奴の言葉が今でも耳から離れない。
「人間を信じるな」
そう言い放った、理解不能な笑顔と共に。