ローの弟は惨劇に声を奪われた

ローの弟は惨劇に声を奪われた

幸せトラファルガー家・滝落ち・ナイショ話等書いた人


・筆者はアニメ未履修のため、原作で描写されていない一部の展開に捏造が挟まります。ご了承ください。


【在りし日のフレバンス】

 地面も草木も、新雪のような白さ。おとぎ話のごとく幻想的な街並みを誇り、『白い町』と呼ばれたその国の名は“フレバンス”。

 フレバンスの一角に構える病院の廊下に、パタパタと軽やかな足音が響く。

 足音の主は片手に画用紙を一枚握った小柄な少年だった。彼の走りに合わせて、柔らかい茶髪がふわふわ跳ねる。リスのようにくりくりとした大きな目が、窓から穏やかに差し込む日差しを受けてきらきら輝いていた。

 目指していた部屋の前で、少年はピタッと立ち止まった。ふぅ、ふぅ、と乱れた息を整えながら小さなこぶしを握った。


「兄さま、父さま!あけてっ」


 ココンッ!と軽快なノックを鳴らして、少年は中にいるであろう父と兄をじいっと待つ。時折、大切そうに両手で持った紙をちらちら見下ろしていると、ガチャリとドアが開かれた。


「どうした?ルカ」


ルカと呼ばれた少年を温かいまなざしで見下ろしているのは、彼の父親。国一番の名医と名高く、眼鏡の奥にある黒い瞳には知性が窺える。


「遊びたいならもうちょっとだけ待ってくれるか?あと少しでキリのいい所まで終わりそうでさ……」


 父のすらりと伸びた足元のそばに立つのは、ルカの兄であるローだ。父とよく似た雰囲気を漂わせる彼はやりかけの勉強が気になるらしく、チラリと部屋に置かれた机の方を見た。


「あのね、家族みんなの絵を描いたんだ。もう母さまとラミには見せたから、兄さまたちにも見て欲しくって……」


 ルカはおずおずと長方形の画用紙を二人に差し出した。覗いてみると、紙面いっぱいに描かれていたのは家族全員が笑顔を浮かべた姿。父と母が仲睦まじく寄り添い、その前で手を繋いだ子どもたち。ローを真ん中に、ルカと妹のラミが左右に立っている。ルカもラミも兄が大好きだから、二人とも手を繋げるようにした。

 家族全員の特徴を捉えながら幸せいっぱいな様子が伝わってくる絵に、父は自然と頬を緩めた。兄も目を輝かせ、「じょうずに描けたな!」とルカを率直に誉める。


「本当にいい絵だな、見せてくれてありがとう……嬉しいよ」

「えへ、へへへっ……」


 父から撫でられ、はにかみつつもルカはふんにゃり微笑んだ。柔らかな輪郭のほっぺたがジワリとりんごのように染まる。大好きな父と兄から褒められたのが嬉しくって、あからさまにソワソワと浮き足立っていた。不意に「そうだ」と父が声を上げる。


「この絵、飾ってもいいか?これを見たら、診察や治療で疲れても元気が湧いてきそうだ」

「本当!?……うん、いいよ!ありがとう父さま!」


 パッと弾けるような笑顔を見せたルカの頭を、父は心底愛おしげに撫でた。

「……それでね、父さまがその絵をきれいな額縁に入れてくれたんだ!」

「良かったじゃん!僕もその絵見てみたいなぁ〜!」

「それなら今度遊びに来ない?」


 明くる日、そんな風に学校の帰り道で友達と仲良くお喋りをしていたときだった。不意にルカは大事なことを思い出した。


「……あっ、そういえば用事があるんだった……!ごめん、ちょっと急いでるからまた明日ね!」

「うん、またね!ところで用事ってなぁに?」


 友達からの問いにルカは多少視線を彷徨わせると、照れ臭そうに答えた。


「花屋に、行くんだ」

 

 “用事”を済ませたルカは、通っている教会のシスターが一人でいるところを見計らって声をかけた。


「こ、こんにちは!シスター!」

「あらルカくん、こんにちは!元気な挨拶ですね」

「う、うんっ……!ありがとう……えっとね、これどうぞ!」


 まごついていたルカは後ろ手に隠していたものを、シスターへ勢いよく差し出した。

 それは小さな花束だった。中心にあしらわれているのは、淡い桃色のバラに柔らかな黄色のガーベラ。隙間に空色のブルースターが差し込まれ、周囲を白いかすみ草がふんわりと囲んで引き立てている。

