両片思い大好物
今日は景虎の川中島攻勢がなかった。というか、このところしばらく景虎の姿を見かけていない。
なので、せっかく出来た時間を有効に使おうと、俺はカルデアの誇る大図書館へ足を向けたのだが。
「珍しいな、本なんか読んで」
十日くらいぶりの姿に、つい声をかける。
前回見たのは、そういえば、あれだ。なかったことにしたアレだったと、声をかけた後に気がついた。
思い出せば気まずさしかないが、ここで避ければむしろ覚えていると証明するようなものなので、努めて平然とする。このくらいの腹芸ができなくては、乱世の一角など務まらない。
「別に私だって本くらい読みますけど」
「なんか棘があるな」
振り返った景虎は、なんとなく眉間に皺が寄っていた。珍しい。こいつが笑う以外の表情をすることがあるとは。明日槍でも降るんじゃねえか。
「ねぇ」
景虎が唇を尖らせる。色も厚みも薄い唇。赤い紅でもつけさせればどれだけ映えるだろう。
「三条の方ってどんな人です?」
その唇が告げたのは、川中島でも何でもなく、これまで話題に登ることも、登ると思ったこともない名であった。
「なんだ、藪から棒に」
「べっつにー」
長年連れ添った妻だ。健勝な頃の姿を思い出せば、自然と笑みが浮かぶ。奥向きをしっかりまとめて、家臣とは別の方面で頼りになった。
「いい女だぞ。穏やかで芯が太い。見た目はたおやかで優しげだが、」
思い出話などする機会もなかった。思わず語り出せば、まだ話し始めの段階で遮られた。
「もういいです」
「自分で聞いておいて、何なんだお前」
「後はなんですっけ、諏訪氏の娘と信濃の国人の娘と? 全部で五人? まだいるんですっけ?」
後はまあ、寵童がそれなりにと、お手付きした娘がそれなりと……いや、数え上げてどうなるものでもなかろう。
「どうした。何か怒ってるか?」
景虎が、笑わない。
戦とも武芸とも関係ない、いつもな興味を持たないことを問い質す。なんだか今日は様子がおかしい。
「怒ってませんー。普通です、ふつうー」
「俺の顔見て言ってみろ」
「嫌です」
景虎は、ぷいっとそっぽを向いた。
「晴信は、たおやかな女性が好きですか」
「そりゃ、大抵の男はそうだろう。特に戦場なんて、男臭い血みどろだ。戻ったら柔らかい温かいもので癒されたいだろ」
「私はそう思いませんでしたけど」
「おまえは女だしなあ」
露出した薄い腹や、柔らかい太腿に視線が向く。肌はなめらかで肉は柔い。俺は、それを知っている。
戦場ではどんな男よりも鋭い斬撃を放つのに、華奢な腕は、両方合わせても俺の片手でまとめられるほどだった。
思い出せば、血が激る。冷静に、意識を他へ向けなくてはならない。
「そうですよ。あなたの妻女と同じです」
「いや、違うだろ」
景虎は身体こそ女であっても、他の女とは違う。刀を手に取り馬を駆って、俺の上を行く。
そんな存在は、他にはいない。
全世界、全史を紐解けば他にもいるのだろうが、生前の俺の周りには、コイツしかいなかった。
「……違いますか」
「違う。妻妾は俺が守るものだ。おまえは、俺に守られてはいないだろう」
「もちろんですよ。むしろ、私が晴信を守ってあげますよ」
こいつならやりかねない。
思わず溜息が出た。
妻に守られ通しとか、男の沽券に関わる。
「巴殿は、戦場にも同行しましたけど、義仲殿の側室だったでしょう」
「だが、義仲殿は末期に巴御前を連れなかっただろう。ちゃんと妻を守っているだろう」
「私なら最期まで一緒がいいです。勝手です」
まあ、確かにそれは男のエゴなのかもしれないが、俺には義仲殿の気持ちの方が共感できる。
愛した女ならば、逃して生かして、死ぬまで俺を悼んでほしい。確かにこれは自分勝手だが、最期だからこその本音でもあろう。
しかし。それよりも、だ。
「景虎。おまえ、最期を共にしたい男がいたのか」
生涯不犯を貫いた女にそんな相手はいないと思っていた。どこのどいつだ、それは。
無性に腹立たしくなって、細い頸を掴んで、強引に振り向かせる。
素直にこちらを向いた女と、至近距離で視線がかち合う。
いつかの、いつもの、ぐるぐる目ではない。
何かを訴えかける、人の眼だ。
しばし、時間が止まる。
動き出したのは、景虎だった。
ぱん、と手を払われ、椅子を蹴る。
「晴信なんて、知りません」
「おい!」
制止は届かなかった。
その背を追うことも、なぜか出来なかった。
諦めて、景虎が出したままの椅子に腰掛ける。
「なんだこれ。こんなもん、俺に聞けばいいだろうが」
机に置かれた書物は、俺や俺の妻女についての叢書だった。
景虎は、こんな後世の書物より、よほど生の俺を知っているはずだ。知らぬことも当然あろうが、そんなものは目の前の俺に聞けば済むことだ。
「相変わらず、訳の分からない女だ」
吐き捨てて、俺もまた、席を立った。
書を楽しみたい気分は消えていた。
脳裏を占めるのは、不可解な女。決して俺の中から消えることのない女だ。
こんな時こそシュミレーターで身体を動かしたいのに、立ち去った女が戻る気配はない。
すっきりしないものを抱えながら、俺は元来た通路を戻るしかないのだった。