フェニルエチルアミン曰く
「こらっ!またお昼食べてないわね?」
「……此度の実験がある程度終了するまで、集中を途切れさせたくなかったので」
「だからって、そのまま抜くのはダメだって前も言ったでしょう?お腹がすき過ぎると空腹を感じなくなるでしょうけど、それは身体が危険信号を出せないくらい弱ってるってことなのよ?」
ラボから出てきた自分の目の前に、自分よりふた周りも小さな女が胸を張って立ちはだかる。自分と並ぶと大人と少女のように見えるが、実の所自分たちの年の差はそれほど大きくないということを最近知った。徹夜明けで滲む視界の前を、ちらちらと金の糸が揺れる。つむじだ、とぼんやりそれを眺めていると、ずいと彼女は自分の視界に何かを割り込ませた。細く白い腕に引っ掛けられていたそれは葡萄の蔦で編まれたバスケット。中からふんわり漂ってくる香りを嗅いで、ようやく自分の体内器官は正常な営みを取り戻したようだ。己の体内器官が盛大に上げた唸り声に、金色の女は「あははっ!」と鈴が転がるように笑った。
「だいぶ遅いけれど、ランチにしましょう?」
金色の女と知り合ったのは、最近自分が進めている量子ステルス研究のパトロンを探していたことがきっかけだった。ちょうどジェルマ王国の同盟国に、光学迷彩による軍事力アップに力を入れている某国があった。その国の要人と会食パーティーをしてジェルマの技術を売り込む対談を行ったのが半年ほど前のこと。その時、パーティーに来ていた要人の娘として会ったのがこの女との出会い……らしいのだが、自分は正直覚えていない。ジェルマ復活のために寝る間も惜しんで考えたスピーチを出し尽くし、勧められる酒を無理やり胃に流し込んでほうほうの体で宿に帰った覚えしか無いのだ。女にそのままそれを告げると「ひどーい!あんなことしたくせに……」と泣かれたのでゾッとした。宿に帰った時は確実に一人だったことと、某国と我が国の間に戦争が起こっていないことから推察するに、この女の主張する「あんなこと」は恐らく大したことの無いことなんだろう。……そう、信じたい。
そうしてこの女は、そのパーティーの日以来何を思ったか我が国にやってきたのだ。留学という名目で、一応きちんと勉学も収めているようだが、来る日も来る日も自分のラボに押しかけてはやれ飯は食ったか、風呂に入ったか、ちゃんと寝ているかとうるさく騒ぎ立てる。困ったことに、ラボへの訪問は研修と称してきちんと許可を取ったものであり、下手に追い出すこともできない。その上自分以外の研究者には高貴な血筋の娘らしく、礼儀正しく接するので好感度もかなり高いのだ。ますます無下にできない自分は、だから今日もこうしてラボの中庭のベンチに座り、この女の作る食べ物を噛みしめている。
「今日はサンドイッチを作ってみたの!普通のハムサンドやたまごサンドはもちろん、キーマカレーやチキンカツ……デザートもフルーツサンドなのよ!イチゴとブルーベリー、リンゴが入ってて……あと水筒にはベーコンとグリーンピースのコンソメスープ!」
くるくると表情を変えて女はバスケットの中を見せてくる。まるい瞳が期待を孕んでこちらの口元を凝視しているので、何だかきまりわるくなって乱暴に次のサンドイッチを掴んだ。口に押し込んだら甘かったので恐らくフルーツサンドを引いたのだろう。ゆっくり咀嚼している間にも女は視線を外さずじっと待っている。その時間がとてつもなくむず痒くて、とうとう観念したように「……ご馳走様でした」と言うと、女は「良かったぁ!」とまた大袈裟にため息をついた。
「あなた、反応が他の人より分かりにくいんだもの。美味しくないもの食べさせちゃったんじゃないかってこっちは不安なのよ?」
「別に、不味くはないです」
「イマイチな味ってこと?」
「……それよりは上、だ……と、思われます」
「なによそれ~!」
今度はぷくうっと頬をふくらませる。短時間にそんな百面相をして、表情筋が攣ってしまわないのだろうか。
百面相も落ち着き、女は今度は憂いを帯びた表情になった。ベンチに投げ出した足をゆらゆら揺らしている。ペールブルーのスカートがそれに連動して風を含んだ。
「本当に、美味しいかどうか正直な気持ちが聞きたいの」
「……何故そこまで、私に構うんです?」
「……あなたは科学の力で自分の国を立て直そうとしているんでしょう?お父様から聞いたわ」
半年前の、会食パーティーでのスピーチのことだろう。後々ごく一部の要人には軍事利用に関することを話したが、一般向けにはある程度口当たりの良い言葉を選んでスピーチした覚えがある。この女はそれをかなり額面通りに受け取ったようだった。
ベンチから立ち上がり、女は三歩ほど前に踏み出す。あれだけ動いていたやかましい表情は、今は自分の座る角度からは見えない。
「私と同じくらいの年なのに、水平線の向こうみたいな果てしない目標を見つけてるあなたが凄いなぁって、思って。だから、せめて留学期間中は力になりたい。でも私はあなたと違って科学者じゃないし、お料理くらいしかできないし……」
また、金の絹糸が揺れる。女の髪を揺らすジェルマ王国の風はいつも潮風の香りを含んでいる。
「だから、これは私のお節介。でも、どうせならあなたにとって、楽しいお節介になって欲しいの」
そう言って、無理に弾ませようとする女の声を聞いていると、なんだか無性に胸の奥が軋むような感覚がした。ざわざわと木立が音を立てる。自分の耳の奥にその音が反響して、よく分からないモヤが脳全体を覆うような気持ちになって。
そうして、その言葉は精査されず自分の口から零れた。
「……ではひとつ、指摘します」
「何?やっぱり美味しくなかった?」
「料理は科学です」
「へ?」
素っ頓狂な声を上げて振り返った女に、学会で持論を展開するように畳み掛ける。
「例えば、このサンドイッチの肉を高温で調理することにより、メイラード反応が起こります。その結果風味があまり落ちずに食することができる。たまごサンドのマヨネーズも、卵黄に含まれるレシチンの作用によって油分と水分が混ざり乳化する。そして、私がこれらを食して見た限り、あなたはその反応を的確に利用している」
この妙な気分に時間をかけて、理屈をつけてはいけない気がした。理論派の自分にはあるまじき考えだが、しかし。
この女が目を丸くしているうちに言い切ってしまおう。
「私から見れば、あなたは優れた科学者です」
スカートを翻し、女は自分の元に駆け寄ってくる。今まで見た中で、一番子供っぽい笑顔を浮かべながら。その顔を見ると、先程の気分とはまた違った、名状しがたい感覚が胸の内に湧く。
「……じゃあ、優れた科学者は科学の発展のために、新たな難題に挑戦するべきよね!これから私が取り組むべき難題は何かしら、優秀な科学者さん?」
得意げな顔を前にしてやはり、自分は観念して告げるしかなかった。
「…………オマール海老のトマトパスタ、できれば辛い味付けで」
その日初めて、その女の……彼女の瞳の色は、名前と同じ澄んだ色であることを知った。