トレーナーの恋人はやべー女 Episode2
「セイウンスカイとノリの軽いトレーナー」もよろしくなんだ命が危険なほどの暑さが少しだけ落ち着いた日。
トレーナーは担当ウマ娘のメジロライアンと、河川敷のランニングコースでトレーニングに励んでいた。
「ライアン、飛ばし過ぎじゃないか!? この暑さだとあんまり無理したら脱水になるぞっ」
ロードバイクに跨ったトレーナーの問いかけに「大丈夫です!」とメジロライアンは笑顔で返してみせる。やはりウマ娘はヒトよりスピードもスタミナも段違いだ。それなりに鍛えているトレーナーでさえ、ロードバイクでついていくのがやっとなのだから。
「そ、そろそろ休憩しよう、俺の方が限界だ」
「ふふ、しょうがないですね。それじゃあひと休みして水分補給しましょうか」
素直にギブアップする。しょうがない、なんて顔で先を走っていたメジロライアンがこちらを振り返った。
悔しいけれど仕方ない。いくら自転車とはいえ、ウマ娘に張り合おうという事自体に無理があったのだ。
「ほい、ぬるくなっちゃってるけど」
一応は保冷機能のついたバックパックに凍らせたドリンクを入れていたのだけれど、今日の暑さですっかり溶けてしまっていた。
「十分ですよ。あまり冷たすぎるのをたくさん飲んだら、体に負担がかかっちゃいますから」
玉のような汗を身体にまとわせ、ごくごくと喉を鳴らしながら。手渡したドリンクを飲み干すメジロライアンの姿に、いつの間にかすっかり見惚れてしまっていた。
だから気づくのが遅れてしまったのだろう。愛しの彼女が射抜くような視線で、こちらを見つめていたことに。
「あの、トレーナー……さっきからこっちを見てる女のヒトがいるんですよ。もしかしてトレーナーのお知り合いでしたか?」
ライアンの声にハッとして視線をずらす。なんでこんなところに、なんて思ったところで後の祭り。まさかトレーニング中に彼女と出くわすとは。
「あー、ありゃあ……まあ俺の彼女だ」
苦笑いを浮かべながら言葉を返す。まさかライアンに見惚れてた、なんてバレてはいないとは思いたい。
ふと、ライアンが一瞬だけ真顔に戻る。確か彼女がいたことはライアンには前に話していたはず。確か……話していたと思う。
「へー、なるほど、あれがトレーナーさんの彼女さんでしたか」
平坦なトーンの声。気のせいだろうか、いつも快活なライアンのトーンとは違って聞こえた。嫌な汗が背中を伝う。
ライアンは何も言わず、笑みを浮かべて彼女に向かって手を振っていた。ライアンの態度が気にかかるけれど、仕方なく俺もいっしょに手を振る。
彼女は俺たちの方へゆっくりと近づいてきた。手には買い物袋を下げており、俺たちを見てやや戸惑った表情を浮かべている。トレーニングの邪魔にならないか気にしているのかもしれない。
「あ、あの——」
「こんにちは、メジロライアンです! トレーナーさんにはいつもお世話になってます!」
ライアンは彼女の手を握る。ライアンの元気さに彼女は驚いたのか、ほんのわずか引きつった笑顔を浮かべていた。
「いやー、まさかトレーナーさんにこんな可愛い彼女さんがいたなんて。お会いできて光栄です!」
「わ……私もまさか、メジロライアンさんと会えるなんて思いもしませんでしたっ」
ライアンはしっかりと彼女の手を握ったまま、離そうとしない。そろそろ離してやってもいいのではないだろうか。
「いつまで手を握ってるんだよ。もう離してあげたら」
「すみません、興奮しちゃってつい」
ライアンが手を離す。ようやく手が解放されたせいか、彼女はほっとした表情を浮かべた。
「それじゃこれで失礼します。あの、トレーニング頑張ってくださいね」
そそくさと立ち去る彼女の背中を見送る。もう休憩も十分とったし、トレーニングを再開しよう。そう、思ったのだけれど。
「……どうした、ライアン」
すでに小さくなった彼女の背中を見つめたまま、ライアンは動こうとしない。
「ほら、トレーニングに戻ろう」
「わわっ、すみません! ちょっとぼーっとしちゃって」
「この後は軽く流すだけで終わろうか? 暑さのせいで消耗しているのかもしれない」
「いいえ、大丈夫です。本当に——大丈夫ですから」
なんだかいつもと違う様子に違和感を覚えつつ。本人が大丈夫と言うのだから、これ以上は深くは聞かず、トレーニングを再開した。
◇
「ただいま。いやぁ今日も暑かったな、悪いけどさっそく一本もらう」
帰るなり、かしゅっと音を立てながら彼は缶ビールをさっそく開けた。いきなり飲み始めるのはどうかと思ったけれど、ここ最近の暑さなら仕方ない。そう思って許してあげることにする。
「今日はびっくりしちゃった。まさか買い物帰りにあなたに会うなんて」
「ああ、ライアンは喜んでたぞ。可愛い彼女さんですね、って学園に帰ってからもはしゃいでた」
ビールの酔いもあってか、彼の機嫌はよさそうだ。彼女である私のことをほめられて嬉しい、というのもあるのかもしれない。それなら悪い気はしないのだけれど。
「でもウマ娘と比べたら私なんか月とすっぽんだよ。ずるいよねぇ、あんなに速く走れて、あんなに可愛いんだもん」
「ライアンはボーイッシュってよく言われるけど、間近でみたら美人だろ?」
