ドイツ同室組

ドイツ同室組



「……俺?」

絵呂と名乗る怪人物の最低な演説が終わって、無機質に"鬼"の名前が読み上げられる中、発せられたその6文字。"いさぎよいち"の音に、目の前の双葉が動揺したように揺れた。

雪宮剣優は畢竟呼ばれなかった安堵と、自分たちの指導者によく似た奴がこのような最低事を催している事実への嫌悪と、同室の後輩が呼び上げられた不安とで、ふっとモニターから目を伏せる。よりよく視界に映るようになったその黒髪は、かすかに震えている。

「……」潔、と彼に声を掛けようとした時、ブザーが鳴り響いた。右隣でハッと息を呑む音が聞こえたので、大方氷織も同じようなことをしようとしていたに違いない。

間抜けなようで力強いブザーの音とともに、モニター上で秒が刻まれ始める。潔は導かれるように、一歩、二歩と、不安げにあるいは平然として"鬼"たちが集まるモニター下へ歩いていった。それが彼の意思なのか、それとも何か不思議な力が働いているのか、雪宮には判別が付かない。

「……氷織くん、黒名くん」

雪宮は目の前で呆然と動きを止める二人に声を掛ける。彼らは跳ねるようにすぐ振り返って、ゆらゆらと落ち着かない瞳でこちらを見た。

二人も、潔が心配なのだろう。モラトリアムの十分間が始まって、大多数が我可愛さにこのジョイントルームを出ていったというのに、走り出す予兆も見えない。

雪宮も同じことだった。まぁ、潔だけじゃなくて、氷織や黒名はもちろん、鬼として呼ばれたドイツ棟の二年生たち、つまり後輩たち全体への心配が含まれてはいるが。カイザーとネスは知らない。あいつらなら勝手にどうにでもするだろ。

「雪宮、……」牡丹色の中に揺れる細長い瞳孔が、雪宮を捉える。

「……」イタリア戦以来吹っ切れた氷織はさすがに落ち着いているが、それでも思案するその横顔には暗い色が滲んでいる。

モニター上に表示された温かみもクソもないデジタル数字は、どんどんその身を削っていく。

「やっぱ……」氷織が恐れと決意を孕ませて控えめがちに口を開きかけたのを、雪宮は静かに遮った。「逃げよう」

「「!」」

驚いたように氷織が目を剥く。「……ええん?だって、」

氷織の言いたいことは大方わかる。『先んじて潔に捕まろう』だ。最後まで潔が一人も捕まえられなかったら、彼は片足と輝かしいサッカー人生を失うことになる。友人なのはもちろんのことだが、三人は潔世一のサッカーに多少なりとも救われてここにいる。こんなところで、意図しない状況で、彼の人生そのものとも言えるサッカーが失われていいものじゃない。それぞれが何も言わずとも、明らかにそれは全員の共通認識だった。

……だが。だからこそ。

「わざわざ捕まるにしても、今じゃない」

絵呂はゲーム終了までにと言った。つまりあと一日ある。その間に、逃げる方法が見つかるかもしれない。もし今捕まれば、絶対に一日以上は解放されない。下手に潔に心配と責任も掛かる。……最後のギリギリになって、潔を見つけ、自分たちを捕まえるように申し出るのが最善だろう。

雪宮の説明に、氷織と黒名は顔を見合わせた。……そして、言葉と気持ちを咀嚼するように瞼をいくらか瞬いたのちに、頷いた。

「……確かに、焦らん方が良さそうやね」

「わかった、わかった」

納得してくれた様子に、ほ、と息が漏れる。よかった。

「じゃあ、鬼が動かないうちに行こう」

鬼には士道龍聖がいる。あの平然とした様子を見る限り、眉ひとつも動かさないで困惑の内に取り残された逃走者たちを捕まえに来るだろう。

最後に潔に捕まえてもらうために、捕まるわけにはいかない。

黒名を置いていかない程度、けれどある程度のスピードを持って雪宮は歩き出す。二つ足音が付いてくるのがわかる。

ポツポツと残っている逃走者たちを横目に部屋を出る途中、ちらりと時計を確認した。


猶予時間、残り5分28秒。この様子なら、早々捕まることは無いはずだ。





ブーーーーーッ……

二度目のブザーが耳を劈き、三人は肩をびくりと跳ねさせた。

氷織がキョロキョロと特に何もいない廊下を見回しながら言う。

「……鬼が動き始めたみたいやね」

「うん」そうだね、と言おうとした矢先、ピロン♪と耳元の翻訳イヤホンから電子音が響いた。ここもジャックされてるのか、と仄暗い気持ちが渦巻く間もなく、機械音声が話し出す。

