ハナ咲クハル・End"D"-2

ハナ咲クハル・End"D"-2




 3月。冬の寒さはすっかり消えて、春の暖かな温もりがそっと満たしてくれる、そんな時期。

 あの砂漠の『砂糖』が引き起こした事件、その多くが終息してからもう数ヶ月が経ち。私達は、出会いと別れの季節を迎えていた。





*****





「出なくて良かったの?」


 トリニティの、かつて補修授業部が、勉強合宿で使ったあの校舎。その屋上に腰掛けた私に膝枕をされる形で横たわっていたコハルちゃんが、ふとそんなことを口にした。


「……意地悪さんですね、コハルちゃん。確かにアビドスの重鎮だった私ですが、今はもうトリニティ生に戻ってるんですよ?」

「やっかみとかじゃないわよ、もう。……だいたい、ヒフミとヒフミに付き添ったアズサは普通に見に行ってるじゃない。なら、ハナコだって……」


 そこでコハルちゃんは一度言葉を切って、続ける。


「あの人、卒業するんでしょ?」

「…………はい」


 コハルちゃんの言うあの人。ピンク色の髪とぴょこんと飛び出た頭頂の癖毛、左右不揃いの瞳がトレードマークのアビドスの三年生、小鳥遊ホシノさん。


 今日は彼女の、卒業の日。


「罪の意識や自責の念は未だ尽きないでしょうし、課せられた償いはまだ終わっていませんが……今日でひとます、一区切りです」


 アビドス事変の首謀者ではあるものの、数多いアポピスの最大の被害者の一人でもあること、正気に戻った後は事態の収拾──特にアポピスとの最終決戦──に奔走したこと、そして贖罪に心身を尽くしていることもあって、周囲や世間からの反応は穏やかなもので。

 本人としては複雑な心持ちではあったとしても、後輩や先生の後押しもあって、門出を祝うことことも許された。


「立ち会いたい気持ちが、ないとは言いません」


 アビドスで中心となっていたホシノさんとヒナさん、そして私の3人での生活。『砂糖』に脳を侵され、大勢の人を不幸に堕とし、その上で成り立っていた、悍ましい栄華であることに変わりはない。

 コハルちゃんの手で私だけが先に正気に戻り、全てを終わらせるべく2人の敵となり、果てにあるいは殺し合うかのように戦いすらした、そんな間柄でもある。

 けれど。その中であっても、共に過ごした時間の中で芽生えていた感情と──あまりに歪であったとしても、確かに育まれていた『絆のようなもの』は、どうにも捨て切れるものではなくて。

 お互いに罪に塗れた身ではあるけれど、私もまた卒業を祝いたい気持ちは確りと抱いている。事件解決後もぽつぽつと連絡は取り合っていたし、遠慮がちではあったけれど誘われもした。


「…………ですが。やっぱり、私は行きません」


 ただ。それでも私は、会いに行くことはしなかった。


「私は、コハルちゃん、に…………っ…………付き合うって、決めているんです」





   ・・・・

────最期まで。






 声に出せないまま、喉の奥へ飲み込んだ、その言葉を。


「…………そっか」


 私の表情から読み取ったらしいコハルちゃんは、しょうがないわね、とでも言うように、薄く笑った。




 そんな彼女の、頭上のヘイローは。


 ゆっくりと、ほつれる様に。


 光の粒子を、こぼしながら。


 少しずつ、少しずつ、溶けていっていた。







*****







 キヴォトスを揺るがす大事変の黒幕、アポピス。砂糖としてばら撒いた自分の因子によってこの世界に自分という存在の根を張ろうとしたという怪物は────コハルちゃんの尽力と、色んな人の力を合わせたことによって、討ち倒された。