 パステルカラーでまとめられ、丁寧にラッピングが施された可愛らしい花束にシスターは「まぁ!」と目を輝かせた。


「とてもかわいらしい花束ですね、本当に私がもらっても?」

「うん……!シスターへの、プレゼントだから」


 少年からはにかみながら手渡された花束を、シスターは両手で大事に受け取った。

 シスターの一挙一動に、ルカの心臓はドキドキと鳴りっぱなしだった。なんせシスターは初恋の相手、今もラミからのアドバイスを参考にして必死にアプローチしている最中だ。


(これで僕のこと、ちょっとは意識してもらえるかな……)


 緊張からルカはぎゅっと上着の裾を握りしめたまま、シスターの反応を窺うように上目遣いで見上げる。そんないじらしい姿に、彼女はキュンッと母性をくすぐられた。


「ありがとうね、ルカくん……!大事にするわ!」


 花束にも負けないほど可憐な笑顔に、ルカの頬がぽうっと染まる。少年の幼い恋心は膨れ上がるばかりだった。



「そんな感じでね、シスターに喜んでもらえて……えへへッ、ラミのアドバイスのおかげだよ!」

「本当!?良かったぁ!」


 そう語る兄の締まりのないゆるゆるな笑顔に、ラミはつられてニコニコと笑みを浮かべた。ちょっとおませさんなラミは、ルカからもたらされる結果報告という名の甘酸っぱい惚気が楽しみで仕方ない。兄の初恋を応援しながら、いつか自分にも訪れるであろう恋に落ちる瞬間に夢を膨らませていた。


「このままアタックし続ければ、きっとちい兄さまの気持ちにも気づいてもらえるよ!」

「うん、ちい兄さまがんばるよ……!」

「応援してるからね、私!」


えいえいおー!と張り切った二人が腕を掲げたところに、ルカの自室のドアがコンコンッとノックされた。急いでルカがドアを開けに行くと、ローがひょっこりと顔を出した。


「なにしてるんだ、二人とも?」

「ナイショの話!ねー、ちい兄さま!」

「う、うんっ……!ナイショ!」


 ルカがシスターに恋をしていることは、他の人に知られるのは恥ずかしくってアドバイザーのラミとだけ共有している秘密だ。二人で一緒に口の前に人差し指を立てて内緒アピールをすると、ローは多少腑に落ちない表情を浮かべて「変なイタズラだけはよせよ?」と念のために注意した。


「ところでルカ、このまえ勉強で分からないことがあるって言ってたよな?見てやるから教科書持ってきてくれ」

「いいの?ありがとう兄さま!」

「兄さまたち、お勉強するの?じゃあ私、自分の部屋で遊んでくる!」


 兄たちの勉強の邪魔をしないように部屋から出ようとした妹の背中に、ルカが「ラミ!」と声をかけた。


「次もよろしくね!」

「うんッ、任せてちい兄さま!」


 兄に頼られてご満悦そうに胸を張ったラミは、ご機嫌に弾むような足取りで部屋を去っていった。妹を見送ってから、ルカは本棚に差した教科書を持って、ローが待つ勉強机のもとへ小走りで駆け寄った。


「待たせてごめんね兄さま!お勉強教えて!」

「あぁ。それで、どこが分からないんだ?」

「あのね、この問題の式の作り方がよくわからなくて……」


 算数の教科書をめくり、躓いていた文章題のページを開いてみせる。ローは問題文にざっと目を通し、この問題文には引っ掛けがあると一目で理解した。


「確かにこの文章だけだと、一見すると式を作るのに必要な数が揃ってないように見えるな。だけど、ここからそこの数を引いてみると足りなかった分の数が出てくるんだ」

「そうなんだ……!」


 出されたヒントを頼りに計算を進めていくと、やがて解が導かれた。答えのページで確認してみると、まったく同じ数が正答として記されている。ルカに解き方を教えた当人から「よくできたな」と赤丸が解答の上にくるんとつけられた。

