ハムネコ転生

ハムネコ転生




俺は武田晴信。4歳になる。どうやら前世はハムスターだったらしい。こんなに可愛い俺ではあるが、小動物だったとは納得がいかない。いずれは賢く強く大きく格好良い男になる予定だ。

「はるのぶ」

隣にいるのは景虎という近所に住んでいる同い年の女だ。半年ほど生まれ月が遅いくせに俺よりも少し体が大きい。なぜか毎日のように俺の家に遊びに来ていて、今日も俺の部屋にいた。

今、景虎は不安そうに俺の体にぴったりと引っ付いている。

「雨、やみませんねえ」

外はざあざあと音がするほどの大雨だった。風も強くて、ときどき窓をがたごとと揺らす。こいつは俺より大きくて力も強いくせに、雨と寒いのが嫌いだ。寒いのは俺も嫌いだが、こいつみたいに引っ付いたりはしない。

「こわいなら、ひるねするか? おきたら、雨もやんでるだろ」

提案してみると、景虎はうなずいてぎゅっとこちらを抱きしめてきた。絶対に離さないという強い意思を感じる。こいつは力が強いのでとても苦しいが、文句を言うのは格好が悪いので黙っていた。お気に入りの毛布を手探りで引き寄せて、二人でその上に横になる。

景虎は丸まって、俺を両腕の間に納めた。なぜか景虎にはそういう癖がある。仕方がないので、俺もその腕に納まるように丸まってやった。額に額を擦り付けられて、なぜだかふと懐かしいような気持ちになる。

──そういやあいつ、俺が居なくなって寂しがったりしなかっただろうか。

景虎の体温と心音に包まれて、うとうととしていたからだろう。ハムスター時代の記憶を思い出した。

白い毛並みがきれいなトラ猫とハムスターの俺は、なぜかずっと森──家の裏手にある森くらいの大きさだった気がする──で一緒に暮らしていた。そんなに悪い関係でもなかったと思う。どう考えても猫よりハムスターの方が寿命は短いので、俺は先に死んでしまった。寿命をまっとうしたと思っているけれど、あの猫──ネコトラをひとり置いて逝ったのだけは気がかりだった。

眠気で視界がぼんやりとする中、景虎の髪がネコトラのきれいな毛並みに見えて、なぜだか少し安心する。

もうひとりぼっちにしないからな。

白い頬を撫でると、景虎はようやく安心したように瞳を閉じた。



俺は武田晴信。5歳になった。今日は景虎も5歳になる。

俺が誕生日を迎えた時、家でパーティーを開いてもらった。景虎も昼間に来て、大きなどんぐりを置いていった。多分誕生日プレゼントのつもりだったんだろう。大きなどんぐりは、以前家の裏手にある山に二人で入ってたくさん拾った中の、一番大きなやつだった。

