プロローグ

プロローグ



ときおり、母親のことを夢に見る。


深く鬱蒼とした森、日陰で笑うおぼろげな顔。

木々がひらけた先で、駆け寄る俺を暖かく見守るおだやかな瞳。

淡い山吹色の髪をたなびかせて、両の手で俺を抱き上げるその姿。

どれもこれもが懐かしく、眠るたび、夢を見るたびに強い郷愁が胸を焦がす。



……おかしな話だ。

生まれてから十七年、俺に母親がいたことなんて、ついぞなかったというのに。





ちりりり。

ちりりり。

ちりりり──「うるさ……」


けたたましく鳴る目覚まし時計のボタンを殴りつける。

のったりと身体を起こして、無機質に主を出迎える目覚まし時計を苦々しく睨んだ。

さっさと起きろと言わんばかりに時を刻む秒針を見ると、どうにも急かされているようで気分が悪い。


「………余計なお世話だ、このやろう」


毎朝こうして私怨混じりに叩いてやっても、買い替えどきを感じさせないこいつとは、子供の頃からの付き合いだ。

軽く十年選手のはず。なのに天寿を全うする気配がないのは、さすがメイド・イン・ジャパンと言ったところか。

そもそも俺、こいつの製造地知らないんだけど。


時刻はきっちり六時半。学生としては模範的すぎる、余裕にあふれた起床だった。


「蒸し暑いな……」


七月下旬、朝の熱気で肌に汗が滲むイヤな季節。寝慣れたせんべい布団を見れば、やっぱりちょっと湿気っている。

べつに潔癖というわけじゃないが、こうも汚れを可視化されると来るものがある。昨日天日干ししたばかりだから尚更だ。


「はあ」


言いたいことを全部込めてのため息ひとつ。

それでいろいろ割り切って、寝起きを気だるさを振り切った。




顔を洗い、長い廊下を歩いて居間に移る。

先祖代々──とはいうものの初代は明治あたりらしい、無駄に大きな日本家屋が俺の家だ。

管理が大変だし、一人じゃ使いきれないし、おまけにクーラーとの相性も最悪だが、それでも俺は嫌いじゃなかった。

肌に合うとでも言おうか。もともとクーラーの風に当たると気分が悪くなるので、そういう生まれなのだろう。生家を好きになれるから、ある意味で幸運なのかもしれないが。


昨夜の残りで適当に朝食を済ませた後、制服に手を通し、キュッとネクタイを締める。

人からはシンプルすぎて面白味がないとまで言われた銀縁の眼鏡をゆるくかけて身支度完了。

今の時刻は七時過ぎ。|HR《ホームルーム》が八時四十五分なので、いつも通り時間的余裕はたっぷりだ。


「ま、使い道は決まってるんだけどな」


普段より軽い鞄を持って家を出る。

学校のロッカーに突っ込んでいた教科書類は昨日までに持ち帰っているので、今日は帰りもこの身軽さのまま過ごせるだろう。


そう、今日はうちの高校──公立氷見沢高校の終業式なのだ。




閑寂とした朝の住宅街を抜けて、そのまま歩くこと十分ほど。


「景雪くん、おはよう。今日も良い朝だね」


校門前に佇んでいた先輩は、そう言ってにこやかに微笑んだ。

運動部らしく朝の日照りには慣れているのだろう。夏の暑さを感じさせない涼やかな佇まいに、自然と俺の背筋も伸びる。


「おはようございます、東堂さん。良い朝なのは相違ありませんが……剣道部の朝練はどうしたんですか?」


「今日は終業式だからねえ。顧問も気乗りしてないし、おやすみってことにした。主将権限ってやつ」


「真面目な先輩らしくないですね」


「午後はきちんとやるから許してよ。……ま、もともと任意参加だしねえ。剣道着《ユニフォーム》に着替えるのも一苦労だし、こんな日くらいサボりたくなるよ」


ああやだやだ、と手を振る彼女は東堂ツグミ。

一学年上の三年生であり、剣道部の主将を努めているひとかどの女生徒。

男子生徒からの人気も高く、そしてある意味で俺の先輩だ。

それなり以上に付き合いもあるから、たまにこうして校門前で駄弁ったりする。普段なら迷惑行為だけど、この時間帯でそれを気にする人はいない。


「景雪くんが一緒ならつらい朝も頑張れるんだけどな?」


「俺、剣道部員じゃないんですけど」


「でも心得はあるでしょう? わたしと並んで体幹が見劣りしない男はそういないよ」


「……趣味の範疇ですよ。大会で優勝したりする先輩には敵いません」


「ふうん。ま、そういうコトにしといてあげる」


こうやって人を揶揄うのが先輩の悪い癖だ。

見る目は確かだから余計に刺さる。

誤魔化すように歩き出すと、先輩も横についてきた。


「というか、それならなんでこんなに朝早いんです? サボるならゆっくりすればいいのに」


「なんでって、そんな大したわけでもないさ」


くすくすと控えめに先輩は笑う。


「同じ風紀委員の後輩くんと、久しぶりにゆっくり話してみたかったから……こんなのでどうかな?」


「そう訊いてる時点で揶揄ってるって自白するようなもんですよ、まったく」