 問題を理解できた達成感が訪れるとともに、ルカの胸の中に小さな不安のもやが生まれた。兄には天才と言っても過言ではない頭脳がある。10歳にして名医である父から直々に医療を学び、難しい医学書を読み進められるほどに……それに比べて自分は、医学書よりずっと簡単な教科書の問題なんかで躓いている。


「こんなのでぼく、お医者さんになれるのかな……」

「ルカも医者になりたいのか?」


 ローから投げられた問いに、ルカは目をぱちくりと瞬く。


「……おうちがお医者さんだから、ぼくもそうなるのかなぁって」


 今までなんとなく、ルカはそう思っていた。だけどよく考えてみたら、“なりたい”かと言われるとちょっと違うのかもしれない。顎に指を当てながらルカが首を捻ると、ローは弟の考えを察したようにこう告げた。


「お前はお前のなりたいものになればいい、家は俺が継ぐから心配すんな」


 そう笑ってみせた兄の頼もしい言葉に、ルカのまん丸な両目が輝く。

────やっぱり兄さまはかっこいいや……!


「うん……っ!わかった!」


 兄はいつだってルカがわからないことを教えてくれる。疑問を前にして戸惑う自分の手を引いて、その先にある道を示してくれるのだ。


(ぼくのなりたいものかぁ……まだ何がやりたいのか、よく分からないけど……。父さまたちや兄さまみたいに、人の役に立てることがしたいなぁ)

 

 誰かを助けられるような、誰かの力になれるような。


(……海兵さんなんていいかも!)


 ルカの愛読書“海の戦士ソラ”の主人公であるヒーロー“ソラ”みたいに悪者を倒す、両親の白衣と同じ真っ白な制服をまとった人たち。大人になって逞しくなった自分が彼らの一員になって、揃いの制服を身につけた姿を想像するとワクワクした気持ちが湧き上がってくる。

 そんな“いつか”の未来に夢を馳せ、ルカは穏やかに目を細めた。

 ……こんな幸せがずっと続くのだと、疑わなかった。


【惨劇】


 フレバンスに、身体中が白く変色して痛みを訴える病人が現れ始めた。

 発症者は一向に減る様子が無く、むしろ加速度的に増えていくばかり。自分、家族、シスターや一緒に教会に通う友達、他にもたくさんいる身近な人たち。みんなの肌がどこからか白く変色していく。

 両親の表情が一向に晴れない。病に苦しめられる患者を救う手立てが未だに見つからないからだ。治療の研究を続けてはいるが、それより先に多くの患者が倒れていく。鉄の国境が築かれて、国外へ治療の手を求めに行くことさえ阻まれる。

 荒廃の一途を辿る国に、フレバンスの国民たちは心を曇らせていった。


 “子どもだけは逃してくれる”という避難船に乗るよう勧めてくれたシスターの誘いを一旦断って、トラファルガー兄弟は病に臥せる妹を見舞いに来ていた。


「お兄さま、ちい兄さま……体がいたいよ……体が、どんどん白くなる……」

「もう少し辛抱しろ、父さまは国一番の名医だ。きっと治してくれる」


 苦しげに訴える妹に、兄二人は手を握って励ましてやることしかできない。無力感に苛まれながらも、不安にさせないようにどうにか笑顔を形作る。恐慌する街のざわめきを「祭りだ」と誤魔化したローに続いて、ルカも妹に話しかけた。


「そうだ!元気になったらぼくたちとお祭りに行こうよ、ラミ!父さまと母さまも一緒にさ!」

「……うん、約束ね」


ちょん、と立てられたラミの小指に、ルカは自分の小指を絡めた。


「そうだね……約束だよ」


 果たされる見込みの薄い約束でも、それで少しでも妹の命を繋げるなら。「やったぁ……」と力なく微笑む妹に、笑い返すのが精一杯だった。


 妹の部屋を後にして、兄と共に病院の廊下を歩いている途中。耐えきれず、ルカは弱音を吐いた。


「ねぇ、兄さま。本当に治るのかな……病気……ッ」


 ベッドに横たわる妹の前ではどうにか明るく振る舞っていたが、日々重なる不安をどうしても飲み込みきれなかった。

 身体中を苛む痛みで妹が苦しむ様子を見るたび「どうして自分は何もしてやれないのか」と心を締め付けられる。同時に、「いずれ自分もこうなってしまうのか」という考えが脳裏をよぎってしまう。

