一筋の希望
青い監獄での特別練習は、同じスーツを着た連中の見るも無惨な姿を映した動画によって突如終止符を打たれることとなった。珍妙なレクリエーションのていで始まったこの鬼ごっこがクソみたいな侵略だと発覚してからは、あからさまに取り乱し、ぶつぶつと呟くネスを連れて監獄の中を逃走していた。自分より狼狽している人間がそばにいると意外と冷静になるものである。
およそ数時間が経過した頃には、辺りから人の気配が減り、その代わりに、ある方角から漏れ聞こえる断末魔じみた嬌声は音を増していた。丁字路に差し掛かり、慎重に前方と側方を窺い、背後のネスに合図を送って歩みを進める。
「なっ…!?」
「カイザー!」
一瞬前に誰もいないと確かめた通路に現れた2つの青い影。常識外れの挙動にフリーズした一瞬を突いて、挟み撃つように迫ってくるそれが、スローモーションのように映った。
咄嗟に振り向いてネスを突き飛ばしていた。捕まった奴らがどんな目に遭っているかは直接目にしなくても明らかだ。この、年齢のわりに夢みがちなところがある友人の眼が、理不尽に晒されて濁るところを想像して、咄嗟に身体が動いていた。俺ならなんとかなる。相手が赤ら顔をしたクソ野郎から、全身真っ青のクソ野郎に代わるだけだ。
いったいどれくらいの日数が経っただろうか。数週間、数ヶ月、いや、半年にも及ぶかもしれない。とっくに日付の感覚は失ってしまっている。
クソ青異星人共の前でさせられた儀式のようなものが終わってから、ずっと同じ部屋に閉じ込められて、一体の異星人と顔を付き合わせている。アレは婚姻の儀式だったのかもしれない。ふざけやがって。
起きている間はずっと揺さぶられ尽くして、疲労困憊でぶつりと意識を落として、目を醒したら前日と同じことの繰り返しだ。食事を摂らなくてもかろうじて生命を保っているのは、おそらく、俺が気絶している間にあのクソ青異星人が気色の悪い液体を流し込んでいるからだろう。非常に癪だが、生きてここから戻り、サッカーをする為には今は弱るわけにはいかない。まだ希望はある。
珍しく外に出ていた奴が帰ってきた。出迎えるために渋々玄関に向かう。教え込まれた無様なポーズをとっていないと、後が面倒なことになる。俺が両手で抱えるほどの荷物を片腕で軽々と持ち上げる姿に、身が竦んでしまった。その箱が俺の眼前に得意気に掲げられた。
「俺にプレゼントか? 安物だったら承知しないからな」
ぼんやりと霞む視界の端に、見慣れた紫色がちらついた気がした。震える手でずっしりとした重みのある箱の蓋をゆっくりと開く。
「あ?」
太腿の付け根からその先がふたつ、肩から先がふたつ。まだ鮮やかな血がうっすらと断面に浮かぶ、一揃いの人間の四肢だった。
「なんだこれ… 誰のだよ」
嫌な予感がする。箱の中から目を逸らすように辺りを見渡して、蓋の端に貼られたシールに気づいた。ネスだ。あどけない顔付きと人当たりの良い表情は見る影もなく、何かに急き立てられたような常軌を逸した眼差しに、ぐったりした様子ではあるが、ネスだ。どうしてここにネスの顔写真が。この箱に入っていたのは手足で、このシールがラベルだとしたら――
吐き気が込み上げてくるのに、何も胃に入れてないせいで胃液の苦味しか感じない。
奴は何処にあるのかも知らなかった台所から、大ぶりのナイフを持って来たところだった。表情のないそいつが、ニタニタ笑っているのが分かってしまった。
「おい、ネスを何処にやった? 答えろよ。 おい!」
返事が返ってくるとは思っていなかった。掴み掛かったが易々といなされ、膝をつかされて箱にもたれ掛かる姿勢で固定された。血の気を失った皮膚で視界がいっぱいだ。棺のようにも見える。
俺の喚く声も意に介さず、クソ青異星人はまた背後から俺を貫いた。頭のどこかでぶつりと張り詰めていた糸が切れるような音が聞こえた。
「ァアアアアアアアアアアッッ!」
がつがつと容赦なく突き立てられて、脳が揺さぶられる。頭がおかしくなるほどの快感から逃れようと、しがみ付いた縁の向こうにある、ごろんと転がるわずかに熱を残した腕を手繰り寄せて、指先に縋り付く。本当にネスだ。シュートが決まればロータッチで合わせ、俺の髪を手入れさせたあの手だ。
ごめん、ネス。俺が日本に行こうと言い出さなければ良かった。あの時、お前と離れなければ良かった。お前をこんな姿にさせてしまうなんて、思ってもいなかった。
ようやく後ろのクソゴミカス野郎が果てて、動きが止まった。引き抜いた直後の隙を突いてナイフを掴む。そのまま一思いに首を掻き切ってしまいたかったが、腕を握り込まれてしまって遂げることは出来なかった。
「生かすも殺すもお前達次第って言いたいのかよ…」
もう何も見えなかった。見渡す限りの絶望とは、こんな色をしているのか。
おもむろに箱を探った奴が、左脚を掴み上げる。ぷらんと吊り下げられ、晒すように持たれたそれから目を背けた。先程ですら直視できなかった、関節が柔らかくて、数々の巧みなパスを生み出してきた、魔術師の脚。
目を瞑った分過敏になった耳に入ってきた、くちゃくちゃと品のない咀嚼音は、まさか、
「なっ、ぁ、やめ、やめろこのクソ野郎! 死ねっ、やめろ! 返せよ!」
取り縋った勢いのまま顔を近づけられて、口の中に広がる鉄の味に、意識が遠のいた。