事態急変
虚夜宮
戦闘が終えた更木が、治療のために井上を呼ぶ。カワキも治療はできるが、更木はどうにも、この女が苦手だった。
それもあって更木は井上に声を掛けた。
「女ァ! 俺の傷を治せ!!」
「は……はい!」
更木の心情など知らず息絶えたノイトラの遺体をぼんやり眺めていたカワキだったが、井上がタッと駆け出すと同時、血相を変えて呼び止めた。
『! 井上さん、待っ……』
確かに、井上は駆ける足を止めた。
しかしそれは呼び掛けが理由ではない。
「!?」
——一瞬の出来事だった。
井上の目と鼻の先、見知らぬ破面の男が現れ、ぽんと肩に手を置いた。
井上の耳元で、囁くように言葉を紡ぐ。
「悪いね。本トはこういう面倒なの、好きじゃねえんだけど。ちょっと借りるよ」
間髪入れず、カワキが破面に神聖滅矢を撃ち込んだ。一護と更木が斬りかかる。
衝撃に舞った砂が視界を奪い、砂が地に落ちた時——
「……消え……た……」
井上の姿も、破面の姿も、蜃気楼のように消え失せていた。茫然とする一護の背後で、銃を構えたカワキが眉を顰めて呟く。
『残った十刃か……しくじったな……』
男は霊圧を感知したカワキより速く井上を連れ去った。相当上位の破面だろう。
⦅敵戦力が残っているのは判っていたことだ。一体落ちて油断したのは失敗だった。いや……反省は後だ。今やるべきは——⦆
カワキは突然の事態に考えを巡らせる。
その時、カワキの思考を遮るように、頭の中に直接語りかけるような声が響いた。
《聞こえるかい? 侵入者諸君》
低く穏やかな声には聴き憶えがあった。
瀞霊廷でカワキたちを窮地に追い込み、この事態を引き起こした男——藍染惣右介の声だ。
「……藍染……!」
『! ……天挺空羅か』
眉を寄せた一護とカワキ。藍染が淡々と告げた言葉に、事態は急転する。
《ここまで十刃を陥落させた君達に敬意を表し、先んじて伝えよう。これより我々は現世へと侵攻を開始する》
「!! 何だと……!?」
『“これより”? どうして今……』
目を剥いた一護の横で、カワキが口元に指をやって考えた。
⦅いくら井上さんでも、そうすぐに崩玉を覚醒状態には出来ない。覚醒を待たずに侵攻するなら相応の理由がある筈——……⦆
この状況にあっても失われることのなかったカワキの平静は続く言葉に乱された。
《井上織姫は第五の塔に置いておく。助けたければ、奪い返しに来るが良い。彼女は最早、用済みだ》
『……は?』
カワキは目を丸くして、思わずといった態度で声を上げた。
——この男は何を言っている。
井上の能力は稀有なものだ。それを理解しているからこそ、彼女を生け捕りにして連れ去ったのだとカワキは認識していた。
少なくとも、「用済みだ」などと手放すだなんて思いもしなかったのだ。
《彼女の能力は素晴らしい。“事象の拒絶”は人間に許された能力の領域を遥かに凌駕する力だ》
藍染が続けた言葉は、カワキにますます混乱を齎した。
藍染は井上の力を正しく理解している。その上で彼女を「用済みだ」などと吐かすのだ。節穴としか思えない。
藍染は井上の存在は“旅禍”——一護たちを虚圏におびき寄せる餌であったと語る。
《——更にはそれに加勢した四人もの隊長をこの虚圏に“幽閉”する事にも成功した》
『!』
言葉と同時に、カワキたちが通って来たものも含めて、黒腔が一斉に口を閉じる。
その瞬間、カワキの中で侵攻タイミングについての疑問が解けた。
『ああ、成程……そういうことか。確かにこんなチャンス、そうあるものじゃない』
戦況を左右する戦力を、虚圏という死神では自力帰還が困難な場所に隔離する。
成程、上手いやり方だ。カワキにも……いいや、見えざる帝国としても、学ぶべき点がある作戦だと思えた。
《我々は空座町を滅し去り王鍵を創造し、尸魂界を攻め落とす。君達は全てが終わった後でゆっくりとお相手しよう》
その言葉を最後に、天挺空羅による通信は途絶えた。
「空座町が……消える……!」
顔色を悪くした一護が、弾かれたように駆け出した。駆けていく背中を「待てよ、一護!!」と更木が引き留める。
「どこ行くんだよ。今てめえが動いて何かできんのか」
「じゃあどうしろってんだよ!! 空座町が危ねえんだぞ!! このままここで待ってろってのか!?」
『落ち着くんだ、一護。頭に血を上げ過ぎだ。とは言え……更木さん、貴方はやけに冷静だね。かえって不自然な程に』
今にも飛び出していきそうな一護の腕を掴みながら、カワキが冷めた視線で更木に問い掛ける。
『尸魂界側にはこの事態を打開する用意がある……そういう認識で良いかな?』
「……言ったろうが。決戦が冬と決まった時点でジジイから浦原喜助に“幾つか”指令が出された、ってよ」
それはカワキも卯ノ花から聞いた話だ。
隊長格が虚圏へ加勢に来たのも、総隊長の指示だったと。
それが一つ目の指令だとして二つ目は?
「二つ目の指令は、空座町で護廷十三隊全隊長格を戦闘可能にすることだ」
思わぬ言葉に、カワキがきょとんとした顔で訊ねた。
『現世の人間への被害は度外視して藍染を討つと?』
「んな訳あるか」
カワキはあの総隊長ならあり得ることだと思ったが、そうではないらしい。
「浦原喜助の装置で、尸魂界に作った空座町のレプリカと、現世にある本物の町とを入れ替えるんだよ」
『現世と尸魂界を入れ替える——?』
町を丸ごと別のものと入れ替える。
その思想は、奇しくも「見えざる帝国」が予定している作戦と同様のものだった。だからこそ、聞き捨てならない。
⦅——それは、使い方次第で私たちの侵攻の対策になり得るんじゃないか?⦆
蒼い瞳を好奇心に煌めかせて、カワキは更木へにじり寄った。
次から次へと質問攻めにする。
『装置の詳しい仕組みは? 規模は町一つ分が最大? 住民はどうなる? 効果時間はどの程度?』
「うるせえな! ンなもん知りたきゃ他の奴に聞け!」
聞きたいことはあるが、これ以上、更木を問い詰めたところで出てこないだろう。
鬱陶しそうに叫んだ更木に、渋々ながらカワキが引き下がった。
『…………わかった』
そのやり取りを聞いているうちに、冷静さを取り戻したのだろう。砂漠の向こうに見知った霊圧を感じて、一護が振り返る。
重い霊圧はカワキも知るものだった——ウルキオラだ。
⦅護衛を置いていく、か。井上さんを完全に手放した訳じゃないんだな⦆
頭を切り替えたカワキが塔の方角に視線をやった。一護も同じ方向を見る。
「……剣八。あんた、さっき言ったよな。空座町を護んのが俺の役目だ、って」
落ち着いた声。覚悟を秘めた顔付きで、一護が言葉を発する。
「違うぜ。俺の役目は仲間を護ることだ」
その言葉を残して、一護はカワキと共に井上のいる塔を目指して駆け出した。
***
カワキ…「井上を手放すとか節穴か?」と藍染の正気を疑っている。現世と尸魂界を入れ替える装置に興味津々。スタークの霊圧には気付いていたけど誘拐を阻止することはできなかった。