でも景虎の家ではパーティーはしないらしい。なぜかは訊いたことがない。プレゼントももらわないらしい。だから、いつも俺が祝ってやることにしている。

「これをやる」

今年はいつになく大きな包みを用意したので、景虎は目を丸くしていた。景虎の顔よりも大きな包みだ。

「……ありがとうございます。あけてもいいですか?」

うなずいてやると、景虎はていねいに包みを開けて中身を持ち上げた。

薄灰色の毛並みのハムスターのぬいぐるみ。

ハムスターというには大きいのだが、きっと俺の前世はこれくらい大きかった。気持ちの部分で。

景虎は俺がハムスターだったなどということは知らないが、俺がいない雨の日でもこのぬいぐるみがあればいくらか気が紛れるだろう。

景虎は、なぜか泣き出した。大きな瞳から大きな雫がぽろぽろとあふれて転がる。

「なんで泣く⁈」

「あれ……? なんででしょう? おかしいですね」

景虎は首を傾げているが、涙は全然引かなかった。景虎は俺より大きくて強いので、泣いたところを見たことがない。

「どこかいたいのか?」

「むねがいたいです」

「しんぞうの病気か?」

「わかりません。でもこのコはとても気に入りました。なまいきで強そうです!」

景虎は泣きながら笑った。プレゼントは喜んでいるらしい。景虎の緑の瞳に涙がにじんできらきらと光っている。雨上がりの濡れた緑の葉っぱのようだと思った。

「はるのぶだと思ってだいじにします」

「……うん」

「きょうからずっといっしょですよ、ハムノブ」

「ヘンななまえをつけるな」

結局、どうして景虎が泣いたのかはわからなかった。




俺は武田晴信。12歳になった。景虎とは家が近所なので小学校も同じで、まだ頻繁につるんでいた。

「修学旅行、ちゃんとグループ作れるか?」

帰り道で景虎に訊ねると、不思議そうに首を傾げられた。

「晴信と一緒じゃダメなんですか?」

「日中は一緒でもいいが、女子部屋のグループ分けもあるだろ? お前、友達全然いないんだからどこかに混ぜてもらえよ」

「はあ……そんなものですか」

景虎はいまいちぴんときていない顔をしていて、ただ俺が不安になっただけだった。

この幼馴染は全然友人を作ろうとしない。いつも俺にばかり引っ付いている。

「別に人見知りってわけでもないんだから、友達くらい作ればいいだろ」

「晴信にしか興味がないですね」

それに対して、俺はどんな顔をすればいいんだ?

「それに、外に気を取られていたら、大事なものを取りこぼします。それはダメです」

景虎は神妙な顔をしてそんなことを言った。よくわからないが、結局のところは他人──俺以外の──に興味がないのだろう。知っていたが、変なヤツだ。

「あと、ぬいぐるみは置いて行けよ」

そう言ったら、景虎がこの世の終わりのような表情を浮かべた。なんでぬいぐるみごときでそんな顔ができるんだ。

俺が景虎の5歳の誕生日にあげたぬいぐるみを、こいつは本当に本当に大事にしていた。遊ぶ時も寝る時も連れて歩いて、はじめは俺の母親も「景虎ちゃんはずいぶん女の子らしくなったわね」とか言っていた。母親は俺がやったものだと知っているので、なぜか俺ばかり恥ずかしい気持ちになった。ちくしょう。

俺は幼馴染に親切心から忠告をした。

「もうじき中学生だぞ。家でなら好きにすればいいが、さすがに旅行には置いて行け」

「じゃあ晴信が一緒に寝てくれるんですか?」

「無理に決まってるだろ」

「じゃあ私も無理です。ハムノブを置いて遠出などできません」

景虎が涙目になるので、俺はいよいよ困り果てた。

「……おもちゃ持って行ったら先生に没収されるだろ?」

「ダメです! ハムノブは私のです!」

「じゃあ置いて行け。……俺ができるだけ一緒にいてやるから」

そう言ったら、景虎が額に額を擦り付けてきた。身長はまだこいつの方が少し高い。間近で見る緑の瞳は不安そうだった。

「……絶対ですよ?」

「わかった」

修学旅行では雨が降らないといいな、と思う。こいつは雨が嫌いだから。



修学旅行先では、景虎は大人しかった。景虎は学校行事ではいつも大人しい。親にあまり目立たないように、とことあるごとに注意されているのを知っていた。もう俺にも、どうして景虎の誕生日を祝うのが俺だけなのか、なんとなくわかるようになっていた。

「晴信、紅葉がきれいです」

寺社仏閣の見学のために山沿いを歩いていて、景虎が視線を上に向ける。一緒に顔を上げると、銀杏が昼の太陽を浴びてきらきらと黄金に輝き、その手前で真っ赤に色付いた紅葉がさわさわと揺れていた。