 今にも泣き出しそうに顔を歪めた弟を元気づけるように、ローは小さく震える手をガシッと握りしめた。


「泣くなルカ、父さまたちを信じろ!きっといい治療法が見つかるはずだ!」

「……うん、そうだよね」


 なんの根拠もない励ましだ。それでも兄の言葉というだけで、ルカはほんの少しだけ未来に希望を抱けた。


 直後、希望は銃声によって呆気なく砕かれた。

 二人で両親に会おうとしていた時だった。突然どかどかと乱暴な足音が近づいてきて、異変を感じたローが咄嗟に近くにあった掃除用具のロッカーへ飛び込み、立ちすくむルカを引っ張り込んだ。急いでドアを閉じて、何事かと声をあげようとした弟の口を塞ぐ。数分も経たないうちに、ロッカーの前をいくつかの人影が足音と共に通り過ぎていった。兄弟が向かおうとしていた、両親がいる部屋の方へ。

 数発の銃声、悲鳴。


『感染者二名、駆除』


 淡々とした声が、どこかへ報告を上げた。

 いきなり口を塞いできた手を振り払おうとしていたルカの動きが止まり、かたかたと震え出す。弟の口を覆うローの手も、同じように。二人の頭の中では、全く同じ最悪のシナリオが描かれていた。

 再び足音がロッカーへ近づいてくる。無意識に二人は見つからないように、息を止めていた。もと来た方向へ引き返していった人影が、ローたちに気づかずにだんだん離れていく。

 やがて静かになったとき、ローとルカはロッカーから飛び出した。少し前まで真っ白だった廊下には土と赤色混じりの足跡。それは両親がいるはずの部屋に続いていた。


 扉は開け放たれたままだった。両親は折り重なるように、血溜まりの中で倒れていた。


「母様ァ〜ッ!!父様ァ〜ッ!!!」


 悲痛な声を上げて、ローが両親へ駆け寄る。その後を追うように、ヨタヨタとおぼつかない足取りでルカは歩み寄った。目の前にあるものが信じられない。信じたくない。それでも懸命に近づいて、倒れた二人の傍らで膝をついた。震えたまま、だらりと力なく床に放り出された母の手を取る。


“ルカってば、お兄ちゃんになっても甘えんぼさんね”


 未だ体温が残っているのに、いつものように笑いながら手を握り返してはくれない。


「父さま、母さま……!!死んじゃいやだッ、起きてよぉ……!ねぇっ、起きて……」


 兄弟がどれだけ必死に呼びかけても、ゆすっても、両親が起き上がることはなかった。銃痕から溢れた二人分の血液が、床の血溜まりを広げていく。跪いた足に伝わる、生温い血の温度。額に入れて飾られた家族の絵に、散った血飛沫。それは両親と妹の顔を赤く塗りつぶしていた。

 しばらくして、ローが静かに立ち上がった。グスッ、と鼻を鳴らしながらも、強い決意を秘めた目でルカを見つめた。


 「ルカ、シスターのところに行くぞ……!ラミを運ぶのを、手伝ってもらおう」


 ルカがハッと息を呑んだ。両親の死を目の当たりにして濁った目に、光が戻っていく。まだ自分たちに残されている妹の存在を思い出した。“せめてラミだけでも守らなければ”という使命感が、再びルカの足を立ち上がらせた。


 「……ッうん!」


 全身に痛みを訴える妹を運ぶとなると、まだ体格の頼りない兄弟二人だけでは苦しませてしまう。大人の手を借りようと、ローとルカは病院から急いで駆け出した。

 ……しかし、差し伸べられた救いの手を信じたシスターと友達は、物言わぬ姿になって無残に転がっていた。


「シスタァァ!!!みんなァァァア゛ッ!!!」

「そんな、嘘、嘘だ……ッ!!」


 地面に落ちたロザリオ。その近くにつけられた土をえぐる爪痕は、シスターが最期に味わった苦しみと無念を形に残していた。


「ッ……!」


 初恋の人の亡骸に対して、ルカは一言も言葉を紡げなかった。

 その代わり、地に伏すシスターの涙に濡れた頬をそっと拭った。それから彼女のロザリオを手に取り……教会でいつもやっていたように祈りを捧げた。せめて、天国では彼女たちの魂が浮かばれるように。

 祈りを捧げ終えたルカは、ロザリオを戻さずにズボンのポケットへ忍ばせた。


(ごめんなさいシスター、勝手に持っていって……でも、ぼく……シスターが大好きなことを忘れたくないんだ。あなたが大事にしていたロザリオさえあれば、きっといつでも思い出せるから……!!)