 偶然か、それとも運命の悪戯か、『砂糖』の中毒者を正気に戻し、蛇の因子に汚染されたものを元に戻す力を得たコハルちゃんの手によって、全ての中毒者が浄化され。

 最後に残った『アポピスの器』たる彼女ごと葬られることを恐れた蛇は、コハルちゃんの意識によって叩き出される形で外界に出ることを余儀なくされ。

 正気に戻ったホシノさんとヒナさん、そしてキヴォトスを救うべくずっと動いていた『シャーレ』、そしてミレニアムの天童アリス率いる自称『勇者パーティー』、その他主要な学校からかき集められた連合軍により、さながら怪獣大決戦のような激戦の末、討伐された。


『犯人なんてどこにもいないっ、悪いのはあの化け物だけなんだから……!だから、だから……!』


 事件の真相が大々的に公表されたこと。コハルちゃんの力で全て中毒者が後遺症も無く治ったこと。そして、そこに至るまで献身したコハルちゃん本人の言葉によって。一時は殺戮すら辞さない程にまで膨れ上がった憤怒と憎悪は、瞬く間に落ち着いて行った。

 もちろん、なんのお咎めもなしとはいかず、罪は罪であることに変わりはないと、裁きを受けるべき者は受けることになった。けれどそこに、復讐の念や怨嗟は無かったように思う。

 これ以上苦しみたくない、悲劇を見たくない。そんな思いで、キヴォトスに生きる全ての人の心は、きっとひとつになっていたのだろう。

 さながら傷を癒すように、少しずつ、かつての日常を取り戻して行って。今ではもう、平和な日々が戻って来ていた。







『────これは……身体中のあらゆる身体機能が、衰弱し切って……』

『…………』

『これではまるで、本当に、死た────」

『ねえ、セナ』

『…………はい』

『お願いが、あるの』

『…………なん、でしょうか』


『一度だけ、嘘つきに……ヤブ医者になってくれる?』






 その裏で。



 1人の命が潰えようとしていたことも知らずに。






*****






「気付かれてない、わよね?」

「……はい。知っているのは、ごく一部。全員に口止めはしてあります。絶対とは言い切れませんが……知られていたら、こんな風にのんびりはできてないでしょうから」

「あは……それはそうね」


 ちょっとおかしそうに言うコハルちゃんの声に、覇気はない。こうしてそばにいると、呼吸もごく浅いのがわかる。

 そして、何より。


「ん……」

「…………この跡。結局、消えませんでしたね」

「まあ……名誉の傷、ってことにしといて」


 アポピスの器となった時にできた、両頬の蛇の鱗のような傷跡。そこに手のひらを当てながら、小指でそっと首筋の脈拍を図ろうとする。小指に伝わる血管の鼓動は。とても遅く、弱々しかった。

 狂った私の手によって投与された多量の『砂糖』。許容量をとっくに超過したそれによって、ただでさえ蝕まれていた身体に鞭を打って、キヴォトス中を駆けずり回り。使う度に疲弊する浄化の力を、濫用し、酷使し続け。限界を迎えまともに動くこともままならなくなった肉体を、取引で関係を結んだ協力者からもたらされた外法すら使って無理矢理にでも動かして、アビドスと戦い。

 最後には、自身に宿ったアポピスを無理矢理にでも身体の外へと叩き出した。

 特に、仮にでも『神』とも称される化け物を、弱った体で強引に引き摺り出してしまったのが決定打になった。

 魂、ないし神秘、あるいは『自分という存在そのもの』の内側に巣食う、自分よりも強大な存在規模のそれを吐き出すことは、自分という存在を削ることに等しい。私たちの協力者となった『黒服』という人物はそう分析した。