「本当だ。いい赤だな」

赤は俺の好きな色だった。もちろん景虎も知っている。

「私は赤があんまり好きではないですけど、晴信には赤が似合いますね」

「そうだろう」

俺が満足して何度かうなずくと、景虎が紅葉の葉を頭にわさわさと降らせた。

「やめろ。それ地面に落ちてたヤツだろ」

「きれいなのを選んでますよ」

そう言ってひとしきり俺に紅葉をぶちまけた後、景虎はじっとこちらを見つめてきた。それから、俺の頭や肩にくっついた葉っぱをぱたぱたと払う。

「……でもやっぱり、赤に埋もれてる貴方はよくないです」

「埋めるなよ」

「もう埋めません」

そう言っていきなり抱き付いてきたので、俺は慌てて周囲を見た。景虎とわちゃわちゃとしていたので、同級生たちはすでに移動していて人影もなかった。代わりに教師が寄って来て、相変わらず仲良しね、などとなんのフォローにもならないことを言って移動を促してくる。それしきで景虎の腕が弛むわけもなく、俺は恥を堪えて幼馴染の体を引きずりながら同級生たちと合流した。


修学旅行は宿に着いても団体行動が求められる。そして、景虎は団体行動が苦手だ。幼馴染の今後を思うと思わずため息が漏れる。

食事が終わってからの短い自由時間にも、景虎は俺の傍を離れなかった。低学年の頃はいろいろと言うヤツもいたが、6年も経ってしまうと日常になるらしい。俺たちがロビーのソファでだらだらとしゃべっていても、誰もなにも言わなかった。

「……晴信。本当に一緒に寝たらダメなんですか?」

「ダメだ。……お前、いい加減ひとりに慣れろ。いや、ひとりが嫌なら友達を作れ」

「ひとりが嫌なんじゃありません。晴信がどこかに行っちゃわないか心配しているんです」

小学生男児がひとりでどこへ行けると言うのか。というか。

「……ふらっとどこかへ行くのはお前の方だろうが」

景虎は昔から、思い立ってひとりでどこかへ行くことがあった。大抵は裏手の山でふらふらしているのですぐに見つかるから大事になったことはない。けれどいつも探すのは俺だけで、それがやるせないと思っていた。

こっちの気も知らない景虎は、なぜか胸を張った。

「私はいいんです。強いので」

「俺だって強い」

「私より弱いです」

こいつぶん殴りたい。

そう思ったところで、教師が消灯時刻を告げてきた。ぐずる景虎をなだめて、俺は男子部屋へ向かう。

「晴信」

部屋に向かう途中の廊下で、景虎が寂しそうに鳴くのが聞こえた。聞こえなかったふりをするしかなかった。



朝、起床時刻の通りに起きたら、別室の同級生に呼ばれた。

「武田くん、長尾さんが呼んでるよ」

さっそくか。でも一晩呼び出されなかったので、きっとあいつも頑張ったんだろう。

着替えもせずに寝巻きのジャージのままロビーに行くと、身支度を整えた景虎がぱっと笑みを見せた。

「晴信!」

走り寄って来て思い切り抱き付かれた。苦しい。もちろん、苦しい素振りなど見せないが。

「……大丈夫ですか? 体調が悪いところなどありませんか?」

「ない」

離れろ、と言いたかったが飲み込んだ。代わりに、景虎の頭をぽんぽんと撫でる。

「……頑張ったな」

「ええ! すごーく我慢しました! もうこれ以上は無理です!」

中学生になったら2泊三日になるんじゃないのか? 心配の種がまたひとつ増えた気がしたが、とりあえず今回は乗り切った。

「着替えてくるから、そこで待ってろ」

「はい」

自室に戻って着替えている途中、同室の友人からおそるおそる訊ねられた。

「武田って本当に長尾さんと付き合ってないの?」

「あいつとはそんなんじゃない」

「いくら幼馴染でも、まだ一緒に寝てるとか……その、大丈夫?」

「うるせぇ」

もうとっくに思春期真っ只中だ。大丈夫なわけがない。大丈夫じゃないから、早くあいつをなんとかしないといけなかった。なんとかってなんだ。自分でもよくわからなかった。




俺は武田晴信。16歳になった。景虎もじきに16歳になる。

今年の誕生日プレゼントはどうしようか、とぼんやりと考えていた。プレゼントとして一般的なものは渡し尽くした気がしている。高校生になったので、アルバイトでもすればもう少し選択肢も広げられるだろうが、具体的な品物のイメージがなくてはいくら稼げばいいのかもわからない。

