フェリジット18歳の誕生日

フェリジット18歳の誕生日


 満月。

 穏やかに波打つ草原に、大の字で横たわる青年がいた。手足と、そして不揃いな一対の翼を大きく広げ、貝のように瞳を閉じている。少しでも、1ルクスでも多くの月光を求めるように。

 そこにもうひとつ、影を伸ばす者がいた。

「なーにしてんの?」

 長い銃剣を携えた少女。フェリジットは光を遮り、青年の寝顔を覗き込んだ。

「……ぼーっとしていた」

 シュライグは目を開ける。眠っていたわけではない。明日も早いというのに、今夜は寝付けそうになかった。

「あ、日付変わったな……」

「そうだね」

「フェリジット、18歳の誕生日、おめでとう」

「ふふ、ありがと」

 フェリジットもシュライグの横に寝転ぶ。手を伸ばせば届く距離。思い切り転がったはずなのに、舞う風は優しかった。

「ねえ、シュライグの年ってほんとにわかんないの?」

「ああ。まあ、フェリジットと同じくらいなんじゃないのか」

「多分私の方が年上かな。いっこ下くらい?」

「なんでそう思うんだ?」

「なんとなく?」

「なんとなく…」

 それきり、ふたりしてしばし口を閉ざす。代わって、虫たちが、透き通るような声で歌った。

 シュライグの手に触れるものがあった。

 震えている。フェリジットの手だ。

「シュライグ、何人殺した?」

「……10人からは数えられなかった」

「私は、6人。この銃剣で直接刺した人もいた」

 草に阻まれて、お互いの顔は見えない。雲ひとつない空で、星が瞬いた。

「自分で選んで戦場に立ったのにね。この体たらくだよ」

 シュライグと違って、私は初めてじゃないのに。終わり際の声は震えて消え失せるようだった。虫に負ける程。

「あの人達にも、家族とか、恋人とか、……いたんだろうな。やりたいこともあって…」

「考えるな」


 戦いの準備は以前から進めていた。

 敵による侵略行為の被害も知っていた。

 きっと自分たちのような境遇だった子供が、巻き込まれて死んでいるのも見た。

 覚悟もできていた。

 フェリジットの手には、刺し殺した感触が未だ生生しく残っている。

 目を見開いて死んだ男。藻掻いて起き上がろうとしたところを刺して刺して殺した。大きく開いた口からは血が溢れて。虚ろな目からは涙を零して。


 ドラグマ侵攻の報を聞いて、シュライグは故郷を助けに行くのだと言った。

 何故、と問う者はいなかった。シュライグはそういう人物だと皆わかっていたから。

 使いこなせるようになったばかりの義翼と持てる限りの装備を抱え、単身発とうとする彼にまずルガルが同行し、ケラスもフラクトール達も続いた。

 そしてキットの世話を理由に残るよう言われたフェリジットも、こうして戦場に立った。

「フェリジットは残ればよかったのにな」

「あのねえ、あんたたちが命張ってるのに大人しくしてられないわよ」

 

 軍でも精鋭でもない、本当に少人数の戦線。

 助けに入った部族からは奇異な目で見られ、礼に代わって困惑の言葉を向けられた。

 見返りなどないぞ、逸れ者共がなんの用だ、と。

 答える者はいない。皆黙々と、侵略者に抗戦した。

 それが、今日の日中の出来事。初めての見敵、初めての交戦だった。


「週明けにでもまた馬の部族に、羊の部族と手を組むよう働きかける。彼らなら比較的お互いの壁も低い筈だ」

「フラクトールは…」

「同席してもらう。本人が進んでそう言ってくれた」

 後ろ盾のない自分たちは、行動で示すしかない。

 生きるためには、手を取り合うしかないのだと。


「…偵察、お疲れ様。どうだった?」

「やはり、川沿いの集落は制圧されていた。あそこを拠点にして準備を整え次第、こちらに侵攻してくるだろう」

「じゃあ早めに、か」

「そうだな。………すまん、呆けている場合じゃあないのに」

 まだ、鼻に残っている。

 太い川の向こう岸からでも嗅ぎ取れてしまった。腐敗臭。血の臭い。生活が焼かれた臭い。死の臭い。

 シュライグは顔を顰めた。

 今度は、こちらから攻撃を仕掛けることになるだろう。

 また、殺し殺される明日が来る。

 

