世界は愛で満ちている
107,114,115,119(実は1回消えて絶望しました)びちゃ、びちゃ、ばしゃん
血肉の池。血潮の海。あの昏い地獄の再来。
「うふふ、あは、アハハハハッ」
その血を流すのは一人の少女。白い桜の着物。小豆色の袴。赤いリボン。そして異様な程に長く伸びた赤茶色の髪。それらを薄く吹く風に揺蕩わせ舞う。
くるり、ふわり、ゆるぅり。
「うふふ、アは、はぁーァ」
笑い疲れたのか少女はしゃがみこむ。白魚のような手で血を触れ、絹のような髪が血に塗れる。美しく仕立てられた着物たちに血が染み込む。普段であればその血を吸収し己の糧にするのだが、なんとなくそのままにしている。
視線だけを背後に向け鳥居を過ぎ、この夜闇のような世界から逃げおおせたろう三名の客を思い返す。
私に正しく愛を教えた男。
私に夢を与えた男。
私に希望を見せつけた子。
ふと笑いが込み上げた。今血を被っているのはどうして?彼らの未来を想って微笑むのは何故?
「ふふ、おかしいったら」くだらなさ過ぎる。今私は彼等に契った。この桜は、血桜は私と共に地球の奥深くに沈み、私と共に眠る。それに抗おうとしたのを木の根で押し出した。時間で情が湧いたのだろうか、単純な奴らだ。それに、この猶予の時間に私が彼らとの記憶を割くだなんて!
記憶を持つのは水だったか、血だったか。どちらにせよ言葉に縁があるな。
「ふふ…あら、忘れ物じゃない、やあね」
静かに世界を見ていたら少女の視界に入った一つ。立ち上がり髪を引き摺って向かう。
あったのは煙草の箱。小さな、確か水木のよく持っていた銘柄の。すい、と拾い上げ振る。あんまり減っていない音で、片っぽだけ開いている。記憶の中の水木の煙草の出し方を真似てトン、と叩いて一本だけ出す。火がないので自分で火の術を使った。
煙草の先端に火を灯し上がる煙を眺める。そのまま口元にやり吸い込む。
思えば、あの男は私が煙草を吸う時傍にいるのを嫌がっていた気がする。この容姿が幽霊族の岩子と同じだからか、それとも見てくれだけでも少女であったからだろうか。いや共にいるのが嫌なだけか。私も普段から吸っていたのに気づいていなかったのだろう。これでも樹齢何百年ぞ。
ふぅ、と息を吐けば紫煙が立ちのぼる。
下らない、愉快な時間だったな。
なおも煙草を持ちながらひとつの空洞に足を向ける。幻影のような、この世界ではもうすぐ消える桜の傍に寄り佇んだ。空洞に風が吹き込み、髪も着物も桜の花弁や煙でさえも大きく揺れる。
身体中にこびりついた血を体内に吸収しながら笑った。
どちらにせよ己の血がこの宵闇の世界で消えていくことで今までの様々な人間たちの記憶が剥がれ落ちていく。残したい記憶も残さなくっていい記憶も全部混ざって消えていく。何百何千何万の記憶の欠片が泣きながら揺れている。
吸って吐いて、吸殻が落ちて。
リボンを解いて、握りしめて。
本物じゃない母親にほんの少し懐いてくれた男の子。笑って抱きしめた温もりを覚えている。
幽霊族の友人たちの尊厳と守護の為だけに私と戦った男。戯れの言い合いを覚えている。
それでも彼女ならそうすると手を取ってくれたあの男。あの夫婦の青春を記憶している。
最期に応急処置として血を分けたの、失敗だったかしら。記憶がそれしかなくなってきた。
諦念、受容、後悔、悲哀、それと歓喜。
吸いかけの煙草を持った手を下ろし、穴に向き合う。
笑う
「あーあ、欲しかったなぁ、愛。」
嗤う
これでも根本にあったのは人への愛で、慈しみで、憐れみで。それが彼女から継いだ思想であることは理解しているがそれでも、
咲う
「おやすみ血桜、さよなら世界」
─────私は、愛をもっていたのだ。
ズズズ、と根が少女の細くたおやかな体に巻き付く。もうほとんど残っていないたった一本の煙草を握りこむ。もう一つの手から煙草の箱を手放して、リボンが吹消えた。
何一つ世界のものは私のじゃないけど、この一本だけは私のものであって欲しい。
眠る。ここが私の墓場。誰にも来て貰えない、私一人の。
「あぁ、」