そもそも、アルバイトなどすれば景虎が黙っていないだろう。景虎は相変わらず自分にべったりで、一緒にいる時間が減るとすぐに文句を言う。中学校時代は部活に入るのも一悶着あり、結局同じ剣道部に入って納得させた。未だに景虎には一勝もできていないので、部活動は継続している。

「晴信ー、今日このまま泊まっていいですか?」

「いいわけあるか。帰れ」

今日も景虎はなぜか俺の部屋にいた。部活が終わってそのまま俺の家に来て、夕飯を食べて俺の部屋で宿題をしていた。たしかにいい時間になるが、歩けば数分の距離に自宅があるのに泊まりが必要なわけがない。

「にゃー、いいじゃないですか。私と晴信の仲なんですし」

「どんな仲だ」

そう、どんな仲でもない。景虎は景虎で、ただの手間がかかるむかつく幼馴染でしかなかった。

「お母さんにはもう許可をもらってるんですよ。だから大丈夫です」

「お前……俺の部屋で寝るくせにお袋に先に話を付けたのか……」

『お母さん』は景虎の母親のことではない。景虎は母親のことを一度も外で話したことがなかった。未だに詳しい話は知らないが、いつかは俺がこいつを引き取ることになるんだろうと思っている。多分、それは早い方がいいんだろう。

「そういうわけで、お風呂をいただいてくるので寝巻きを貸してくださいね」

「……勝手にしろ」

景虎は本当に勝手にする。風呂に入って俺のスウェットを着て帰ってきた女に、髪を乾かしておくように、とドライヤーを手渡して自分も風呂に向かった。帰ってきたら髪も乾かさずにアルバムを開いていたので、薄い背中を蹴り倒してやる。

「にゃ! なにするんですか!」

「お前こそなにしていやがる。髪乾かせっつっただろうが」

「いえ、ちょっと懐かしくなってしまいまして」

結局景虎の髪を俺が乾かすはめになった。景虎は頭をかき混ぜられながら、まだアルバムを嬉々として眺めている。

「この頃の晴信は可愛かったですねえ」

「うるさい。お前もだろうが」

今はもう俺の方が背も高いし、体も大きく腕も太い。景虎は女にしては背が高いが、それでも細くて、触ると柔らかそうな普通の女になった。いや、あまり普通ではない。遠目から見ても十人中十人が美人と言う程度には見てくれが良くなっていた。

それでもなぜか試合でもケンカでも勝てたことはない。景虎はこんなに細いのに、どこからあの怪力を繰り出しているのか。

ようやく長い髪を乾かし切ると、景虎は立ち上がって俺のTシャツの襟首を引っ張り、ベッドへ雑に放り投げた。それから勢いよく俺に覆い被さってきたので、咄嗟に避ける。

「何のつもりだ」

「もう眠ります」

だからできるだけ近くに寄れ、ということらしい。景虎は今も俺とくっついて眠りたがる。

ベッドに埋まった景虎は、両手を広げて俺の体を抱きしめようと待ち構えていた。その状況に、思わずめまいがする。

「……百歩譲って、同じベッドで寝るのは……それもどうかと思うが、目をつむる」

「はあ?」

「……それはダメだろ」

「それ、とは?」

体はまだ成長期とはいえ、機能はほとんど成人と差がない。

いくら景虎とどんな仲でなくとも、抱き合って眠って絶対になにも起こらない、と言えるほどまだ俺は経験を積んでいなかった。

「……抱き合って眠るのは、さすがにもうダメだ」

「でも、こうしたほうがあったかいですよ?」

「……そうだが」

「晴信、寒いの嫌いでしょう? 景虎ちゃんがぎゅってしてあげますからありがたくぎゅってされなさい」

「寒いのとぎゅっは別で考えろ! 今は真冬でもないし、お前の体温で暖を取る必要はない」

俺はなんとかそう言って、景虎に背を向けた状態でベッドへ横になる。

「晴信……? ほんとにいらないんです?」

「いらん。黙って寝ろ」

そう言うと、景虎の戸惑った気配がして、それからしおしおと寝具の中に潜り込む。景虎は俺の背中に額を擦り付けて、抱きつきはしなかったが、Tシャツの裾にしがみついて動かなくなった。