『剣城斬鉄が、確保されました』

「は!?」

「…え」

「斬鉄くんが……?」

三者三様に驚きを呈する。思わず足も止まる。

どうして、と言おうとした時、一度黙ったイヤホンから再び音が聞こえた。

『なんだお前ら!?デブルーロックマンズか!?』

「……斬鉄くんの声や」

『おい、なんだ、俺は縄文戯画じゃないぞ!』

「鳥獣戯画、かな。いつもの調子だね」

いつも通りの、気の抜けるような語彙に思わず頬を緩めかける。

……しかし、イヤホンの向こう側は次第に、間抜けな状況とは言い難い方向へ進んで行った。

イヤホンの向こうで、パンッ、と頬を張る音が響く。

『……は?』その後に落とされた、本当に訳が分からないと言うような斬鉄の声。眼鏡が落ちる音も遠くで聞こえてきた。

『な、なんだよ、離せ、おい』急な張り手で頭の良さを提示しようという余裕もなくなったらしい彼の低い声に、身体が少し緊張する。三人とも、足を動かすどころかもはや一言発することすらせずに、じっと耳に神経を集中させた。

『何する気だ、やめろ、ちょ、いや、嫌だ!!』

「ひ、……」

『痛っぁ"!!やめっ!くるし、お"っ、』

びりびりと鼓膜を揺らす声圧に、いやそれだけじゃない、その後ろから聞こえてきた湿った気味の悪い荒い息遣いと肌と肌がぶつかる音に、黒名がふらりと倒れかけた。咄嗟に彼の下に手を出した雪宮は、同じく黒名を支えようとした氷織と目を合わせる。

「……とりあえず、逃げよか」

「そうだね。逃げ方は考えなきゃいけないけど……」

未だに鳴り響いている地獄に出来る限り意識を逸らしながら黒名を立たせる。

「大丈夫?」

「問題ない、ない。ちょっとびっくりしただけだ」

「体調おかしなったり疲れたりしたらいつでも言いや。休憩もできるやろし」

「ん」

「そうだね、手頃な部屋でも入って……」部屋。確かに。場所によっては鍵も掛けられる……「……あ」

「どうかしたん?」

「部屋に入れば、大分逃げやすくならない……?」

鍵を閉めてしまえば、人間は突破できない。しかも下手に逃げ回らなくてもいい。

「………いや、最強すぎひん?全く捕まらへんやん。絵呂は気づいてへんのやろか」

「確かに、気づいて罠とかを仕掛けてる可能性もあるけど………まぁ、俺が確かめるよ。もし危なそうだったら二人は逃げて」

「……ええん?」

「平気だよ。足を切る条件が"300人のうちで一人も捕まえられなかったら"なんて中々ない状況を指定している以上、サッカー出来なくなるような罠はないでしょ」

もしも捕まっても、犯されているのを耐えればいい。成人してる分二人よりもある程度そういう知識はあるし。一番平和だ。

「先輩として、これくらいは見栄張らせて欲しいな」

「……わかった」

「回避出来そうなやつは雪宮くんも避けるんやで?」

もちろん、なんて笑った時、ちょうど見知った扉の群が見えてきた。雪宮は鍵が掛かるはずの、自分たちの自室と同じ形の扉を開けた。

「……」

そこはやはり誰かの四人部屋のようで、大分とっ散らかっていた。一時間ほど前、まだ朝日も恐らく昇らないうちに急遽絵心(実際は似て非なる絵呂珍八だった訳だが)呼び出されたときの慌てがよく現れている。

あまりに乱雑で、ごくごく自然なその部屋に、変な仕掛けはなさそうに見える。よく分からない何かがいる訳でも、なさそうだ。

「大丈夫……そうやね」後ろで見ていた氷織もほっと胸を撫で下ろした。

「うん」雪宮も頷いて、一応二人を入口に留めたまま室内を軽く点検してから、二人を手招いた。「一旦ここで休もう」

タッチパネルを操作して扉を閉め、ちゃんと鍵も閉める。何故か知らないが物理的な鍵とチェーンも付いてたので、掛けておくことにした。あとは散らかってるものとかを全部扉の前に寄せる。これで入ってこられずらくなる。

一通り用心を重ねた入口付近は内側から部屋を開け出ていくのも少し時間を要する状態になった。ここまで厳重にすれば、流石の士道でも開けて来れないだろう。

三人は息を吐いて、各々適当にベッドへ座った。

「ひとまず安心やね……」

「ん、……」

氷織に応じた黒名が、ふぁ、と欠伸をした。釣られて雪宮、氷織と欠伸が伝染る。突如生まれた穏やかな空白に、三人は顔を見合わせて笑った。

「緊張感ないなぁ」

「まぁ、朝早かったしね」

「眠い、眠い」

ぼふんと音を立てて黒名が横になる。

……と、あっという間に寝息が聞こえてきた。

「本当に眠かったんだね……」

「いつの間にかイヤホン放り出してもうてるし、寝る気満々やで」

「あはは、ほんとだ。……俺らも、寝ようか」

「まぁ、そやね。そうそう突破されんやろし、三十分後に目覚まし掛けよか」

「うん、じゃあ、おやすみ」

「おやすみ」

氷織がイヤホンとスマホを隣の棚に律儀に置いて、寝転がる。

雪宮はもう一度部屋の施錠を確認してから、メガネとイヤホンを外して横になった。

扉の外で、どこかで起こったドタバタ音を遠くに聴きながら、そっと目を閉じる。

微睡みの中、遠くで誰かが逃げ回る音の中で、小さく天井が音を立てたが、二人はもちろんのこと、雪宮もついぞ気づくことはなかった。

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