「そお? でも、まるきり嘘ってわけじゃない」


先輩が俺の手を掴み、細い人差し指で手のひらを撫でた。


「硬い手だ。剣を、竹刀を握り慣れてる人の手。子供の頃の習い事ならこうはならない。今も剣を握ってる人の手だ」


「先輩」


「でもきみは運動部に入ってない。一体きみは、なんのために今も稽古をしているのかな?」


「さあ、どうでしょうね。俺もよくわかりません」


確かに俺は毎日竹刀を握っている。現役の先輩には劣るにしろ、総合すればかなりの時間、うちのくたびれた道場で夜毎稽古をこなしている。

ただそれに意味を見出しているかと言われればそうでもない。喧嘩で持ち出すこともなく、さりとて剣道部で腕を活かすわけでもない。


惰性というのも少し違う。

握れるから握っている、それが一番正しい気がした。

多分それも錯覚だろう。


「竹刀を握る自分が、一番自分らしいから、でしょうか」


「どこぞの時代劇みたいなセリフだねえ」


「……なんだか痛々しいですね。聞かなかったことにしてください」


口元を抑えて目を逸らす。ニヤニヤ、と面白がる先輩を、真正面から見たくはなかった。


──時代劇。

それに奇妙な親近感を感じたなんて、この人に知られたらどう揶揄われるかわからない。



“主将だし、道場の様子を見てからいくよ”とニヤニヤ笑いが取れないままの先輩と別れて校舎に入る。

今から教室で待機する、なんて寂しい真似をするわけじゃない。風紀委員会室に用事があるのだ。


職員室で借りてきた鍵で委員会室の鍵を開けて、鞄を適当に置いておく。

後で来る風紀委員のためにクーラーも付けて、段ボールから腕章を取り出し、腕に通した。


「よし」


風紀委員会副委員長、桐原景雪。

我ながらこの字面は気に入っている。

堅苦しい役職に堅苦しい名前を掛け合わせると、一周回ってお似合いな気がしなくもないからだ。


……ちなみに、うちの委員長がさっきの剣道部主将だ。

剣道部主将が風紀委員長とか、明らかに狙って揃えに行ってるから凄まじい。色んな意味で。


「それ、桐原が言えることかね?」


「……声に出てたか?」


「委員長の腕章を見ながら変な顔してれば誰でも気付く。世の不条理を嘆きたくなる気持ちはわからんでもないけどな」


や、世の不条理って。俺はそこまで言ってないぞ。

振り向いた先には、馴染みの級友がドアに背中を預けていた。


「相羽か。お前、生徒会はどうした?」


「朝早くから体育館の最終チェックだよ。かったるいから速攻で終わらせて抜けてきた」


「相変わらず真面目なのかそうじゃないのかわからないやつだな……」


俺のぼやきに、悠斗はわざとらしく肩をすくめた。


「なぁに言ってんだよ。オレほど真面目なヤツはそういないぜ」


相羽《あいば》悠斗。見た目的にはいわゆるヤンキーに分類されるガラの悪い同級生。

ついでに同じクラスでもあり、俺と同じ帰宅部であり、第一印象とは違って生徒会に属する男。

それなり以上に縁があるので、暇なときに絡みに行く程度には互いのことを知っている。


「お前で真面目なら俺は大真面目なのか?」


「オメーのはバカ真面目って言うんだよ、イインチョ殿をとやかく言えねー程度には変だぞオマエ」


「自覚している。先輩ほどじゃないが」


「オレからすれば似たようなモンだけどな……」


「なんか自分は普通みたいな顔してるけど路地裏で不良ども一蹴してたの忘れてないからな」


「オレが一人ブッ飛ばす間に五人薙ぎ倒してた人外が何を」


睨み合い、お互いにため息を吐く。

ああ言えばこう言う、不問の極みだ。


「と、もう七時半過ぎか。そろそろ俺は行く」


「おーう、今日もお勤めがんばれよ」


刑務所じゃあるまいし、というツッコミはまた口喧嘩に発展しそうな気がしたのでやめた。

代わりに脇腹を一発小突いて、委員会室を出た。




風紀委員の仕事とか何か。

挨拶である。


「おはよう。ネクタイが乱れているぞ」

「おはよう。随分眠そうだが大丈夫か?厳しいなら保健室に行け」

「おはよう。その……開いてるな、うん……………」「社会の窓全開だねぇ!!」「黙ってください」


慌ててチャックを上げた男子生徒に哀れみの目を向けつつも挨拶はやめない。

朝の挨拶は大事だ。

ついでに服装も整えれば気分がよい。

周りも整えればもっとよい。

そんなわけで挨拶は大事だ。風紀委員に入ったのも、この活動があるからにほかならない。


「いやあ、久しぶりに見たけどやっぱすごいね“百人斬りの桐原”。マジで今から一時間ずっと挨拶するつもり?」


「当然です。もっとも自分のためですから、それほど褒められた動機ではありませんが」


「もっとキショ……怖いよ」


「聞かなかったことにします。もし聞こえたら小突きます」