 心の中でシスターに謝るルカを現実へ引き戻すように、肩が叩かれた。

 

「ルカッ……病院に戻るぞ……!!俺たちだけでもラミをどうにかして連れ出さないと!病院だっていつまで保つか分からない!」

「ッうん……!」


 これ以上失うまいと、ローとルカは必死にそれまでの道のりを引き返した……しかし二人が辿り着いたとき、既にそこは轟々と炎逆巻く地獄へ変貌していた。


「ラミッ!ラミィーッ!!……僕が、ぼくがッ助けるから!今行くからッ!!!」


 錯乱して、ルカは炎の中へ飛び込もうと駆け出した。それを行かせまいとローが後ろからきつく抱きしめる。


「だめだ、駄目だルカ!行っちゃだめだ、死んじまう!ルカまでおれを置いていくなよッ!!」

「やだッ、離して兄さま!!だってラミが!あの中に……ラミがいるんだ!!助けにいかなきゃ、ラミがあぁっ!」


 ローだって本当は妹を助けに行きたかった。だが、この火勢とベッドから動けないラミでは、どう足掻いても生存は絶望的だった。たった一人だけ残された家族のルカを……どうしても、死なせるわけにはいかなかった。わぁわぁ泣きじゃくって腕から抜け出そうと暴れる弟を、必死に抑え続ける。


「ラミ……ラ、ミィ……あ……あ、うぅッ……!」


 やがてルカは糸が切れたように、カクンと膝をついた。そのままうずくまって、地面に額を擦り付ける。ぐしゃぐしゃに頭を掻き混ぜる指に絡まった髪が、ブチブチと音を立てて千切れていく。

 ローも限界だった。ふらりと崩れ落ちるように跪き、天を仰ぐ。

 血溜まりに倒れる両親。地面に転がる教会の友達とシスター。眼前の燃え盛る病院。暗雲立ち込める空を背景に、チカチカとその目に映した惨憺たる光景がフラッシュバックする。掠れ声が「あ……」と漏れた。それは徐々に「う……あ゛ッ」「あ゛あァッ……!」と嗚咽の形を成して……喉から張り裂けんばかりの慟哭に至った。


「……ッヴ、う゛あ゛ぁぁぁぁあああッッ!!!!」


 めらめらと天を焦がすほどに立ち昇る炎が、片や啜り泣き、片や慟哭する兄弟を照らす。影が、長く伸びていた。


【国境を越えた先】


 ──鉄の国境を越えて、珀鉛病罹患者の死体をどこかへ運ぶ荷車の中。ガラガラ鳴る車輪の音を聞きながら、ルカは呆然と目の前を見つめていた。


(……シスターへ花束を贈ったとき、一緒に花を選んでくれた花屋のお兄さん)


 重なり合う死体の山の中で、見覚えのある顔と鉢合わせた。他の遺体と同じく白いアザに蝕まれ、苦悶の表情を浮かべていた。あまりにもむごい光景にぎゅっと目を瞑っても、鼻をつく腐臭と火薬と血の臭い。冷え切った人肌に埋もれながら、ルカは唯一体温を感じる兄の手を離すまいと握りしめる。

 不意に、大きく荷車が傾けられた。ぐらりとバランスが崩れて、他の死体と一緒に兄弟の身体が転げ落ちる。自分たちが落ちてきた衝撃に耐えきれず、誰かの身体がグチャリと崩れた。さらに上からどさどさ落ちてくる死体の重みがのしかかる。それでも、荷車を押していた男たちに生きているのを気づかれないよう二人は必死に息を殺した。繋いだ手が、一気に汗ばむ。


