人の生きるこの世界に

人の生きるこの世界に


加盟国の人間が選ぶ職業において、『海軍』という選択肢は決して珍しくない。

特に今は大航海時代。世界は荒れ、その影響を受けない場所など存在しないと言ってもいいくらいだ。

自分の生まれ育った砂の国でもそれは変わらない。

海兵になるということについて、きっと深くは考えていなかった。ただ周りよりも身体が大きくて、少しだけ運動に自信があって。

だから……掲げる“正義”なんてなかった。


あの人たちに、出会うまで。



◇ ◇ ◇


湿った空気が頬を撫でる。普段考えることがないそんなことをいちいち考えるのは、これからやろうとしていることに緊張しているからだろうか。

当たり前だ、と自重する。

目標もなく、ただ生きていくための糧を得るために海軍に入って。その中身はただの情けない弱虫で。

だけど、あの人たちはそんな自分と共に笑ってくれたのだ。


「おい、あんた」

「ん?」


声をかけられた。見ると、どこか心配そうな表情でこちらを見る男性がいる。


「大丈夫か? 今にも死にそうな顔してるが」

「ああ……大丈夫です。ちょっと疲れが溜まってて」

「そうか。まあ、色々あって大変だからな。……天竜人が出歩いてるかもしれん。あんまりぼーっとしない方がいぞ」


天竜人、という単語を聞いた瞬間、心がざわめいた。だが、それを顔には出さないように努めて冷静を装う。


「ありがとうございます。……なんで、こんなことに」

「本当にな」


視線を向ける。その先にあるのは、一本の巨大な樹。『70』という数字が刻まれたそれを眺めながら、見知らぬ男と思いを共にする。

きっと、彼も同じことを考えている。


ここは、二人の英雄が世界を敵に回した場所なのだ。



◇◇◇



始まりは、本当に些細なことというか、しょーもないことだった。

特別な才能もなく、少しは自信があった運動についても海軍では下の下。訓練ではいつもビリ。幸い、書類仕事は向いていたようだがそれも及第点レベル。どうにか役立てるよう航海術を習得したり船の雑務全般をこなせるように仕事を覚えたりの日々。

そんな、代わりなどいくらでもいる立場の自分が、偶然あの人たちに関わることになった。


『うおっ! 悪い!』

『す、すみませんすみません!』


大量の書類を運んでいる時、あの人と……ルフィさんとぶつかった。周囲に大量の書類が散らばってしまう。


『すみません! すぐに片付けます!』


相手は大佐だ。こちらは最近、上等兵になれたばかり。雲の上の存在を相手に粗相をしてしまった事実に冷や汗をかきながら、必死でルフィの書類を優先してかき集める。

相手は海軍の英雄の孫であり、10代の若さで大佐の地位にいるばかりか将来的には大将の地位さえもほぼ確実と見られている存在。こんな、代わりなどいくらでもいる木端の上等兵とは生きている世界が違う。


『そんなに急がなくてもいいぞ。どうせ期限過ぎてるやつだし』


だが、彼はそんなことを全く感じさせない様子でしゃがみ込む。肩にかけた『正義』のコートが床について汚れることも厭わず、嫌そうに書類を拾う。


『ウタに怒られちまってさー。よくわかんねぇことも多いし、誰かに聞こうと思ったんだけど聞けそうなのがいなくてな。マグマのおっちゃんに言ったらまた説教されそうだし』


肩を竦めるルフィ。その態度は、とても気さくで。

自分の想像していた姿とは、全く違ったものだった。


『報告書と、申請書と……これは、請求書……?』


見ると、確かに提出期限の過ぎたものばかりである。報告書に至っては何枚か『再提出!』とデカデカと書かれたものまである。見間違いでなければ多分、『ぶっ飛ばした』としか書いていない。

お騒がせな人物であるとは噂で聞いていたが、それはあくまで英雄ガープのような功績の部分だと思っていた。まさか、書類一つでこの有様とは。


『そうだ、手伝ってくれねぇか?』


そして、彼はそう提案してきた。

ただ、大佐という立場の人間からのそれは実質命令だ。頷くと、その人は満面の笑みを浮かべた。


『ありがとう!』


その時から、きっと。

僕の運命は、変わったのだと思う。



◇◇◇



『それで、バラティエって海上レストランにサンジってコックがいたんだけどな』


ピークの時間も過ぎ、食堂で書類を片付ける傍ら、彼はその冒険譚と呼ぶべき出来事について色々と話をしてくれた。……書類については結局こちらがそのほとんどを処理しているが、冒険譚の料金と考えると安いものである。

