ポメラニアンの優雅な(?)午後
「あ゛ぁ!?」
「ぴゃっ!?」
突然あげられた大声に驚き、綺麗にころりとすっ転んだマグダレーナは激怒した。いや、生来意思疎通ができる生き物に対し本気で激昂できるような性質でもない彼女基準での激怒は他の人々の基準で「ちょいおこ」程度ではあるのだが、とにかく激怒した。
なんて失礼で野蛮な男なのでしょう。
こちらが親切心で声をかけてやったというのに、なぜそんな怖い顔で見られなければならないというのか。そんな目で睨まれたらたとえ長年の友人であってもびっくりして引いちゃうと思うわよ。そういうの、とてもよくない。
これは抗議の座り込みを行うしかないわね、と彼女は心に決めた。決してドスの効いた大声が怖くて動けなくなってしまったわけではない。レディとしてのプライドにかけて、断じて。
一方ですっ転ばせた方の男は困惑していた。
幾度めかの非常に不本意なやりとりを打ち切られすこぶる不機嫌な中、反射的に後ろからの手を振り払ったと思ったら目の前に毛玉が転がっていたからである。
正確にはフリフリの上着をモコモコに着込んだ女なのだが、何より奇妙なのはその様子だった。
悲鳴を上げすっ転んだと思えば、ぷるぷると震えながらその場に座り込んでいる。
その様子といったら生まれたての子鹿を通り越して死にかけの子兎。この世の終わりを思わせるその姿の哀れさはといえば、見えるもの全てに噛み付いてやらんばかりに怒り狂っていた男がすっかり毒気を抜かれて思わず「すまん」と口にしてしまうほどであった。
暫し、気まずい沈黙が場を包む。
数拍置いてようやく落ち着きを取り戻した女が(転んだレディに対して大丈夫ですかと手を差し伸べることもできないのかしら、これだからチンピラは困るわね)などと超小声で愚痴りながら立ち上がると、震えさせないように努めつつ声を上げた。
「申請を出すんだよ」
「はァ?」
「だから!申請!」
明察秋毫、比類なき察知力と心遣いの精神を持つと自認するマグダレーナは、道の向こうからかろうじて漏れ聞こえてきた会話で目の前の男がなぜ怒っているのかについて自称完璧な答えを見出していた。
つまり、何かとてつもなく腹立たしいことをされ喧嘩に発展しようとしたところを、向こうが「私闘はダメだよ〜」などとのらくら言い逃れようとしているため憤懣やるかたない気持ちが収まらないのだ。
わかるわかる、そういう逃げ方が一番ムカつくのよね。と、マグダレーナは内心大きく頷く。私も兄様が「嘘は言っていないだろう」とか言って適当に言い逃れしようとした時は結構真面目に怒ったもの。
「うちは勝手に喧嘩しちゃだめだから、どうしてもしたいやつはいつも双方の申請で許可を受けた個人訓練って形でやるの。上の方のやつに話通せば結構融通きかせてくれるわよ。………あ、でもいじわるヒューベルトはやめときな。あいつ意地悪だからオマエみたいなやつ見ると粗探ししてくるわ」
よし、ちゃんと言うべき事を言い切ったわね、これで目の前の見るからに頭の悪そうな無礼者も少しは道理というものを弁えたでしょうと視線を走らせてみれば、男の反応は思ったより芳しくなかった。
「…意味ねえよ」
「え?」
「結局相手が受けなきゃ意味がねえ。双方の申請で、っつったろ、お前」
「それは……そうね」
盲点であった。
こんな態度の悪い男と連むような相手なのだから同レベルの知性と暴力性の持ち主なのかなと勝手に思っていたのだが、どうも違ったらしい。
これは困ったことになったわね、とマグダレーナは首を捻る。
困ったり悩んでいる相手を黙って見過ごすべきではないし、一度自分から話しかけてしまった相手なら尚更だ。
しかしながらこちらにもこなすべき用事というものはあるし、今からこの男をさっき話していた相手のところに案内させて「オマエ、こいつと殴り合ってやりなさい」とでも言ったところで事態がなんとかなるようにも思えないし、だいいち、「気性の荒い者も多いから極力距離を置きなさい」という言いつけをあまり破っては兄様に怒られてしまうかもしれない。
「あ、そうだ」
ガサゴソと抱えていたカゴの中を引っ掻き回し、目的のものを取り出す。
思い切りすっ転がってしまったが、中身に問題はなかったらしい。ぽいと放って渡せば、男は驚いたような顔でそれを受け止めた。
「あげる。嫌なことがあった時は甘いものに限るものね」
一番出来の悪いグループのをまとめた袋だけど、私を転ばせるような失礼なやつ相手ならそれで問題ないわよね。どうせスイーツの繊細な味の違いとかわからないに違いないわ!