缶ビールを傾けながら彼は口元を緩める。私は晩ごはんの油そうめんを器に盛りながら、彼のことを少しにらんでやった。
「彼女の前でそんなこと言うなら、もうお酒抜きにしちゃうよ?」
「いやー悪かった。でもライアンが興味津々みたいでさ。今度またお前と会いたいって」
慌てて謝る彼に、私はどう言葉を返すべきか悩んだ。スターウマ娘と会える機会なんて普通ならそうそうない。ファンならうらやましいと思うはず。
でも私は——ライアンにまた会うのを“怖い”と思ってしまっていた。
「……どうした?」
そんな私を見て彼は心配そうに声をかけてくれた。私はじっと自分の右手を見る。箸を握る手にずきりと痛みが走る。
「ライアンに握られた手——今でも少し痛むの」
ウマ娘は脚力だけでなく腕力もヒトをはるかに上回る。もしウマ娘に本気を出されれば、私なんか間違いなく無事ではすまないだろう。
「大丈夫か? ライアンのヤツ、少しテンション上がりすぎちまったかな」
「うん、手を動かすのに支障はない……かな」
曖昧に返事をしながら、私はそうめんをすする。本当はライアンに手を握られた時——少しだけ怖かった。握りつぶされるんじゃないか、っていうくらい手を強く握られて。
たぶんあれは、私への宣戦布告。もしくは警告かもしれない。トレーナーは決して渡さない、という意思表示。
——やめて。
いつの間にかぐるぐるし始めた意識の中で、無意識のうちに祈っていた。私から彼を奪わないで、と。
あなたたちウマ娘はトゥインクルシリーズという舞台でキラキラと輝いているじゃない。
私は何の取り柄もない、ただのヒトでしかないというのに。私がウマ娘より唯一抜きんでている事といったら、ただ彼とそばにいられることだけなのに。
そう、彼とそばにいられることだけ。
彼とそばにいられるという権利だけは、絶対に渡さない。たとえ死んでも渡すものか。だって、ここで彼をぶすっと刺して、私も死んでしまえば。
たとえウマ娘だって、私を邪魔することなんてできないもの——
◇
「——おい、しっかりしろ」
優し気な、困ったような声。こんな彼の声で目覚めるのなら、あの世も決して悪くない。
「食べながら寝るとか、お前は赤ちゃんか」
我慢しきれず彼が吹き出している。目の前にはほとんど食べ終えた晩ごはんの食器が並んでいる。ごく普通の食卓。もちろん血の付いた包丁なんて転がっていない。
ああそうか、あれは夢だったのか。まさかご飯を食べてる最中に眠ってしまうなんて。
「疲れてるんだろ。俺が食器とか片付けるから、先にお風呂入んな」
彼に気をつかわせてしまった。
疲れてるのはあなたの方なのに。でも私は何も言い返す気力もなくて、言われるがままにお風呂場に向かう。
蛇口をひねって熱めのシャワーを頭から浴びる。決してスタイルがいいとは言えない、貧相な体を水滴がすべり落ちるのを見ていると、私はひどくみじめな気持ちになってしまっていた。
髪を乾かしてお風呂を上がる。食器はすっかり片付いていた。彼は私の頭にぽんと優しく手を置いてから、入れ替わりでシャワーを浴びに行く。
お風呂場から水音が聞こえてくる。彼はリラックスしてシャワーを浴びているから、不意に襲われても反撃はできないだろう。シンクの洗いかごには彼がさっき洗ってくれた包丁が置いてある。
ここで彼をぶすっと刺してしまえば、きっと——。
——いいや、何を考えてるんだ私は。
情緒不安定にもほどがある。
さっきだって彼は私のことを気づかってくれたのに。なんだかんだ言って、彼はウマ娘のことよりも私のことを優先してくれる。
だから大丈夫。心配することなんかない。だって、私は、彼の大切な……大切な、何なんだろう?
「あれ、なんで、わたし、泣いてるの」
ちっとも大丈夫なんかじゃなかった。頬をつたう涙の感触。不安でたまらなくて、押しつぶされそうになってしまう寸前、彼がお風呂から上がってきた。
「なぁ、たまにはシャワーより温泉にでも……っておい、どうした」
慌てて彼が駆け寄ってくる。忙しい彼に心配をかけてしまうのが本当に情けない。
「……今日はもう寝よう。明日の朝ごはんは俺が作るよ」
けれど、彼が私のことを心配してくれるのは嬉しい。そんなずるいことを考えてしまう。
ベッドに入ると私はぴとっと彼にくっついた。息を吸いこめば、肺の中が彼のにおいで満たされる。
何よりも安心できるものに包まれたせいか、私の意識はゆっくりとまどろんでいった。眠たくて仕方ないのに眠りたくない。だって、こんなにも幸せな時間はすぐに終わって欲しくないから。
だから私は、きょう一日の最後にワガママを言うことにした。
「……あなたがウマ娘を大切に想ってるのはわかってる。でもお願い、私の方が大切だって言って」
ほんの少し、間があって。
「しょーがねえなぁ」
なんて言いながら、彼は私の頭をくしゃりとなでてくれた。
思わず口元がゆるんでしまう。彼をひとり占めできるのは私以外にいないもの。そこに関しては、たとえGⅠウマ娘にだって負けないんだ。
そんな優越感と、彼にワガママを言ってしまったほんの少しの罪悪感に包まれながら。私はゆっくりと、安らかな眠りの中に落ちていった。