しかし、驚くのはその功績だ。その若さで大佐の地位にあるだけのものを、彼は確かに残している。海軍の新時代という呼び名は、偽りではない。

実を言うと、彼とは同い年だ。だが、こうまで違いがあると比べる気すら起きない。単純な身長ではこちらの方が上なのに、明らかに相手の方が大きく見えた。


『ちょっとルフィ! 書類は終わったの!?』


書類をあらかた片付けたところで、女性の声が響いた。ウタ、とルフィが応じる。


『おう、もうすぐ終わるぞ!』

『えっ、嘘。あの量は二日は……って、あなたの字じゃないじゃない!』

『い、いやー、それは……』


ルフィが目を逸らす。その姿を見て、反射的に立ち上がってしまった。


『申し訳ありません准将! 大佐に協力を要請されたもので、自分が!』

『あ、違う違う! あなたは悪くないの。悪いのはルフィ。……でも、凄いね。あの量を終わらせるなんて』

『いや凄ぇぞこいつ! しかも航海士の資格もあるんだってよ!』

『い、いえその……自分は、戦闘が苦手で。こう言うことしか』

『ふぅん』


その時、海軍の歌姫と名高きウタ准将は何かを考え込むように顎に手を当てていた。そんな彼女に、ルフィが声をかける。


『それより、書類も終わったし出しにいかねぇと』

『まあ、センゴク元帥からのお説教は確実ね』

『いやそこはオメー、そうならねぇようにだな……頼む』

『しょうがないわね』


手を合わせて言うルフィににこにこと微笑みながら応じるウタ。こちらとしては、元帥の名前が出ている時点で最早雲の上過ぎてついていけない。 

そしてルフィは書類を束ねると、満面の笑顔で立ち上がる。


『ありがとうな! 今度お礼はするからよ!』


そう言って、彼はウタと共に立ち去った。

……彼の部下になるよう異動を命じられたのは、次の日のことだった。



◇◇◇


「色々、あったなぁ……」


彼らにしてみればほぼ非戦闘員と言ってもいい自分を引き入れただけ。そしてそれは、きっと気まぐれのようなもの。

しかしそれは、己にとってはあまりにも大きなことで。その偶然と気まぐれが、こんな自分を彼らの冒険譚に関わらせてくれた。

故郷の国が七武海に乗っ取られかけていたのを、ボロボロになっても救ってくれた。

空島では、神を名乗る怪物に苦しめられている人々を救い出した。

あらゆる場所で、海賊に苦しめられている人々を片っ端から救い出した。

多くの歓迎と、感謝と、笑顔にいつも包まれていた。

その姿は……あまりにも眩しくて。

憧れだった。

崇拝していた。

希望だった。

救いだった。

だがこの世界は、そんな彼らを否定した。

だから。

だから。


「ルフィさん、ウタさん。……どうか」


目標の姿が見えた。

故郷に伝わる禁忌の水を、口にする。

もう、後戻りはできない。……しようとは、思わない。


走り出す。

走る。

駆ける。

駆け抜ける。


「っ、止まれ!」

「待て!」


人々が首を垂れ、嵐が過ぎるのを待つ中を。

全力で、駆け抜ける。

銃声が響いた。

鈍い痛みを感じた。

しかし。

しかしだ。

あの二人は、こんな傷よりも。

もっと。

ずっと。


「うあああああああああああああっっっ!」


鈍い、感触。

握りしめた刃は、確実に目標を。

“神”を、貫いた。



「動くなァ!!!!」



こちらに銃口が向けられている。

だから何だ。この命は、既に。


「何が神! 何が王!」


握り締めた刃を、深く、深く。

己の全てを込めて天竜人にと突き立てる。


「人の生きるこの世界に!! あの人たちが生きる世界に!!」


銃声が響いた。

体を、何かが貫いた。

視界が、赤い。



「神などいない!!!!!」



そして、最後の引き金を引く。

閃光が、周囲を駆け抜けた。

音はもう、聞こえなかった。




……かつて、神を名乗る怪物がいた島で。

一人の騎士が、言ったのだ。

神など、この世界にいないのだと。

だから、これはその証明。


この日の事件は、“最悪”の名と共に語られることになる。

天竜人が、殺された日。

それは、均衡を失いつつある世界に一つの事実を叩きつける。


即ち……神殺しが可能であるという、事実を。




◇◇◇



とある島の、とある洞窟。

二人の逃亡者が、モルガンズから彼の発行する新聞を渡され、それを見ていた。

いつもならやかましく騒ぐ彼が、今日この瞬間だけは大人しい。


「馬鹿野郎」


小さく、青年は呟いた。

握りしめられた新聞の記事には、こう書かれている。

『天竜人、白昼堂々暗殺』と。


「馬鹿野郎が!」


その怒りは、果たして誰に対してのものなのか。

命を捨てて己らと変わらぬ大犯罪者となった、かつての部下に対してか。

……否だ。


「う、あ、ああ、あああ……っ」


大粒の涙を流し、ごめんなさいと、女性は嗚咽と共に何度も何度も繰り返す。


決して、才ある人間ではなかった。

部下の中では一番弱かったし、戦闘では頼りになることはなかった。

けれど彼はいつだって真摯で、真面目で。

航海術も、書類仕事も、努力で身につけて。

二人がやらかすと、他の部下と一緒に助けてくれて。

そうやって、皆と一緒に支えてくれた。

大切な、仲間だった。


「これはあんたの部下による証明だ、ルフィの旦那」


アホウドリの、世界の情報網を牛耳る男が言う。


「神は殺せる。その証明のために、あんたの部下は命を懸けたんだ」


世界は変わると、彼は言う。

ただでさえ崩れかけていた均衡。その中で、一人の男が命を懸けてそれを成し遂げた。その意味は、あまりにも大きい。

それは即ち。

虐げられていたものが、才なきものが、力などないものが、命を懸ければ。

神へと、その刃を届かせうるということなのだから。



神の死は、更に多くの死を呼ぶだろう。

その先には、何があるのだろうか。

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