プロローグ(仮)
────トレーニングコースの亡霊。
そんな噂が飛び交い始めたのは、冬を目前にして寒さが気になり始めた頃。
噂の出所は不明。実際に遭遇したというヒトが居たわけでもない。
けれどいつ頃からか、その噂は私たち学生のあいだを走り出していた。
なんでも、夜遅く────……寮の門限をとうに過ぎた、本当の夜遅く。深く深く闇が降り、視界のほとんどを漆黒に閉ざされた深夜。
その亡霊に遭遇したという学生は、大事なレースを目前にして深夜に寮を抜け出し、施錠された校門を乗り越えて深夜のトレセン学園に侵入し、トレーニングコースを走っていたのだという。
彼女は焦っていた。これまでの全てを賭けた大一番が目前に迫っていたから。だからトレーナーにも相部屋のウマ娘にも黙って寮を抜け出し、自主トレに励んでいたのだ。
連日、続けていたのだという。
その夜は予報では満月であったが、厚い雲が空を覆ってとても暗かった。それは彼女の姿を闇に隠してくれるから都合がよく、彼女は誰もいない闇の中、ひとりで自主トレに励むことができた。
ストップウォッチを片手にひとりでコースを走り、本番を想定したトレーニングを続けた彼女は、しかしどれほど走り続けても満足のいくタイムは出ない。
心の焦りを抑えられず、身体を動かし続け、走り続けた。
走って、走って、走って。
数十回目の2400メートル。これが本当の最後だ────……と心に決めてスタートを切り、順調とは言い難いながらも第4コーナーを超えた最終直線。
ここで末脚を爆発させて、得意な大外から追い上げれば必ず1着を取れる。
と、そんな風に。
ため込んだ脚を解放しようとしたところで、背後から、不可解な音を聞いた。
音。
足音である。
細かくリズムが刻まれた、ちょうどいま彼女が発し続けているような力強く大地を蹴り上げるような音。
普段ならば、何も気にすることなく走り続けていただろう。トレーニングコースは自分ひとりで使うわけではないし、周りでウマ娘たちが走る音が聞こえて当然なのだから。
しかし、しかしである。
ここは深夜のトレーニングコースで、周りにヒトがひとりも存在しないことを彼女は何度も確認していた。
だからこれは幻聴だ、本番を想定したイメージの練習だから、脳が勝手にイメージを作り、本番を再現しているのだ────
そう思い込み、思い込むことでその足音から逃げるようにターフを駆け抜けて。
転ぶ寸前のようになりながらゴール板を通過する、その、直前。
背後から彼女を追い続けていたその足音が、風と共に、ゴール板を通過する直前に彼女を追い越した。
耳を疑った。
イメージだと思っていた。
幻聴だと思っていた。
何度も何日も何時間も走り続けたせいで心と身体が限界を迎え、脳までもが限界に達した末に作り上げた幻影なのだと思っていた。
しかしその音は彼女を追い越し、置き去りにして前に出て────
ちょうどその瞬間、分厚く空を覆っていた雲に切れ目が現れて、眩いばかりの月明かりがコース上に射した。
暗闇に慣れた彼女の瞳に突き刺さる月明かりに目を細めながら、それでも前を見んとわずかに開いた、その隙間から飛び込んだ光景に、彼女は。
目を疑った。
走る脚が止まった。
その瞳には、ウマ娘の姿が映っていた。
2本の尻尾を揺らして走る、影のないウマ娘の姿が。
そのウマ娘は彼女を一瞥することなくゴール板を駆け抜け、クビ差で制し────……そして。
『────……違う』
月明かりの中にぼんやりと浮かんだその姿を、そんなひと言を残して、再びコース上に訪れた闇と共に姿を消した。
それ以来、夜中に無断でトレーニングコースを使用しているとその亡霊が現れるという噂が学園を回り始めた。
オカルト好きのウマ娘が何度も夜中のコースを走ったが、実際に遭遇したという声は聞かない。
私が聞いたその話も、誰かからの又聞きだったから────
噂は噂。それも出所のわからない都市伝説、ともすれば七不思議とも呼べるほどの曖昧なもの。
この話もきっと、色々なところで尾鰭がついて大きく膨れ上がってしまった噂話にすぎない。
けれど。
火のないところに煙は立たない。
噂話には必ずその元がある。
────私がその亡霊と出会ったのは、11月に入り、トゥインクルシリーズのクラシック戦3戦目の菊花賞が終わってまだその話題が冷めやらぬ時期。
世間では黄金世代と呼ばれるウマ娘たちの輝きが、まだトゥインクルシリーズを賑わせている、その年の────……11月。
深夜のトレーニングコースで、その亡霊は走っていた。
私よりも更に後ろから、隕石の如き足音を轟かせながら、猛烈な勢いで追い上げながら。