「あぁ疲れた……何回運んでも終わる気がしねぇ」

「我慢しろ、これも仕事のうちだ……」

「……まったく、嫌になるぜ」


 足音と共に、話し声が遠ざかっていく。やがてその場が静まり返ったとき、二人は死体の山から抜け出そうと、周りを取り囲む冷たい身体の壁を掻き分けはじめた。隙間へ手を伸ばし、物言わぬ誰かを押し退ける。

 時にルカの手の中で腐肉がぶちゅりと潰れた。ローが押し上げた身体の傷口が裂けて、血が滴り落ちた……もうやめたいと二人は何度も思った。

 それでも、自分の隣には生きている兄弟がいた。きっと自分が止まれば相手も止まってしまうだろう。ローもルカも、お互いの命を諦めることだけはしたくなかった。

 力を振り絞って、僅かに差し込んだ光の方へ腕を突き出した。


 二人が運ばれてきたのは、埋め立て地だった。高い金属フェンスに囲まれており、その中で何百、何千もの人たちが折り重なった小山がいくつも積まれていた。奥の方に掘られた大穴へ、大きな機械が“山”のひとつを押していく。

 やがて動かされた人の山が穴へ差し掛かった。ドドド、と音を立てて端の方から崩れて……全部穴の底へと消えていった。


(……どうして?どうして、人をゴミみたいに捨てるの)


 穴へ落とされた人たちがそんなことをされていい理由が、ルカには全く分からない。

 次の山を動かそうとしているのか、機械が方向転換し……その機体に描かれたマークに目を疑った。それは、カモメのマーク。海軍の象徴だった。


(なんで……海軍の人たちは、僕らを守ってくれるんじゃなかったの?助けてくれるんじゃ……なかったの……?)


 かつて抱いていたほのかな憧れが、色を失ってぼろぼろ崩れ落ちていく。


(ああ……もう、なにも見たくない)


 俯いた拍子に、乱れた前髪がぱさりと落ちて視界を遮る。ルカがそれを払いのけることはしなかった。

 

 このまま死体の山の中で留まってはいられない。狭い隙間からなんとか身を捩って這い出したあと、他人の気配から身を潜めつつ兄弟は出口を探した。

 フェンス沿いに移動していると、外側へ向かって雪崩れ落ちた死体の山があった。その重みに耐えかねて、金網の一部が破れている。ローやルカくらいの体格ならならくぐり抜けられるくらいの隙間ができていた。


「ルカ……こっちだ。出られそうな穴がある」


 兄の言葉に頷いて、手を引かれるままついていった。ローが先に金網をくぐり、ルカもそれに続く。……ひとまず、“捨てられる”危機からは抜け出した。

 この埋め立て地は海辺に近く、フェンスの向こう側に広がるごつごつとした黒い岩場の奥に水平線が見えた。少し離れたところには港があるのか、船が何隻も停まっている。あてもなく岩場を彷徨い、二人が揃って座れるくらいの広さがある平坦な場所を見つけた。そこで一旦、腰を下ろすことに決めた。


「…………」


 座り込んだ二人の間に、会話は無かった。当然だ。口に出すには憚られるほど凄惨なものばかり見て、聴いて、感じてきたのだから。しばらく二人は魂が抜けたように呆然と遠くを見つめていた。

 それから何十分経った頃だろうか。絞り出すように、ローは弟へ問いかけた。


「……怪我は、ないか」

 

 だいじょうぶ。反射的にルカはそう答えたはずだった。

 しかし言葉は声にならず、「ヒュウ」と空気が喉を通り過ぎただけだった。不思議に思ってもう一度答えてみるが……声は出ない。どうしても信じられず、何度も試す。結果は変わらない。ヒュウヒュウと息が抜けるばかりだ。

 何も言わずはくはくと口を動かしている弟に、ローは何かただならぬ事態を察知した。


「……おいッ、どうした?一体何があったんだ」


 どうにかして現状を伝えようとルカは兄の手を取り、手のひらに指で「こえがでない」となぞった。その文章に、ローが目を見開く。


「ッなんだって……!?」


 直後、両肩を勢いよく掴んで「他にどこか、身体におかしいところは!?」と問い詰めてくる兄に対して、ルカは申し訳なさそうに眉尻を下げて首を横に振った。他に異常は見られなかったことにローは多少安堵しつつも、失われた声が気掛かりで仕方なかった。今までの記憶をひっくり返して、心当たりのある症例を探り出す。