「……………っ、っ……!」


 あの時に、コハルちゃんは。

 自分の中にある生命力とでも呼ぶべきものを……『生きるための力』のようなものを、ほとんど使い果たしてしまった。


 それは、つまり。


「こはる、ちゃん………!」



 死んでしまう、ということだ。







*****






「────これで、良かったのかな」


「ソフ?」

「言われた通りに手を貸した。あの邪魔な蛇を排除するために。1番有用だったから、使った」

「……はい。使い潰してくれて構わないと、そう言っていました」

「まあ、こちらとしても元よりそのつもりでしたが」

「でもさ。この結末で本当に良かったのか。それが……その、解答が……どうしても……わからないんだ」

「…………………」

「私達は完全性を持って作られたはずなのに。おかしいよね、こんなの」

「ソフ。私達は、これを受け入れるべきかと」

「……………」

「この結末を。この結論を」


「────わかってる。…………わかっては、いるんだ」





*****





「……………いい、てんきね」

「……………はい。風も、とても気持ちがいいです」


 私の様子には触れることなく、コハルちゃんはポツリとそんなことを言った。さああ、と木の葉が擦れる音と共に流れた風が、コハルちゃんの翼や髪をそっと揺らす。確かに、今日の天気はとてもいいものだ。暖かで、爽やかで、とても過ごしやすい。何をするにも絶好の天気だろう。それこそ────


「"眠る"には……丁度いい、かな……」

「………………はい。きっと、心地よく寝られると思いますよ」


 言いながら、そっと頭を撫でる。コハルちゃんは心地良さそうに目を細めた。


「…………………」


 ふと、思い返す。最初にコハルちゃんの憔悴に気付いた時のこと。そして、コハルちゃんの『余命』を知った時のこと。

 アポピスの戦いのすぐ後、『勇者パーティー』の1人で最前線に居た氷室セナさんに診てもらった時に、居合わせた私にだけ知らされた。

 身体の異常は見られなかった。傷も、頬の跡以外にはなにもなかった。病にもかかってなかった。ただ、ただ、ひたすらに……弱っていた。

 手の施しようがない。詳しく検査した結果、告げられたのがそれだった。治すべき損壊が、手を入れるべき病巣が、肉体のどこにも見当たらない。けれど確実に死に向かっている。

延命処置すらできない。肉体とは別のものが死に向かう中で、いくら肉体を癒しても意味はないから。

 それでも、と食い下がろうとしたセナさんを止めたのはコハルちゃん本人だった。

 治療は必要ない、と。そしてこの事は、みんなには伏せて欲しいと。先生にも、言わないで欲しいと。そう願った。


 きっと、わかっていたのだろう。自分の命が、尽きることを。それが、どう足掻いても変えられないということを。





*****





"────ふざけるなっっ!!!"


「……………先、生」

"ふざけるなよ黒服……!なぜそんな真似を許して……!"

「彼女の意志です。彼女の方針や意思決定何においても優先する。それが契約上絶対の付帯条件。そして、彼女が可能な限り極秘とすることを望んだ」

"────くそっ!"

「行ってもいいですが。最早意味をなしませんよ。それは」

"そんなの、やってみなきゃわからな────!”

「なぜなら、既に奇跡は起きている」

"……何?"

「あの日、アポピスが抜け出た時点で死んでいてもおかしくない身体で……今日この日まで、生き長らえた。……おそらく、彼女がそれを願ったから」

"…………………コハ、ル”

「でも、それで終わりです。その小さな奇跡で得られた猶予を如何に使ったところで。更なる奇跡は起きないし──仮に起きても、変わらない。彼女は死に。それに抗う術はない」

"…………………ッッ!!"

「先生。何もできないのですよ、貴方は」


「いや────"私達"、は」





*****





 ターミナルケアを選んだコハルちゃんの側には、それを隠し通さなければならない以上、誰かがついていなければいけなくなった。

 事情を把握していて、コハルちゃんの近くにいてもなんらおかしくない人──白羽の矢が立ったのは、私だった。


「………………」


 本当に誰にも話さなくていいのか。先生なら、なんとかしてくれるんじゃないか。例えどうにもならないとしても、何も知らないまま残される人達のことはどうするのか。

 色んなことを話した。一番辛いのはコハルちゃんだって分かっていたはずなのに、私は自分のわがままばかりをぶつけた。


 嫌だ。

 死ぬなんて嫌だ。

 生きていて、欲しい。

 ずっと、ずっと、この先も。


 こんなのあんまりだって、終いにはコハルちゃんにしがみつきながら泣いた。一番頑張った子が、みんなを助けた子が、一人だけ死ななきゃいけないなんて。そんなのおかしいって。