 シュライグは起き上がろうとして、止まった。フェリジットがその手を掴んだのだ。

「フェリジット?」

「………」

「俺はもう戻るぞ。フェリジットも…」

「………ねえシュライグ。どうして、故郷を助けようとしているの?」

 故郷を助ける。

 普通ならば―――人並みにその故郷から愛情を貰って、恩恵を受けて、懐かしむことのできる過去がそこにある人間ならば、それは当然の行為だろう。

 けれど、シュライグはそうではない。フェリジットもルガルも。生まれ故郷から排斥されたり、夜逃げ同然で離れた仲間は少なくない。

 このままドラグマの侵攻が続けば、遠くにある鉄の国にもいずれ魔の手が届くだろう。それでも少人数の仲間達なら、逃げることだってきっとできた筈だ。―――苦しい逃亡生活を強いられることにはなるだろうが。

「初めて会った時さ。シュライグ、死にかけだったじゃん」

 フェリジットは、シュライグの過去を知らない。彼は多くを語らなかったし、彼女も聞かなかった。

 それでも、ある程度の察しはついていた。飢えて痩せ細った、飛べない鳥人の子供。諦観で濁った瞳。鳥人の集落は近くにあったというのに。

「…………」

 むくり、と。青年は今度こそ起き上がった。

 前を向いている。髪と冠羽で、少女からその表情は伺いしれない。

「その時、フェリジットが俺にしてくれたことを覚えているか」

 同じだよ。彼はそう続けた。

 水を与えた。パンを与えた。そしてすぐに去った。あの初対面の日。

「俺は他人だったフェリジットの、無償の善意で生かされた」

 無価値な捨て子に、気まぐれに差し伸べられた手。

 それが、シュライグの始まりだった。

 ずっと、そうだ。少年はあの経験を芯にここまで生きてきた。

 正直者や善意を示した者が、騙され奪われる世界であっても。あの差し伸べられた手が正しいものなのだと、信じて進んだ。

「そう、同じだ。困っている人がいるから助けたい。それだけだ」

 善意に救われた自分もまた、善意に従って行動する。それだけ。

「………その困っている人が、あんたを虐げていた人でも?」 

「ああ」

「なんで?」

 何故、許すのか。

 フェリジット自身は、許していない。

 部族にいた頃、その終わり際。自分にかけられた、泥棒の冤罪はいい。みんな貧しくてギスギスしていた。自分も疑われるようなことをしてしまったのだろう。自分のことはいい。それでも。