これならまあ、なんとか。

これだって他所から見れば十分どうかと思う状況なのはわかってはいたが、これ以上どうすることもできない。

なんだかんだ言って、俺も景虎を完全に無視したり傷つけたりできるほど、嫌いになんてなれなかった。



朝起きたら、景虎がいなかった。寝巻きにしていたスウェットが蝉の抜け殻のように放り出されている。

自室を出てリビングに行っても、母親が朝食の支度をしているだけだった。景虎を見かけていないか訊ねたが、母親も首を横に振るだけだった。

家に帰ったのだろうか。いや、景虎がうちに泊まって、わざわざ実家に帰るとは思えない。あいつ、どこへ行った?

──妙な焦燥感に、心臓が跳ねる。

帰ってこなかったら。もう二度と姿が見られなくなったら。

このまま、ひとりにさせてしまったら。

そんなことがあるわけがないのに、なぜか不安に駆られてしまう。急いで着替えて、心当たりのある場所へ走った。

家の裏手にある森は開発されておらず動物も多い。子どもの頃、景虎はよく野良猫を追いかけて森へ入っていた。今でもときどき立ち寄っているのを、晴信は当然知っている。

街に近い森の入り口からくまなく探しているうちに、学校の始業のベルが遠くから聞こえてきた。無断欠席を母親になんて言い訳するか。そんなことより、景虎を探す方が大事だと思った。

「景虎!」

色が錦に変わり始めた森の奥深くまで進むと、ぼろぼろになった山小屋を見つけた。どこかで見たことがあるような気がする。子どもの頃だろうか。けれど子どもの頃は危なくて、こんな森の奥まで来たことはなかったはずだ。

その小屋を前に、景虎が立ちすくんでいた。俺に気が付いたらしく、驚いた表情を浮かべる。

「……晴信? こんなところまで何しに来たんですか」

「……お前こそ、どうしてこんなところにいる」

大股で近付いて目の前に立つと、いつもより景虎が小さく見えた。景虎はなんだか、しぼんでいた。

「……よく、わかりません。あまり寝付けなくて早朝から散歩に出かけたものの、なんだか帰りそびれてしまいました」

「……そんなんで学校サボったのか?」

そう言ったら、あ、と声を漏らしたので、学校があることも忘れていたらしい。こいつの家で授業の無断欠席は、我が家よりずっと問題になるだろう。

「……俺が無理やり休ませたってことにしておけ」

「どうして晴信が……」

「別に。お前のとこのおばさん、昔から俺のこと嫌ってるだろ。今さら嫌われるネタが増えたところでどうってことはない」

俺が言った内容に、景虎は微妙な顔をした。本当に実家のことは話したがらないヤツだ。

「それより、出かけるならひと言言ってから出ていけ。心配するだろうが」

「ええと……すみません。そんなに心配するとは思っていませんでした」

「お前は俺の心配をするのにか? 雨降って寒いくらいで死にはしないぞ」

「……わからないじゃないですか。それなら私だって、ひとりで出かけたからってそのまま帰らないなんてあるわけないです」

「どうだか」

「晴信がいるのに、帰らないなんてあるわけないです」

「……帰れなくて、ひとりぼっちになったらどうするんだ」

そう言ったら、景虎の大きな瞳から大きな雫がぽろぽろと転がった。どうして泣き出したのか、俺にはわからない。けれど、ここではそうするべきだと思って、思い切り景虎を抱きしめた。景虎は腕の中でもずっと泣いていた。

