ネバーランドの子どもたち

ネバーランドの子どもたち



 とある休日の昼下がり、シュガーはドフラミンゴの私室にいた。

 部屋にシュガーとドフラミンゴ以外の人影はない。開け放たれた窓からは風と遠い喧騒の音が吹き込んでくる。シュガーはグレープがいっぱいに入った籠を抱えてソファーに腰掛け、いつもようにグレープを指に刺して食べていた。

 ドフラミンゴは本来の子供の姿でシュガーの隣に座っている。普段は糸で作った大人の姿を纏い、電伝虫を片手に取引先や傘下の海賊を脅したりすかしたりしているのが常だが、今日はドフラミンゴも手が空いているようだった。分厚い大判の本を膝に乗せて読んでいる。表題を読むに経済学の本らしかった。


 シュガーは休日のほとんどをドフラミンゴと共に過ごすことが多い。それはシュガーが特別幹部という特殊な立ち位置にあり、現ドレスローザの支配体制の要を担っていることも理由の一つだったが、一番の理由はシュガーとドフラミンゴ自身がそうすることを望んでいるからだった。


「若様、口あけて」


 シュガーはグレープを一粒つまみ、ドフラミンゴの口元に持っていく。ドフラミンゴは一瞥もせず素直にそれを口にした。シュガーは喜びと優越感の入り混じった感情が自分の胸をくすぐるのを感じた。ふふん、と満足げに笑いながらシュガーは新しいグレープを頬張る。


 何度かその下りを繰り返した後、シュガーは席を立った。座っているのに飽いたのと、本を読みたくなったからだった。

 ドフラミンゴの私室に置かれた本棚には、彼が選んだ様々な分野の本が詰まっている。医学、歴史学、経済学、地理学、心理学、その他諸々──大抵はシュガーには理解できない難解な学術書ばかりだが、何冊かそうでないものもあった。最近のシュガーのお気に入りは西の海で有名な画家の画集だ。鮮やかな光と色彩の表現と、同じ風景を何度も繰り返し描くのが特徴の画家だった。

 シュガーは本棚の前で目的の本の背表紙を探す。以前読んだときは下段の方にしまったはずだが見つからない。少し上の方を向いてみると、目的の本は二段上にあった。位置的には手を伸ばしてギリギリ届くかどうか、といったところだ。


 シュガーはつま先立ちになってぐっと腕を伸ばす。しかし伸ばした手は奮闘虚しく空を切った。仕方なくシュガーは何か踏み台になるものはないかと辺りを見回す。すると突然、目的の本が勝手に本棚から抜け出し、ふわりとシュガーの目の前に降りた。目を凝らして見れば細い糸が本に巻き付いている。シュガーが本を手に取ると、糸はするすると解けて消えていった。

 シュガーは振り返る。ドフラミンゴは本に目を落としたまま、わずかに片手を上げていた。


「ありがとう若様」


 両手で本を抱えてシュガーは席に戻る。大人の姿のドフラミンゴが使うことを想定して用意されたソファーは、シュガーと今のドフラミンゴが二人で座っても大きすぎるくらいだった。半ばよじ登るようにして腰掛け、シュガーは早速本を開く。夕暮れの港を描いた絵や日傘を差した女性の絵がたちまち目に飛び込んできた。


「なあシュガー」


 不意に、幼い声が耳朶を打った。シュガーがぱっと顔を上げると、ドフラミンゴが本から視線を移し、じっとシュガーを見つめていた。その双眸はサングラスに隠され、どんな感情を宿しているのか窺うことはできない。シュガーは黙ってドフラミンゴの言葉を待った。


「お前、その体に不便を感じたことはないのか」

「不便?」

「ああ。俺は能力でどうとでもなるが、お前は違うだろう」


 シュガーは少し考えた。「その体」とはホビホビの実を食べたことによって、十歳のときから成長しなくなった体のことだろう。

 確かに、先程のように高い所には手が届かないし、誰かと歩くと歩幅の差からよく置いていかれるし、幼い外見から侮られもする。不便と言えば不便かもしれない。とはいえ、実際にそう感じたことがあるかと問われれば、答えは「ノー」だった。

 王宮やアジトにおいて、シュガーが必要とするものやよく使うものはきちんと手の届く高さに置かれているし、シュガーの任務は移動や遠征を必要とするものではない。外見だけで相手を侮るような輩はオモチャに変えてしまえば済む話だ。

 他にも、いつまでも生え替わらない乳歯だとか、もう二度と縮まることのない姉との身長差だとか、様々なことがシュガーの頭に浮かんだ。


 数瞬の思考の後、口の中に残っていたグレープをこくんと飲み込み、シュガーは答えた。


「そうね。強いて言うなら、一度くらいワインを飲んでみたかった、って思うこともあったわ」


 シュガーもドフラミンゴも、世話焼きの姉や初代コラソンを筆頭とするファミリーの幹部たちから飲酒を止められている。シュガーはそのことには納得していた。ドンキホーテファミリーのトップと特別幹部が急性アルコール中毒で死亡など笑い話にもならない。

 それでもやはり、好物のグレープを材料とするワインには幾分かの興味と未練があったのだ。不老の体による不便には、きっとこれも含まれるだろう。


「でもそんなのどうだっていいの」


 ばっさりとシュガーはそう言い切る。黙ってシュガーの言葉を聞いていたドフラミンゴは少し驚いたようだった。シュガーは誇らしげな笑みを浮かべて言葉を続ける。


「だって、若様の役に立てて、若様と『同じ』になれたんだもの。これ以上の幸せなんてないわ」

「──フフ! 嬉しいことを言ってくれるじゃねえか」


 ひどく上機嫌な声色でそう言うと、ドフラミンゴは指先を動かす。能力を使っているときの動きだ。少しすると、開けっ放しの窓からグレープジュースの瓶と二つのワイングラスが吸い寄せられるように現れた。


「代わりといってはなんだが」


 ドフラミンゴは本を閉じて脇に置き、慣れた手つきで瓶の蓋を開け、中身をグラスに注ぐ。濃い赤紫色の液体がゆっくりとグラスを満たしていき、かぐわしいグレープの香りが鼻腔をくすぐる。それを見ていると、誰もが欲しがるものを自分がこっそり独り占めにしているような心地がして、シュガーは密かに胸を躍らせた。

 注ぎ終わり、ドフラミンゴが片方のグラスをシュガーに差し出す。シュガーはくすりと笑ってそれを受け取った。そしてファミリーの集まりでいつもやっているのと同じように、二人はグラスを高く掲げる。


「ありがとう、若様」


 シュガーはもう一度礼を言った。グレープジュースに対してだけではなく、もっとたくさんのことに対する礼だった。ドフラミンゴには伝わっていないだろう。それでいいと思った。


 シュガーはグラスに口をつける。冷えた液体が喉を滑り落ち、爽やかな甘味が口一杯に広がった。飲みながらシュガーは思う。

 本物のワインよりも、ドフラミンゴがワインの代わりに用意してくれるグレープジュースの方がずっといい。そしてそれと同じように、大人になるよりもドフラミンゴと同じ子供のままでいる方が、シュガーにとってはずっと価値のあることなのだ。

 こればっかりは、最高幹部にも、他の誰にも手に入らない、シュガーだけの特権だ。

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