「ッまさか……!」


 ローの脳裏に、かつて父から“その病気”について教えてもらったときの記憶が蘇る。


(世の中には薬や手術で治せない病気もある……それは、心の病だ)

(例えば過去に体験した苦しいことや恐ろしいことのせいで、ものが食べられなくなったり身体が動かなくなったり……時には声が出なくなってしまう人もいる)

(こういう病気に特効薬は存在しない。そして、いつ治るかも分からない。気長に付き合わなければいけないものなんだ)


 そう言った父が指でなぞっていたのは【心因性失声症】の文字列。これが弟の人生に長く付き纏うことになる病名だと、このとき初めてローは理解した。


(……故郷も、家族も、友達も奪われた)


 度重なる絶望で、既にローの心はミシミシと悲鳴をあげていた。それでも、守らなくてはいけない弟がそばにいた。だから挫けずに耐えられた。

 だが、最後の拠り所である弟さえも損なわれた。


(たった一人だけ残された弟の声まで奪うのか……!!)


 怒り、悲しみ、憎しみ、恨み、無力感、不甲斐なさ。あらゆるものが入り混じったドス黒い感情が噴き上がった。腹の中をのたうち回る破壊衝動で、全身がワナワナと震える。


「ちくしょう……ちくしょうッ……!!おれたちが一体何したっていうんだ!」


 ぐらりと煮え立った狂気が、鎌首をもたげた。憎悪に満ちた涙声が、自らに襲いかかった理不尽への報復を宣言する。


「こんな、クソみてェな世界……!!全部ぶっ壊してやるッ!!!」


 ローは感情のままに叫び声を上げた。息を潜めて細い声で話してばかりいた喉がビリビリ震え、耐えきれずゴホゴホと咳き込んだ。


 気づけば、目の前にいる弟はびくびく怯えながらローを見つめていた。乱れた長い前髪の隙間から覗く、こぼれ落ちそうなほど涙をいっぱいに湛えて潤んだ瞳。そこから一滴のしずくが、ツゥ……と頬を伝い落ちる。

 弟の涙に、ローは正気へ引き戻された。ハッと我に返る。

──誰より不安がってる弟の前で、おれは何をやってるんだ!

 ひっく、ひっくとしゃくりあげるルカの頭を胸元に押しつけた。半ば強引に懐に引き寄せた弟を、ひしと掻き抱く。自分より一回り小さな体躯から、これ以上……何ひとつ取りこぼさぬように。


「ッルカ……!すまねえ、怖がらせて……」


 大丈夫だと応えるように、そっとローの背中へ華奢な腕が回された。キュッと弱々しく抱き返してくる手の感触に、鼻の奥がツンと痛む。


「おれはまだお前の声を治してやれない……だけど、お前だけは!絶対、絶対に守ってやるから……!!」


 ルカはきつく抱きしめられた腕の中で、こくりと頷いた。

 兄弟を襲う数奇な受難は、まだ幕を開けたばかりだ。


人物紹介

トラファルガー・ルカ(9歳)…トラファルガー家次男。争いを好まない温厚な善人気質。内気ぎみだが身内や仲良しな人に対しては明るい。兄さまを心から慕っている。

フレバンスの惨劇で受けた精神的なショックにより、声を失った。惨劇後は何も見たくなくて前髪で両目を覆い隠しており、どこぞの某ンキホーテさん家の弟さんを彷彿とさせる。

ただでさえ湿度の高いドレスローザ編の加湿器になる未来が待ってる。

全部怖いし逃げ出したいけど、兄さまからは離れたくない。


トラファルガー・ロー(10歳)…トラファルガー家長男。頭脳明晰かつ冷静で面倒見がいいが、割と天然だし自由人。弟のことを大切に思っている。

フレバンスの惨劇であらゆるものを失った中で、唯一残された弟の存在をよすがにしているため愛が重く過保護になる。目つきこそイカレたが守るべき存在が残っているので原作よりはスレ方がマシ。

未来の我らが死の外科医。

全部憎いしぶっ壊してやりたいけど、弟だけは守りたい。


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