「晴信、帰れなくてごめんなさい」

「……ひとりぼっちにさせて、悪かった」



景虎は16歳になった。今日も俺の部屋に入り浸る景虎に、小箱を手渡す。

「……ありがとうございます。開けてもいいですか?」

うなずいてやると、景虎はていねいに包みを開けて中身を持ち上げた。

「ペンダントですか」

ペンダントには白っぽい石が付いていて、光を受けると金や青などいろいろな色が混じっているのが見える。

「本当は赤い石にしようと思った」

「それ晴信の趣味じゃないですか」

「だからやめておいたんだろ」

一目見て俺からの贈り物だとわかれば、学校の連中はともかく、景虎の家族が黙っていないだろう。この前授業をすっぽかした件で、すっかり心証を悪くしていた。

ペンダントを一度景虎から取り上げて、首元に腕を回して着けてやる。景虎の華奢な鎖骨の間に、白い石はぴったりとおさまった。

「ふむ。晴信にしてはなかなかの贈り物です。褒めてあげましょう」

「そりゃどうも」

妙に上から目線の発言が鼻に付くが、多分とても喜んでいるのだろう。白い頬が嬉しそうに緩んでいる。

「それ、肌身離さず身に付けておけよ」

「いいですが、どうしたんですか?」

「お前の首輪だからな」

ペンダントにはおもちゃ程度の性能ではあるが、GPSが仕込んである。これでこの前のように気まぐれにふらつかれても、大雑把な位置は特定できるはずだ。

「首輪……」

GPSの話をしても、景虎はなぜか嬉しそうだった。少しくらい引かれるのは覚悟の上だったが、その反応は予想外だった。

「じゃあこれを身に付けていれば、いつでも晴信が迎えに来てくれる、ということですね?」

「いつでもは無理だ。できるだけ早く行く」

景虎は心から嬉しそうに笑って、こちらに勢いよく抱き付いてきた。

「絶対ですよ! 約束ですからね!」

「……約束はするが、絶対ではないからな」

自分でやったことだが、少し早まっただろうか。こんなに喜ばれてはこれから歯止めがきかないような気がして、今さらながら自分が自覚していた以上に重症だったのではないか、とうっすらと思った。




目を覚ますと、心地良いぬくもりが上半身を包んでいた。馴染んだ体温と、耳に心地良い心音が傍にある。もっと近くで感じたくて両腕でぬくもりを引き寄せると、細い指先が自分の髪を梳く感触がした。

起き抜けの意識がはっきりしてくると、ぬくもりの正体が景虎だと気が付いた。こいつは子どもの頃からの癖で、まだ俺の体を抱きしめて丸まろうとしているらしい。俺はもう、景虎よりもずいぶん身体が大きくなったのに。