 それに対してコハルちゃんは。死にたくない、とも言わず。


『ごめんね』


 ただ少しだけ、悲しげな笑顔を浮かべるだけで。


『でも。私のわがまま。聞いて欲しいな』


──────最期の時を、穏やかに過ごしたい。


 そんな、残酷で、悲しくて、あまりにささやかなわがままを。そんな風に言われたら。結局、断ることなんてできなくて。

 私はコハルちゃんの、最後にして最大の隠し事を手伝うことを決めた。


 アビドスカルテルの一人であり、一連の事件の主犯でもあった私だけれど、コハルちゃんと共に奔走したことで事態解決の功労者とも見做され。コハルちゃんからの嘆願もあって、思いの外自由に動くことが許された。

 故に、事後処理と奉仕活動に追われながらも、コハルちゃんと一緒に過ごすことができて。


 そうして迎えたのが、今日だった。


「…………つきあわせちゃって、ごめんね」


 ぽつり、と。コハルちゃんがそんなことを言った。ホシノさんの卒業式に行かせようとした事といい。多分コハルちゃんは、本当の最期の瞬間は、自分一人で迎えるつもりだったんだろう。


「…………ほんとですよ。コハルちゃんのわがままに付き合って、キヴォトス中駆けずり回ることになりましたし」


 目を閉じて、静かに思い返す。先の見えない闇の中で一本橋を歩くような、望みの薄い二人だけの戦い。


「そっちじゃ、ないけど……ぃゃ、そっちも、ありがとう……かな」

「はい。どういたしまして……私が言っていい言葉では、ないかもしれませんが」

「もう………そういうの、だめだって……」

「ふふ、そうでしたね」


 思わず溢れた自嘲を、コハルちゃんは小さく窘めてくれる。そんな優しさが、泣きたくなるくらい嬉しくて、痛くて、胸に刺さる。

 『みんなを助けたい』、なんて願いを抱くほど強く大きい、その優しさに。みんなが────文字通り、そのままの意味で、キヴォトスに生きる全員が、救われた。


「本当に。よくがんばりましたね。コハルちゃん」


 ともすればシャーレの先生にだって負けないくらいのその功績は、こんな風に労うだけで讃え切れるような大きさではないけれど。そう言って頭を撫でると、コハルちゃんはその言葉で充分だとでも言うように、満足そうに小さく笑った。



「………………ねぇ、はなこ」


「はい。なんですか、コハルちゃん」


「もう、おきてられなさそう」


「……………………………そう、ですか」



 彼女のヘイローを見る。マゼンタから桜色のグラデーションをしていた彼女の光輪は、もう半ばまで失われている。


「………………こはる、ちゃん」


 …………これで。


 本当に、お別れ。


「…………………っ……!」


 溢れそうになる嗚咽を。震えそうになる喉を。ゆっくり息を吸うことで、なんとしてでも押さえつける。

 彼女が最期に見るものが、私の泣き顔なんて。そんなのあんまりだから。



「はなこ」


「はい」


「ちゃんと、いきてね」


「……………はい」


「やくそくして」


「……………はい。絶対。守ります」


「……よか、った……」



 言いながら。ゆっくりと、コハルちゃんが手を伸ばしてくる。小さくて柔らかいその手を。壊れないように、そっと握って。私は言う。



「コハルちゃん」


「…………なに、はなこ」


「本当に、よくがんばりましたね。…………疲れたでしょう?」


「…………………ん……」


「だから────おやすみなさい」



「──────────────」



 コハルちゃんが、ゆっくりと、瞼を閉じた瞬間。


 ヘイローが、音も無く、そっと解けて。


 まるで、舞い散る桜のように。


 光の粒が、透き通るような青空に、溶けて行った。


 コハルちゃんを膝に乗せて、きゅっと手を握ったまま。


 その光景を、いつまでも、いつまでも、眺めていた。
















ハナ咲クハル────"D"end2













『ハルの終わり』





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