そんな「失礼はどっちだ」と聞きたくなるような事を考えながら、マグダレーナはそそくさとその場を後にすることにする。
「どうしようもない事だったらすっぱり忘れちゃうのも手よ?ま、それでも食べて元気出しな」
そう言った後こいつが元気を出してまた怒鳴りつけられても困るなぁと思ったが、ここで振り返って「でも怒鳴るのはやめてね」などと言ってはレディとしての風格が台無しである。なので特に訂正などは入れる事なく、華麗に、それでいて可能な限り早回しで足を動かした。
…後に「なんだったんだ…」と疑問符を浮かべる男だけを残して。
「あにさまっ!」
「…レーナ。部屋に篭って刺繍の練習でもしていろ、と言っただろう」
「もう飽きてしまいましたわ。それに…兄様に何かして差し上げたかったんですもの」
今度は見栄え、焼け具合ともに一番いい感じになったやつを集めた袋を取り出し、女は恥じらいがちな乙女のように微笑んだ。
「焼き菓子を作ってまいりましたの。…食べてくださる?」
それが当然の権利だというように歩み寄っても、部屋の主は「無論だ」と鷹揚に頷くばかりである。
互いを深く理解し「度し難き異端」とまで評しながらも、しかしながら根源的な部分で互いの存在を許容しあう。
この二人の関係に許可なく割って入ることは許されない、というのは、この部屋に入る許可を得られるほどの地位を得た人間がまず覚える不文律と言ってよかった。
「腕を上げたな」
「はい、それはもちろん!兄様に渡すんですもの、妙なものは作れませんわ」
褒められて上機嫌になっていたマグダレーナだが、ふと目を他所にやれば案の定気配を消すようにして座っている小憎たらしいすまし顔が目に入った。
ここ数年ほど、兄様はどこかから連れてきた子供をやけに重用して連れ回している。
自身の補佐として育成しているようだけども、まったく、兄様には私がいるというのになぜ他のやつなど連れてくる必要があるのか。
むう、と不満の眼差しを向けてみれば、そのままついと目を逸らされてしまう。
生意気な奴め。ちょっと前まではつつくとおどおど慌てて可愛かったのに、最近は何考えてるかわからない顔でずっとむすっとしている。兄様の真似でもしてるつもりだろうか。根暗なら根暗で、目に見えてあわあわしている方がまだ可愛げがあるぞ。
そんなんじゃ友達にだって何考えてるか伝わらないわよ。…いや、そもそも友達とかいなさそうね。辛気臭いもの。
そんな重ね重ね何様なのかわからない事を考えながら男の方にツカツカと寄っていくと、マグダレーナは手に持っていた最後の一袋を相手の方に押し付けた。
「はい、これ」
「………………はあ」
「何、はちみつ嫌い?先に言っとけよな、そういうの」
「…いえ、その」鼻先にクッキーの匂い立つ袋を突きつけられた男が、長い睫毛に縁取られた目をしぱしぱと瞬かせながら恐る恐る声をあげる。「私にそれを渡してしまうと、貴女の分がなくなりますが」
何を当たり前のことを言っているのだろうか。ちゃんと教師はつけられてたはずだけど、もしかして数学とか苦手なのかしら。流石に1から1を引いたら何もなくなる、なんてことは赤ん坊でもわかるわよね?
じゃあ逆に、私のことを数も数えられないやつだと言いたいのかしら。つくづく生意気な奴め。ちゃんと分量を計れるんだから数字だってわかるわよ。
…などとほんの少し苛立つ気持ちをオトナの余裕で受け流しつつ、マグダレーナは大きく胸を張り自らの名誉を守らんと試みた。
「しょうがないじゃない。ちゃんともう一個作ってきたのに、さっき人にあげちゃったの」
手が疲れるからさっさと取れよとばかりにずいずい押し付けると、男はようやく袋を手に取る。
「…ありがとうございます」
「ふんっ」
そういえばさっきの失礼男に感謝の言葉を言わせるのを忘れたわね。別に言われなくてもいいけど。
ちゃんと元気も出たか気になるし、あとで気が向いたら探してみよっと。
そんなことを頭の片隅に置きつつ、兄の膝に座りに行くマグダレーナであった。