ローとレイナさんの話
コラソンと二人でファミリーを裏切って始めた旅の途中、しんしんと降る雪の中、コラソンが「ドフィには子どもがいたんだ」と話したことがある。
「レイナさんとの子だ。おれにもよく懐いてた。みんながあの子を可愛がったよ」
素直に驚いた。あの海賊団にいる間、そんな話を聞いたことは無かったからだ。噂一つ、下っ端の部下たちすら一言も漏らさなかった。
だが、それを聞いてしまえばレイナの態度の理由がわかった。ローは少し黙って、「だからおれに優しかったのか」と呟く。あの人はいつだってローを気にかけていた。どこか母に似たあの人が、ローと誰かを重ねていることはなんとなく分かっていた。
「だとしたら迷惑だ。おれの母様はひとりだけだ」
コラソンはローの呟きに悲しそうな顔をして、「そうかもしれないな」と静かに答えた。
「でも……レイナさんは初めから優しい人だったよ」
知ってるよ、と返そうとしてやめた。
あの人はずっと優しかった。誰もがあの人に救われていた。分かっている。ローが子どもでなくたって、彼女はきっと母のようにローを愛しただろう。
だからコラソンへの返事の代わりに、寒いなとだけ言った。コラソンは少し笑って、ローの身体を思い切り抱き締めた。
彼の身体は温かかった。
一度だけ、彼女が泣いているのを見たことがある。暖かい陽の光がさすテラスで、ベビー5から貰ったらしい一輪の花を見て、静かに涙を流していた。無視しようと思ったのに、なんだか彼女の顔を見ていると無性に不安になって、つい声を掛けてしまったのだ。
「おい」
「……ロー?」
こちらに気付いてきょとりと目を丸くしたレイナに、何を言ったものかと足の指を丸める。しばらく迷っていると、彼女はふと笑って手招きした。
「ロー、おいで」
「……フン」
ローは誘われるままに寄っていって、乱雑に自分にはまだ高い椅子に腰掛ける。
テーブルに置いたローの手に、柔らかな女の手が重なる。振り払えばいいものを、ローは彼女の横顔を一瞥しただけに留めた。
「ローは温かいね」
「……アンタは冷たい」
「ごめんね」
彼女の手はローに比べて随分冷えていた。氷に触れているような冷たさだ。繋いだ肉越しに、凍った心に触れているようだった。
「別に」
「まあ手が冷たい人は心があったかいって言うしね」
「自分で言うなよ」
目を逸らして彼女は笑った。彼女の瞳は、瓶に活けられた真っ赤なバラの花に注がれていた。彼女の髪と同じ色だ、とぼんやりと思う。
「……いけないわ。悪いことばかり考えてしまう」
「悪いこと?」
「色々……家族のことを考えてた。私のことは忘れていないか。私は彼らのことを忘れていないか」
いつの間に彼女は泣きやんでいた。
蔓のように滑らかに這って、彼女の指先はローの手から離れる。滑らかな指は白く光り、何れ老いる皺の予感も無く、月のような爪が踊る。太陽に向かって伸ばされる手を見つめ、彼女は自嘲するように笑った。
「不思議ね。あんなに帰りたいと願ったのに、もう故郷のさざ波すら遠いの」
「この海賊団だって……家族みたいなモンだろ。ドフラミンゴはそう言ってたぞ」
「そう……そうね。ええ、ここでの生活も家族よ。ロー。あなただって私たちの大切な家族」
レイナはローのカサついた頬を撫でて笑った。その笑みはどこか哀切の響きを伴って、ローの心臓をやさしく撫ぜる。
髪の色も顔立ちも、声すらも似ていないのに、ローは母を思い出した。記憶の中で幸せそうに笑う母が、目の前で静かに目を伏せる彼女に重なるのだ。
「……もう泣くなよ。お前が泣いてると落ち着かない」
ローは気付いていた。この人が自分に注ぐのは、母の愛なのだ。慈しむ、穏やかな愛情。ひどく懐かしいそれは望郷の念を煽り、同時に彼を惨めにさせた。どうせ数年の命を惜しむ彼女を笑ってやりたくて、しかし暖かな春の日差しを思わせる彼女の笑みに、ローは視線を落とすことしかできなかった。
俯いたローに、レイナは笑う。
「ええ、泣かないわ。泣かないわよ、ロー。だって私、今が幸せだもの」
結わえた髪が風に揺れる。彼女のその笑みを見て、心が安らぐ感覚がした。
コラソンの大きな身体に包まれて、あの日のことを思い出す。彼女は今どうしているだろうか。ドフラミンゴは、妻に寄り添っているのだろうか。海賊とは思えないほどお人好しなあの人が、自分たちのせいで傷付かなければいいと思う。幸せに過ごせばいい。おれの知らないところで幸せに笑っていればいい。
誰にも言ったことはなかったが、ローはやけに寂しい笑い方をする彼女のことが好きだったのだ。