パイ生地は冷凍された

パイ生地は冷凍された


アップルパイを、作ろうと思ったのだ。

通学路の途中にある八百屋さんで、りんごが安かったから。りんごを買って、家に帰って、パイを焼こうと思ったのだ。

小麦粉をふるって、捏ねて、冷蔵庫に寝かせた。そしてさありんごを煮ようと思ったら、シナモンが足りないことに気がついた。アタシのレシピでは、シナモンをたくさん使っているので、家にいた誰か、オカンだったか、オトンだったか、姉ちゃんだったか。

とにかく、家にいた誰かに「ちょっと外行ってくる、すぐ帰る」とだけ伝えて、出かけて──



「けほっ」


咳き込んだら、内臓から迫り上がってきた鮮血が地面を濡らした。腹はぶち抜かれていて、両脚が折れている状態では身体を起こすのに精一杯で、とても抵抗なんてできたものじゃない。

目の前の男の、嫌味なくらいに真っ白な服は真っ赤な血で濡れてるけど、その何割がアタシの返り血なんだろうか。


「流石というべきか。しかし、抵抗する力も尽きたようだな。俺と来てもらおう」

「ふざ、け、んな」


口ではそう言えても、身体全体が悲鳴をあげている。特殊な義骸に入っている今、無理にお姉ちゃんが前に出てくれば間違いなく身体が自壊するだろう。

あるいは、そこまで見越してこの男は襲撃をかけてきたのだろうか。

男の白い指がアタシの首に巻き付くのを、ただ見ているしかできなかった。徐々に首が締まり、酸欠で頭が白くなっていく。


「かはっ、あ、かぁ……」


寒い、苦しい。それでも、死なないだろうことが分かってしまう。死んでるより生きている方が、ずっとみんなの足を引っ張るかもしれないのに。

酸欠になりながらも、ぎりぎり声を発することのできる絶妙な力加減で、こいつは首を掴んでアタシを持ち上げた。


「仲間に言い残すことはあるか」

「ひゅ、ぜっ」


──叶うなら、アタシがいなくなった後も、みんなが曇ったり悲しくなったり、怪我したりしないでほしい。

本当は、痛くて苦しくて泣きたいくらいだけど。

でも、そうしたら家族は何があってもアタシの元に駆けつける。そしたら、家族はこいつやあのクソ男と戦うことになって。

それは、だめだ。家族がアタシより強いことなんて知ってるけど、それでもみんなが追いかけてくるのは、戦うのはだめだ。

少なくとも、今は。


「……ちょっと、うぇこむんど、いってくる。いつか、かえる」


アタシは、自分の意思で虚圏に行ったから。

尸魂界に行ったときみたいに、ただの無断外出だから。

……どうか、あのときみたいに、帰ってくるのを待っていて。


「か、はっ……」


きゅっと首がさらに強く締まり。

首の骨が軋んだ音を最後に、意識が闇に飲まれる。

冷蔵庫の中のパイ生地が勿体無いなァと、場違いな思考が最後に脳裏をよぎった。


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