バレンタインの類✕蘇我
暦の上ではもう春を迎え、段々と太陽が長く天に居座るようになってきた頃のこと。その日、商品棚を前に小さく唸り声を上げる影があった。
「どうしよう…」
特級術師・黒川蘇我は途方に暮れていた。
その原因は、すぐ側まで迫って来ているイベント──バレンタインだ。
こと蘇我は、惚れた腫れたな甘酸っぱい経験が乏しい存在だった。別に親しい男がいない、という訳ではない。十年来の付き合いがある五条悟とは友人であり、生涯のライバルである。今だって彼の背中を追いかける仲だ。しかしそこに恋愛感情が芽生えることは無かった。きっとこれからも可能性はない。
だが最近、自身の中にある恋心を認識してしまった。よりにもよってそれは、十歳以上年齢の離れた少年──五条類に向けられているらしい。彼の顔立ちは整っているし、無茶振りなんかしてこない。おまけに物腰も柔らかだ。惚れる条件は十分すぎるほど揃っている。けれども年の差という倫理の壁はそれを差し引いても尚分厚かった。
故に彼女はこの気持ちを悟られないように振る舞った。しかし勘のいい者たちにはあっという間に気づかれてしまい、その上硝子からは『いいんじゃない?アプローチすれば?』と背中を押されてしまった。
言われた直後こそ『でも…』と柔らかく抵抗したが、今こうしてチョコを選びに来ているのだからこれが答えだろう。自身の恋路の記念すべき第一歩が踏み出されようとしている。
さて、アプローチを始めるといっても、さすがにここまでお高い代物を渡しては、少し重いだろうか。目の前に並ぶいつもなら買わないような値段のそれに目をやり、蘇我は逡巡した。
ならばスーパーで売っている、普段から食べるようなちょっとした贈り物で済ませてしまおうか。だがそれではいささか粗雑すぎるかもしれない。
買い物をするだけでこんなに悩むのは初めてだ。このままでは日が暮れてしまう、と焦った蘇我は、こんがらがった脳内で判断を下した。
*
結局、あのあと高いものと安いものを両方買った。つまりは決めるのを先送りにしたのみである。その後もズルズルと迷っていたら、とうとうバレンタイン当日がやって来てしまった。
どうしようもなくなった蘇我は箱二つを小綺麗に包装して、あらかじめ会う口実をつけておいた類のもとへと向かった。
「あ…る、類くん」
「こんにちは、蘇我さん」
声をかけると、いつものように挨拶が返ってきてドキリとした。何気ないことにも、今日はこんなに意識してしまう。聡い彼のことだから、いつこの恋心がバレるかも知らない。そう考えると余計に心臓の音がうるさくなった。
「蘇我さんに講義をするのも随分久々ですね」
「まあお互い多忙ですし。でも、私化学も物理もそんな得意じゃないから助かってますよほんと」
「なら良かった」
勉強がよくできる類に、蘇我は物理学の教えを乞うことがしばしばあった。目標を超えるためならずっと年下の少年から指南を受けることを躊躇している場合じゃない。類もまた丁寧に教えてくれるので、蘇我の勉強への意欲も高まってきている。
静まりかえった高専の一室で、二人で教材に向かい合う。打倒五条のスローガンを掲げて机にかじりつく蘇我に、類は敬意と若干の狂気を感じていた。前が開いた彼女のパーカーから覗く“漸進前進”の文字が、まさしく蘇我を体現している。
「今日はいつにもまして熱心ですね」
「えと、そ、そうですか…」
長いことノートとにらめっこしていた蘇我に言うと、彼女はしどろもどろに返事をした。
実のところ、蘇我は今日ばかりは集中どころか気が散りまくっている。顔のあたりがほんのり熱を帯びているような気がしてならなくて、そのせいでなかなか類の方を向けなかったし、どちらのチョコを渡そうかという議論が脳内で白熱しているせいでろくに話も入ってこない。自分から講義を頼んでおいてこの有り様なのがひどく申し訳なかった。
もはやノートに字を書き写すだけの作業と成り果て、意味を咀嚼することは叶わなかったが、蘇我は類の講義を最後まで聞くことができた。
「今回はこれで終わりにしましょうか。お疲れ様でした」
「類くんも、お疲れ様でした」
ほっと肩の力が抜けた。外を見ると、もう太陽が沈み始めている。夕日に照らされて類の耳飾りが鈍く光った。
「類くんは、凄いですね」
乗り切ったことへの達成感が気を緩ませたのか、不意に口からそんな言葉が漏れた。
「嬉しいですけど、藪から棒にどうしたんですか?」
「いや…この前風の呪力特性なら宇宙まで行けるかって話したじゃないですか。そのときも、ガチガチの考察が返ってきたのを急に思い出して。いつもの講義もそうですけど、知識を活かすって難しくないですか」
言いながら、段々早口になっていった。こんな場面で顔を出した長くジャンプオタクをやってきた弊害が、とても憎らしく思えた。
「これに関しては見聞きしたものを覚えてられるかの問題ですからね、得手不得手は人によりけりです。…それに、オレは蘇我さんの向上心と根性を尊敬してますよ。あの義兄すら感化されるくらいの代物ですし」
「……」
蘇我はすっかり照れてしまった。彼から褒め言葉をもらうのはこれが初めてではないはずだ。今日の自分はやっぱり変だ、と彼女は心中で自嘲した。
「別に、私はその、立派ななにかは持ってないんです。ただただ並んで、超えたいって思ってるだけで。ごじょさんも───類くんのことも」
たぶん、今までで一番迫力の無い宣戦布告だ。しかし、目の前の彼は正面からそれを受け取った。
「…なら、オレも負けてられませんね」
類はそう言って、クスリと笑った。
「な、なら私はもっと頑張る」
大人気なく言い返すと、なぜだか体の内から勢いのようなものが湧いてきた。今なら行けるかもしれないと直感した蘇我は、その勢いに任せて鞄に手を突っ込み、ままよ、と箱を類に差し出した。
選ぶもへったくれもなく取り出されたそれは、少し高めの方のチョコだった。
「えっと、いつもありがとうね、類くん。良かったら、食べてください」
「ああ、今日バレンタインでしたね。ありがとうございます」
「アッハイ」
類はしれっとした顔で箱を手に取った。きっとそういう好意を向けられているとは思っていないのだろう。蘇我はそれにホッとしたような、少し口惜しいような気分になる。
正直恋に進展は見られそうにないが、ひとまず当初の目的が果たされたのだからこれで及第点だ。しかし背中を押してくれた勢いはとうに霧散してしまい、再び身を焼くような心地に襲われた。
「その、他の人たちにも配ってくるから。じゃあねっ」
「あ…」
言うなり蘇我は、猛スピードで部屋から飛び出した。なんだか心が満たされて、頬が緩んでしまう。今夜はよく眠れそうだ。
*
「箱、一つ落としましたよって言いたかったんだけど…」
取り残された類は一人ごちた。ラッピングされたそれを拾い上げ、さてどうしようかと首をひねる。
「まあ、あとで電話すればいいか」
無難な結論に落ち着き、一度グッと伸びをした。
後日蘇我が頭を抱えることになるのは言うまでもない。