「小突く?小突いちゃうのかい?先輩のどこを触りたいのかな?」


「鳩尾《みぞおち》」


「ガチで殺しにくるのやめて?」


なら先輩が言わなきゃいい。

にっこり笑えばおののいたように後ずさるも、上がる口角を隠せていない。怖がる演技へたくそか。


もっとも八時頃になれば、こうして合間合間で駄弁る余裕もなくなる。そう思えば、やっぱりそんなに悪くない。


「というか百人斬りってなんです百人斬りって。そんな物騒な名前知りませんよ」


「知らないのかい?毎日景雪くんが挨拶運動を欠かさないのを見て、先生や生徒が畏れを持って付けた名前さ。聞くところによるとうちや他校の不良百人を一人で締め上げたという伝説にあやかっているらしい……」


「聞くところって誰ですか?」


「わたしさ!」


「そんなこったろうと思った」


──人の流れが増えていく。

雑踏が喧騒に変わり、待ち合わせる声、友達への挨拶、たわいない雑談などが耳に入る。

俺の挨拶もそれにまぎれて、たいていの人はちらりと目を向けるだけだ。それでいい。俺がやりたいからしていることに、何かが欲しいわけではなかった。


七時半から始まった挨拶運動は、ちょうど一時間、八時半過ぎまで続いた。

気づけばほとんどの学生は昇降口を通り過ぎており、一転して校門前は静かになる。


「景雪くん、おつかれ」


「先輩も、お疲れ様です」


「普段は部活を理由に参加してないから、なかなか新鮮な体験だったよ。それで、これから校門を閉めるんだよね?」


「ええ。先生から鍵を預かっています」


古びた南京錠を見せる。


「それは……この距離でも結構きついね」


「そうですか?俺はあんまり気になりませんが」


年季が入った鉄くささ、というのはわかる。わかるがそんなに気になることかね。

先輩がうっと顔を顰めるのをよそに、ゆっくりと門を閉じていく。

HRまであと十五分。あとは守衛の人に任せよう──



「待った待った、ちょっとすとぉっぷ!!」



──と。

半ば予期していた襲来にため息を吐く。


閉じかけていた門の隙間をすり抜ける金髪。

悪目立ちしない程度に着崩した制服の袖がひるがえる。


もはや伝統になりつつある駆け込みを決めた女子生徒に、俺は自分でもわかるほど冷たい目を向けた。


「十七夜月《かのう》エリカ、遅刻」


「は? アタシちゃんと間に合ったじゃんっ……はぁ。ココ学校の敷地内……でしょ!?」


「一般的な学生は八時三十分までに登校するんだよ。それ以降に飛び込むアホは遅刻で十分、これ、毎日言ってるよな?ってか昨日も言ったよな?俺なりの忠告のつもりなんだが?」


「んなこと言われっ……言われて……言われてたっ、ふぅ」


「まず息を整えてから突っかかってこい」


きゃんきゃん喧しいバカを放って門を閉める。

呆気に取られていた先輩が、そっと耳元で聞いてきた。


「……えーっと、景雪くん。彼女は?」


「遅刻常習犯、ついでに補導常習犯。外見どおりの不良ですよ」


十七夜月エリカ。金髪のショートカットが特徴的な派手めの女子。

しょっちゅう生徒指導室に呼び出されている筋金入り……と言えるかは微妙だが、間違いなく不良に属する生徒である。


余裕でHRをブッチして守衛さんのお世話になることもあれば、今日のようにギリギリを攻めて俺と鉢合わせることも多いので、自然と顔見知りになっていた。


「十七夜月、早く立て。HRに間に合わなくなるぞ」


「……うっさい。そっちこそ早くいきなよ……アタシもうちょっと休んでくし……」


「……来る頃には体育館に集合してそうだな。場所はわかるか?」


「えーっと……そっちで探す」


「遅刻しました、って大声で叫ぶようなもんだぞ、それ。……入り口から見て左、前から二つ目だ。落ち着いてから来いよ」


「はいはーい……」


無愛想な返しとは裏腹にひらひらと手を振っている。

俺のお節介を無視しきれないことといい妙に素直で、だからこそ俺もそんなことをしてしまうのかもしれない。


そんな俺をニヤニヤしながら見ている顔がひとつ。


「……なにニヤニヤしてるんです」


「いーや? きみを誘ったわたしがいなくて委員会活動寂しくないかなーって心配してたけど、そっちも案外青春してるんだね。ツグミ先輩は嬉しいよ」


「青春……」


──脳裏に浮かぶ|故郷《ふるさと》の影を振り払う。

あれは|妄想《ユメ》だ。

|妄想《ユメ》のはずだ。


「景雪くん?」


「ああいえなんでも……青春とか言われても、よくわからなくて。……けど、嫌いじゃないですよ、色々」


それは俺なりの本心だった。

嫌いだったら、今もこうしているものか。


俺の言葉を聞いて、先輩は嬉しそうに笑う。


「そっか。それならよかった」

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