マフヴァーシュの護符

マフヴァーシュの護符



 どうも皆様毎度お馴染み、貘でございます。

 貴様など知らん、という方は庭の蚊殿よりも儚き命で終わりたいものとお見受けいたします。人を苛む悪夢を喰らう霊獣でございます。

 これまで定期的に憂いを帯びたCEO殿の悪夢を大変美味しく頂いていたのでございますが、ちと最近趣が変わりました。今回はその話を致しましょう。

 今日もそろそろ悪夢が育った頃合いかと、夜半に寝室に参上した折でございます。CEO殿やはり汗を流しシーツに頭を擦り付けながら呻いておられますが、その日はどこか反応が薄いように見えました。夢を啜ってみても、どうにも歯応えが悪うございます。

 これはさてどうしたことかと考えていると、ふと枕元に遊牧民族などがよく使う悪夢除けの護符が置いてありました。確かたまに通話している元婚約者殿と御学友殿の知己に、そう言った物事が得意な手合いがいたと記憶しております、恐らくそこから貰ったのでしょう。部屋の外でざまあみろと言わんばかりに猫共がフシャフシャ言っておりますが、そろそろCEO殿は彼奴等の餌代から絆創膏代を差っ引いた方が宜しいかと。

 まあそれは兎も角。凡愚の横槍ならいざ知らず、御本人が余り魘されぬよう方策を採ったのであれば霊獣とて否やとは申せません。とはいえこの様子では悪夢が育つのが少々遅れる程度と判断し、もう少し間を空けることに致しました。



 話が急変したのはその後のことでございます。暫くお預けになった御馳走はさておき、どなたか別の方の悪夢でもと思案していたところこの貘めの尻に噛み付くものがありました。何時ぞや霊格化した小蛇でございました。此奴めは一体霊験あらたかな瑞獣の尻を何だと思うておるのでしょう。しかしあまりにも小煩いので話を聞いてやって驚きました。

 駆け付けた寝室では、CEO殿が御自身の指を御自身の喉に血が出るほど食い込ませておいででした。周りで猫共がみ゛ゃーみ゛ゃー必死で泣いて猫パンチしておりますが深く深く悪夢に囚われた者が目覚める訳もなく。流石の事態に貘めも腹を括ってその精神に喰らい付きましたが──一個人で抱えるには、それはあまりにも大きな悪夢でございました。

 『芋粥』の話を皆様ご存知でありましょう。どんなに好きなものでも美味いものでも度が過ぎれば当分見たくなくなるのです。思い出すと未だに胸焼けが致します。

 ひたすら悪夢を千切っては呑み千切っては呑み。CEO殿の呼吸が正しく戻ったのをようやく確認して改めて寝室を見回したのは朝が近づいてきた頃です。先日あったはずの護符はどこにも見当たりませんでした。

 その頃には自分も胃が口から出そうな気分になっておりました。いや腐っても霊獣ですのでそのような真似は致しませんが。ただ腹は破裂しそうだわ尻はまだ痛いわで余りの事によほど腹に据えかねていたのです。普段使わぬ物理でCEO殿の家周辺の映像監視機器(不審なものを含む)を全て叩き壊した程に。

 そうして、自分は彼の意識に飛び込んだのでございます。



 茫漠とした空間の中に、CEO殿は正座して困惑した顔を浮かべておいででした。

 まあ無理もないでしょう。先程まで最高級の悪夢を見ていたと思ったら、正座させられ目の前には見たことのない生き物がいるのですから。

 背後に宇宙を背負ったような顔で、お前は、と誰何なさいます。ですので「貘でございます。先程まで貴方が見ていた悪夢は私めがむしゃむしゃ食べてしまいました」と端的に説明申し上げました。

 「そうか」、と仰った視線が迷子のように彷徨って、膝に置かれた手がきゅ、と握られました。それがどうにも苦悶に喘いでいた寝顔とちぐはぐで、余計に腹がむかむかした気分でございまして、つい自分は捲し立てておりました。