しかし、別に嫌ではない。こうして景虎の胸や腹に頭を預けて眠りにつくのは、温かくて酷く安心できる。

俺は顔を上げて、景虎の寝顔を眺めた。先に起きると怒るだろうか。このまま寝顔を見ていても怒るような気がするが、だったら寝顔を見ていた方が得かもしれない。

そんなことを考えている間に、緑の瞳がぼんやりと開いた。起きた時に俺がいると、こいつは酷く嬉しそうな顔をする。

「おはようございます、晴信」

「おはよう、景虎」

「──誕生日、おめでとうございます。私が一番乗りですね」


俺は武田晴信。今日は俺が18歳になる日だった。



寝巻きから着替えてリビングに向かう。今日は家族は皆出払っているので、家には俺と景虎しかいなかった。別に気を遣われたわけではない。多分。

昨日のうちに買っておいたサンドウィッチや菓子パンをダイニングテーブルで食べながら、景虎はにこにこと機嫌良さそうに笑っていた。

「毎年、昼間は晴信の家族と一緒に誕生日パーティーをしていましたから、こうして二人で一日を過ごすのは初めてですね。今日はどう過ごしたいですか?」

「ん……」

景虎から改めて状況を説明されると、妙に緊張した。何年この女と一緒にいると思っているんだ。18年だぞ。今さら緊張するような要素がどこにあるんだ。

「……お前、大学も俺と同じにしたな?」

「ええ。大きな大学で学部は違いますけれど、同じ大学になりましたね」

「……おばさんに、別の大学に行けって言われてただろ」

「……晴信は私の進学先に反対ですか?」

景虎が困ったように眉を下げるので、そうじゃない、と首を横に振った。

「……あの大学、ここから通学するのは遠いだろ」

「でもまあ、無理ではありませんよ。ちょっと早起きして、ちょっと遅く帰宅することになりますが」

「……もう、俺と離れたくないとか、わがままは言わないんだな」

「……いくつの頃の話をしているんですか」

さすがに恥ずかしくなったのか、景虎の頬が赤くなった。当時の俺はもっと恥ずかしかったと言ってやりたい。

「……俺は大学の近くにマンションを用意するつもりだ」

「そうですか。その方が楽でしょうね」

「…………お前も一緒に来るか?」

自分で思うよりも、声がかすれた。情けない。おそるおそる景虎を見ると、大きな目をぱちぱちと瞬かせていた。

「……言っておくが、ただ部屋に来るんじゃなくて、一緒に住まないか、という意味だからな」

「あ……そうですか……」

景虎はそれだけ言って、マグカップに淹れたコーヒーをすすった。表情からはわからないが、こいつにしてはかなり動揺している。それがなんだか面白くて、つい笑ってしまった。景虎がヘソをまげて目尻を吊り上げる。

「いくらなんでも、そこまで甘えるわけにはいきません」

「どうせ親戚が持っているマンションを間借りするだけだ。親も俺も懐は痛まないんだし、お前が俺に甘えるのはいつものことだろ」

「別に私は晴信に甘えてなんていません」

「このクソ女ッ……!」

この18年間、あれだけ甘え倒しておいて今さら無自覚だと⁈ ふざけるなよ!

「……お前、俺にいつでも迎えに来て欲しいんだろ? だったら一緒に住めば話が早い」

「そうなんですけど……でも、実家がなんて言うか」

「お前が俺と一緒に暮らすって言うなら、俺がなんとかしてやる」

「……晴信、うちの実家にめちゃくちゃ嫌われてるのにどうする気なんですか?」

「とりあえず、18歳になったら成人なんだから、お前の人生はお前自身が決めればいいだろう」

景虎は、まだなにかごちゃごちゃと考えているような顔をしていた。普段は無駄なほど思い切りがいいくせに、なぜこういう時に限って枝葉に考えを巡らせるのか。俺への嫌がらせか?

「つまり。俺と結婚して武田の籍に入れ。お前の実家はもちろん黙ってないだろうが、お前が俺と結婚するっていうなら、俺がなんとかしてやる」

「……晴信と、結婚……?」

景虎は、難しい顔をして首をぐいと大袈裟に傾げた。嫌な予感がする。

「……私、別に晴信と結婚したいとか思ったことないです」

「このクソ女! ここまで来て言うことがそれか⁈」

「私は晴信とずっと一緒にいたいだけです。ずっとずっと傍にいてほしいです。それって、別に結婚しなくてもできますよね?」

景虎が真っ直ぐにこちらを見つめてくるので、なんだかいろいろとたまらない気持ちになった。ずっと昔から、俺はこの景虎に弱い。

「……一緒にはいられる」

「はい」

「だが結婚したら、俺の緊急時に真っ先にお前に連絡がいくぞ」

「今すぐ結婚しましょう!」

景虎は秒で求婚を受けた。その理由はどうかと思わなくもないが、ひとまず胸を撫で下ろす。

「なら、支度しろ。今からマンションを見に行く」

「ああ、なるほど。ついでに書類もらいに役所に行きます?」

「……もうもらってきてるから、お前の欄は後で記入しておけ」

俺のところは記入済みだと言ったら、景虎は嬉しそうに笑って抱き付いてきた。俺も細い腰に腕を回して支えてやる。他意はない。

「ハムノブを置ける場所は作らないといけませんね」

「まだ持っていくのか……」

俺がいるのに、と思っていたら、晴信からもらったからですよ、と言われて、なにも言えなくなった。


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