 妹に危害を加えると言った、あの男だけは許せない。

 シュライグを虐めて捨てた鳥の部族も、ルガルに酷いことをした狼の部族も、許したくない。

 フェリジットがこの戦いに参加した理由は、実際に手を染めた盗みの贖罪、そして仲間を守ることだ。

 シュライグはそっと義翼に触れる。そして答えた。

「その過去がなければ、君達に会えなかったから」

 羽なしとして虐げられた日々。自分のせいで、母まで苦悩させてしまったあの頃。そして棄てられ、路上で飢えに苦しんだ日。辛かった。確かにそうだ。

 でも。

「これでよかったんだ」

 全て許そう。あの日々があったらこそ、君達に逢えたのだから。

 仮にもう一度この生を受けたとして、その時は平穏に、別の人生を生きるチャンスがあったとしても。

 自分はまた君に会いに行く。皆に会いに行く。飛べなくてもいい。また並んで、同じ道を歩むのだ。

「……そ。わかった」

 月光で冠羽が輝く。風で髪がそっと掻き分けられ、青年の横顔がようやく見えた。

 死の残り香はすっかり遠ざけられている。澄んだ面持ち。それを目にして、フェリジットも包み込むように肯定した。

「それに、関係ないもんね」

「そうだ。俺達の過去と、今の侵攻は関係ない」

 シュライグとて、仲間を傷付けた者には思うところがある。けれど、それとこれとは関係ないのだ。

 なにより今まさに戦禍に巻き込まれ、苦しみ喘いでいる人達のほとんどは、そんなこと知らない。知ったことではない。


 先程まで、過去を思い返していたからだろうか。

 傍らに座る青年を見て、フェリジットはふと思う。

 ああ、大きくなったな、と。

 その背中が、遠ざかろうとしている。

 鳥の青年が、立ち上がろうとしている。

 色素の薄い身体は月光で霞み、それを包む黒衣は闇に溶けていた。

 逞しいはずの存在には不釣り合いな、けれどビビッドな儚さ。それを彼に見て取ったフェリジットは、呼び止める。

 ほとんど無意識に。


「どうしたんだ?」

「私、あんたが好きなの」

 心地よかった虫の歌が、今はやかましいとさえ感じられる。

「好きだから、あんたに抱いてほしい」

 この人が、自分が、消えてしまう前に。

「遊びでいいよ。一度だけでいい。これっきりで、忘れるから」

 もう、引き返すことはできない。

 後悔しながらも、少女は続ける。

「そういうのは…」

「遊びでやるもんじゃないとか言うんでしょ」

 少女は思い返す。

 ああ、あの夜もそうだった。

「お礼とかお詫びとか対価じゃなくて、遊びでやるもんでもなくて、本当は、好き合った人同士が愛を伝えるためにすること、でしょ」 

 綺麗事だ。

 この人は、綺麗事ばかり言う。

 心が言うことを聞かない。少女は苛ついた。どうしてこんなにも違うのだろう。

 始まりは同じ、地の底にいた筈なのに。

 それは勘違いに過ぎなかったのだ。きっと彼の魂は本来もっと高くにあって、かわいそうなことに身体だけが地に墜ちていただけ。

 情緒も甘酸っぱさもない。今、秘めた想いを伝えているというのに、何故自分は彼を見ずに天を睨みつけているのだろう。

 

 好き合う?

 汚れきった自分には、なんて高い壁。

 穢れきった自分には、手の届く存在ではない。

 ならば、勘違いさせないでほしかった。

 自分が情けない。勝手に告白して、勝手に苛立って、勝手に諦めた。

 本当に勝手だ。この高潔に羽ばたく人に。遊びとして女を抱き棄てる存在に堕ちろと?

 月が滲む。

 それでもまだ明るい。少し顔を捻ればシュライグの顔が見えるくらいには。

 もっと暗くなればいいのに。彼の答えなど聞きたくない。何も見ず何も聞かず、何も言わなかったことにして帰りたかった。

 フェリジットも起き上がる。今度は俯いて。髪が顔を覆った。伸ばしていてよかった、と思う。

「それは、できない」

 横から、拒否の言葉。

 少女は、わかっている。

 ―――わかってるから、もう…

「俺も、フェリジットのことが好きだから」

「………」

 顔を上げられない。

 指で土を抉る。掌で草を握り潰す。

 本当に、本当に。少女は後悔した。

「だから遊びでなんて、できない」

「やめてよ」

 いっそ殺してやりたい。

 自分が嫌だった。

 汚い自分。身体も心も。今更になって気が付く。この告白だって、シュライグがこう答えてくれることを期待してのものだったのだ。彼は優しいから。昔馴染みの仲を利用して。彼に相応しくない。淫売の癖に。それを承知の上で想いを告げる身の程知らずな自分も。自分から言った癖に拒否する身勝手な自分も。

 そして嬉しくて堪らない自分も。嫌で嫌で仕方がなかった。

「………。

 ……私がなにしてたのか、知ってるでしょ」

 少女は絞り出す。やっとのことで問う。

 消えたい。消えて、きれいになりたい。

 それができないから、改めて汚穢を晒す。

 せめてもの、足掻くような清算として。

「なんの話だ」

「汚い泥棒猫。売女。何人と寝たのかもわからない」

「そんなこと、関係ない」

 精一杯の告白も、あっさり斬り捨てられた。

―――そうだよね。あんたはそういう人だよね。

「…………。

 俺も……。似たようなものだ」

―――……そう。

―――辛かったね。あんたは、強いね。

「俺が、気持ち悪いか」

「そんなわけないでしょ」

 即座に否定する。

 過去も未来も関係ない。

 なんならその過去を乗り越えて生きた彼の魂、その丸ごとを彼女は愛していた。

 そこで、はたと気付く。

「フェリジットが過去に何をして、何があったのかなんて、俺は気にしない。どんな過去や秘密があってもこの気持ちは変わらないし、もしそれで悩んだり傷付いたりしているなら力になりたい」

