トレーナーの恋人はやべー女 Episode
「セイウンスカイとノリの軽いトレーナー」もよろしくなんだひとりで彼の帰りを待つ、ということにはもうすっかり慣れてしまっていた。もしかしたら早く帰ってくるかも、なんて。そう思って作っておいた夕食はもうすっかり冷めてしまっている。
あまり面白くない月9のドラマが終わった頃、ようやく待ちわびたインターホンが鳴った。私はぱたぱたとさほど広くない2LDKの廊下を駆け抜ける。ドアの鍵を開けると、彼は疲れた顔をしていた。
「ごめんな、今日も遅くなった」
「いいの。でも晩ごはん作ってあるんだから、せめて帰る時間は連絡してほしいな」
ぼすん、と彼の胸に頭突きをしてやった。彼よりも30センチほど小さい私の頭は、ちょうど彼の胸くらいの高さなのだ。
申し訳なさそうにごめん、と謝る彼を見ていると可哀そうになってくるからこれ以上責めたりはしない。作っておいた晩ごはんをレンジで温める。
「食べないで待ってたのか? 先に食べててよかったのに」
彼は冷蔵庫から缶ビールを取り出す。ふたり分の食器を並べる間、彼はぐびぐびとビールを流し込んでいた。
気持ちよさそうにビールを飲んでいる彼を見ていると、針で刺されるように心が痛んだ。思い出すのは先日友人から言われた話。
——あなたの彼とウマ娘が街で歩いてるのを見たんだけどさ。何ていうか、ごめん。言いづらいんだけど……あの距離感は、トレーナーと教え子、って感じじゃなかったよ。
「……どうした?」
はっと私は我に返る。どうやらいつの間にか、ぼうっとしてしまっていたみたいだ。
「何でもないの。後はサラダにドレッシングかけるだけだから。さ、食べよっ」
今日のメインのおかずはゆで豚と温野菜のサラダ。お肉だけだと遅い時間に食べるにはちょっと重いからと、わざわざ考えたメニューだ。彼の体のことだって気になるもの。
「「いただきます」」
ふたりで手を合わせる。彼はもう2本目の缶ビールを開けていた。お酒の飲みすぎはよくないけれど、お酒をやめるように言ったことはない。彼の楽しみを奪いたくはなかった。そんなことをしたらきっと嫌われてしまう。
「ね、来月あたりに連休とれそうかな。お父さんとお母さん、久しぶりに会いたいって言ってるんだ」
夏はG1レースが少ないし、他の時期と比べたら休みは取りやすいはず。そう思っていた。大切な話をするには今がいちばんいい。
それに、いつまでもただの『恋人』ではいられない。そろそろ次の関係に進みたい。死がふたりを分かつまで、私は彼と添い遂げるつもりだから。だから私は彼の『妻』にならないといけない。
そう思って、両親と会わせたかったのだけれど。
「——悪い。しばらくまとまった休みはとれそうにないんだ」
彼が握りつぶしたビールのアルミ缶が音を立てる。
「大きいレースはないんでしょ? 少しくらいは時間、とれないの」
「レースがなくたってヒマなわけじゃない。トレーニングだけじゃない、メンタルケアだって必要なんだよ、アイツらには」
どろり、と私の心の中に黒いものが流れ込む。
メンタルケアってなに?
私よりも大事なこと?
「……担当ウマ娘とデートみたいに出歩くことが、そんなにも大切なことだっていうの」
「デートじゃない。精神状態の良し悪しは、時としてレースの結果に影響することだってあるんだよ。はた目にはただウマ娘のご機嫌を取っているように見えるかもしれんが」
もう我慢の限界だった。ご機嫌をとるくらいなら、まだいい。それが浮気でないのなら。
「友達から聞いたの。あなたとセイウンスカイが歩いてるのを街中で見かけたって。しかも、ずいぶんと近い距離でくっついてたって」
「た、たまたまだよ。あいつはときどき俺をからかってくるんだ」
「ほんと? メジロライアンやサクラローレルとだって、出かけることはあるんでしょ」
まぁな、と答えながら彼は3本目のビールを開けた。彼の渋い表情を見ていると、私の胸の中にどす黒い感情がますます広がっていく。
本当なら私だって素直な気持ちで彼の担当ウマ娘を応援したい。
でも、できない。
彼の担当ウマ娘は重賞レースに出る事もたびたびあり、その様子はテレビで中継される。ゴール板を駆け抜け、勝利に喜ぶウマ娘の笑顔。
彼女たちの笑顔は、観客でもなく、テレビカメラでもなく、いつだってトレーナーである彼に真っ先に向けられるのだ。
ひとりぼっちの部屋で、私はいつもテレビの前でその光景を見せつけられていた。本当なら彼の担当ウマ娘の勝利を喜ばないといけない、そう思っていたけれど。
でも、できなかった。
彼女たちが勝利に喜ぶ姿を見て喜ぶことよりも、嫉妬する方がはるかに多いのだから。
ウマ娘はみんな眉目秀麗、ちんちくりんで貧相な私なんかよりずっと美しい生き物だ。彼はお酒好きでどこか掴みどころのない感じがあるけれど、気配りができて優しい。担当ウマ娘だってきっとそんな彼を好ましく思っているだろう。
そうなったら、勝ち目なんて、ない。
私はライアンみたいにスタイルも良くないし、スカイみたいに愛嬌があるわけでもない。ローレルみたいに女の子らしくもない。
せいぜい私がウマ娘たちにただひとつ勝てること、と言ったら。彼の恋人であるという立場だけ。
もしこの立場が彼の担当ウマ娘たちに脅かされるとしたら——私は穏やかではいられなかった。
ウマ娘は腕力だってヒトよりもはるかに上だ。私なんかが勝てる相手じゃない。でも、相手だって生き物だ。刃物で刺されればタダではすまないはず。
奪われる前に、やらなきゃ。
「……包丁持ってそんな顔すんなよ。怖いぞ」
彼は後ろから抱きしめるように手を回すと、そっと私から包丁を取り上げた。
「夏合宿が終わったら、時間作るから。お前の父さんと母さんにも、食事しながらゆっくり話さなきゃな。その——将来のこととか」
優しくて落ち着いた声。ずるい、と思ってしまう。こんな風に不意打ちで優しい言葉をかけられたら、許してしまうしかないもの。
私ってちょろいんだろうか、なんて思いつつ。すっかり上機嫌になった私は、鼻歌まじりに晩ごはんの後片付けを始めた。