「ご存知無いのですか。悪夢で人は死ぬのですよ。よもや、そういった願望がおありで?」

「死にたかったわけじゃない。…が、俺は助けてもらったのか、お前、いや貴方に」

 まあそういう事になりますねと、貘めの溜飲はそれで幾らか下がりました。この際悪夢を定期的に啜りに通っている事実など棚に上げておきます。

「死にたい訳ではないのでしたら、護符をどこにやったんです」

「…ああ、アリヤ・マフヴァーシュの護符か。あれは、返した」

「ハ?」

 思わず語気が粗くなったのは致し方ないでしょう。このCEO殿、御自身の観察力と記憶力と意志の強さを舐めておられる。死にたくないと自覚しつつ死ぬ程の悪夢を思い描いてただ受け入れようとする。ヒトならぬ身であっても理解ができません。

 こちらの険しくなった気配を、彼は桃色の前髪の隙間からちらりと見たようでした。青い目がどこか遠くを見るように持ち上がって、独り言のような声が漏れました。背の高い青年が、どこか子供のように小さく見えた気もいたします。


「悪夢でも、父さんに会えるから」


 瑞獣この身が崩れ落ちるかと思いました。ウワアなんですかそんな初恋の人を木陰から垣間見る女子学生、みたいな風情を醸しつつ仰ってることは地獄の三丁目でございます。嗚呼、嗚呼、この方にとっての最大の悪夢でしか現れぬとは。あの御父上確かに俗物ではございましたが何と業の深いことでありましょうや。

 知っておりますよ。これまで何度も頂きました故。悪夢でしか貴方は御父上に会えない。──正しくは御父上が現れる夢は、全て貴方が彼の命を手にかける悪夢に帰結する。まったく、溜息しか出てこない。

「如何に印象深いといえど、結局死ぬところばかり夢に見るのは故人的にもアレかと存じますよ」

「それは自分でもどうかと思う。…だが、そういう夢しか、見れないんだ」

「そこはもっとこう、夢じゃなくて別のものに頼りましょうよ。他の時期の写真とか動画とかあるでしょうアド・ステラ。現世の文明の力に頼りましょう、そうしましょう」

 何故精神世界の獣が物理の記録媒体をお薦めせねばならんのでしょう。ですが夢とは人が生み出すものですが人には制御しきれぬものなのです。CEO殿にはそこのところを重々ご理解頂きたい。思わず目が遠くなりました。

 渾々とした説教が功を奏したのか、少し悲しげな顔ででCEO殿はそうする、と仰ってくださいました。貘めが存在理由(レゾンデートル)まで投げ打った甲斐があるというものです。いやこちらとしても人の悪夢が今日も美味い、のであって死んで欲しい訳ではございませんので。

 とはいえそろそろ時刻が迫ってまいります。現実の部屋も随分な惨状でしたし、CEO殿は身繕いも必要でしょう。監視機器が切れたことで各所に通知も行っている筈。自分は腰を上げて、暇を申し出ました。

「貘めが消えれば、この夢からも覚めましょう。覚えておられるかどうかは貴方様次第」

「ああ、ありがとう…と、言うべきだろうな」

「礼には及びません。鱈腹頂きましたので。ただ今後は莫迦な真似はしないが宜しいかと」

 首筋を指で掻いて、CEO殿は苦笑したようでした。起きたら驚くでしょうね、傷だらけですから。きちんと手当てされますよう。ですが、そんな貘らしからぬ心配も、次の彼の言葉と表情で粉微塵になったのでした。


「…でも、もしまた俺が酷い夢を見たら、食べに来るといい。

 貴方の糧になるのだろう? なら、そんなに無駄なことでもないのだと思える」


 再度、霊獣この身が崩れ落ちるかと思いました。取り敢えずもう少しこまめに様子を見に行こう、そうかたく誓った次第でございます。




end.

Report Page