 耳のいい、フェリジットだから。いつも彼を気にかける彼女だから気が付けた。

 冷静で、落ち着いた彼の声色。でも普段と僅かに違っていた。呼吸も、心音も。

 戸惑い、緊張、そして勇気。

「フェリジットにとっては…、俺は遊びでそういうことができる対象なのかもしれない。不具の羽なしだからな、相応う相手ではないこともわかっている。でもな…」

 彼にとってもまた、

「もし叶うのなら、フェリジットがいいと言ってくれるなら、その…『好き合った人同士』になりたい。それではいけないだろうか」

 …これは振り絞っての、真剣な告白なのだ。 


―――“ 私がなにしてたのか、知ってるでしょ'”

―――“それではいけないだろうか ”

 愚問だ。少女の過去など、青年は疾うにわかっている。そして彼の過去も、彼女はとっくに察している。

 それを知った上でどう思うかなんて。彼ら自身が、答えを出したばかりなのに。

 少女は、青年を見る。緊張した面持ち。真っ直ぐな眼差し。

 それでもまだ怖くて、詰まらせながら今一度問うた。

「……シュライグが、いいなら」

 愚問だった。

 そして、どちらともなく。ぎこちないキスを交わした。






 満月。

 月明かりを頼りに、一糸纏わぬふたつの白い影が重なる。

 フェリジットは痛がった。当然だ。何年も使っていない。溢れた涙をシュライグの指が拭う。離れそうになる彼に、彼女はしがみついた。

 日中の死。明日、いや今日の死。その気配を振り払うように、お互いのぬくもりを求め合う。

 青年の肩越しに、少女に届く光。その源がスライドしていることに気が付く。恐ろしくて目を反らし、また口付けを求めた。

 愛を伝えるための行為。そうであって、だけど今回はそればかりではない。結局のところ、ふたりにそんな余裕はほとんど無かった。

 これは逃避だ。許してほしい。自分たちはまだ子供だ。早く大人になるしかなかった未成年で、殺されることも殺すことも怖いのだ。だから目を背け、生にしがみつく。

 散々殺した身だけれど。

 死から逃げることを、今だけは赦してほしい。

 皮膚がもどかしい。溶け合って、ひとつになりたい。いっそ喰ってしまおうかとも思う。明日消えてしまうかもしれないこの人を、自分のナカに閉じ込めたかった。叶わないからと、少女は甘く噛み付く。血の味がした。

 獣が吼える。生まれたままの姿で。喰らい齧り合い、逃げ場を失った二匹は震え、やがて果てた。


















「フェリジット、これ」

 余韻を味わう間もなく身支度をしていた、その最中。

 シュライグはフェリジットに手を出すよう促す。その手にふたつ、ころんと小さなものが置かれた。

「これ…、ピアス?」

「……俺の翼の、端材で作ったものだ。誕生日だろ。今はこんなものしか用意出来なかったが、また改めて贈るよ」

 摘み上げて、月光に晒す。

「シュライグの、翼で」

 それは丁寧に磨き上げられ、金の光沢を鈍く放っていた。

「ううん、これでいい。これがいいな」

 無くさぬように、少女は早速耳に通す。両方、右耳に。

「え?左右に付けないのか?」

 これにはシュライグも目を丸くした。彼女はピアス穴を開けてはいるが、それは左右にひとつずつ。

 いてて、と軽く右耳を抑えたフェリジットは、「いーのいーの気にしないで」と嬉しそうに笑う。

 ただの自己満足だ。

 愛しい人に、処女を捧げたかった。それが叶わなかったための、代償行為。

 そして彼の翼、その重みをよく感じていたい。ただそれだけ。

 虫はまだ歌っている。彼らもまた、恐らく恋人を求めて。

 明日か、近い将来。きっとこの草原にも火が回ることなど、知る由もなく。

「フェリジット」

 心配そうに少女の耳に触れ、シュライグは言った。

「責任、取らせてくれよ。生きて帰るんだ」

「もちろん。あんたも……責任、取ってね」

 浮ついた言葉だ。生き残る保証などない、口約束。

 それでも、その言葉が力をくれた。真面目な彼の、責任という言葉は重い。

 少女の震えはとっくに無くなっている。逃げていい時間も終わった。守るために償うために、戦う時が迫っていた。

 青年が先行して急ぎ歩く。続く少女は銃剣を握った。月明かりを跳ね返して、スコープが光る。

―――見張ってるからね、あんたのこと。

―――消えたりしないように。このスコープで、耳で、あんたのこと捉える。守るから。

 祈るような、誓いの帰路。

 この戦いが終わって、鉄の国に帰る時も。同じ背中を見ていられるように。

 鉄を携えた獣は仲間の元へ。そして死地への道を進んだ。

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