ゾロとアドの夢の話

ゾロとアドの夢の話


はじめて煙草に火を灯したときは十五のときだ。ひどく噎せたのを覚えている。煙管、パイプ、葉巻のどれとも違う、懐かしいにおいを追って手に入れたそれは、つまり既製品の煙草だった。深く吸いこみ肺いっぱいに広がる苦みに心が落ち着く。アドの瞳はぼんやりと輝いて、ふわふわと流れる白い煙を追っていた。

アドにとって、これは懐かしいにおいだ。ベックマンと同じにおい。レッドフォース号に漂うにおい。潮風に混じると、涙が出るほどだった。

アドが一人で煙草を燻らせていると、海賊狩りの男が不思議そうに首を傾げた。

「なんだ。お前煙草なんて吸うのか」

嗜好品を楽しんだりすんのか、とは聞かなかったが、ゾロにはこの黒いシルエットの女がわざわざ娯楽を求めるようには見えなかった。彼は大きなジョッキで酒を煽っている。

アドはそれに薄く笑った。人間は飲まず食わずでは生きていけない。酒は飲むし煙草は吸うよ。

しかし表情は乏しかった。どころか苦そうに顔を顰めるのである。

試しに吸ってみる?と吸いかけの一本を差し出した時、彼はいつもの仏頂面で受け取った。そしてすうと吸い込むと、眉間の皺を一層深くしてジョッキを煽るのだ。

「駄目だな。舌にも喉にも味が残る。酒が不味くなる」

「そう」

苦い顔で返されたそれの火を手のひらで消し、ぽとりと捨てる。彼女はひどく興味なさげな顔で煙草の箱を胸ポケットに仕舞い、揺れるライターの炎をじっと見ていた。

 

いつか、二人が共にとある賞金首を捕らえて海軍に突き出したとき、アドは顔いっぱいに恐怖と気丈をたたえていた。その賞金首は人攫いで、双子の娘たちを"職業安定所"へと運ぶ寸前だったからだ。彼女は今までになく真っ白な顔で銃を構え、静かに引鉄を引こうとした。ゾロがそれを止めると、呆然として手を震わすのだ。

「何やってんだ」

「……なにを、」

「生け捕りにして海軍に突き出す約束だった」

「ああ……そっか。そっか、そうだった。そうだったね」

「…………」

「帰ろうか」

彼女の声は、熱に魘された早晩に見る亡霊のように儚く、しかし脳髄に刻まれる代物だった。

「あいつらはお前じゃねえ」

ゾロは腹立たし気に頭の後ろを掻いた。

「思い上がるなよ」

いつかの自分を救うことなど出来はしない。後ろを気にしては生き残れない。

思い出は所詮思い出であって、今の自分を慰めることはあっても、縋ることを許せど助けはしない。

死を見つめて歩く女は、身体を震わせて、こう言った。予感があるんだ。長い睫毛を伏せて呟く。平凡な女だ。平凡な幸せを知っている女だ。いつからかその道を外れた彼女、血に塗れた賞金稼ぎが言う。いつか終わりが来るのかな。いつかこんな生活が終わって、こんなことをしなくてもよくなっても、元の暮らしには戻れないんだろうね。人を救った味も、救えなかった味も、見捨てる味も。人を殺す味だって覚えてしまったから。乾いた唇を舐め、刀にべったりと付いた血を拭うゾロに囁く。私ときみは同じだ。同じだったんだ。きみは幸せを知っているでしょう。

「きみが幸せだった頃、きみは何を夢見てた?」

女が問う。おれは考える。故郷の村で竹刀を振るっていた日々。幼馴染の少女に最強を誓ったこと。

おれが幸せだった頃。

「ああ。世界一の大剣豪になることだな」

今だってそうだ。

その返答に満足したのか、アドは優しく微笑んで、「そっか」と深く頷いたのだった。

雨が降る。雨は臭いを消す。血と煙草の悪臭は、水路にどろどろ流れていった。

アドはゾロの無骨な手を取って、「私は歌姫になりたかったの」と幸せそうに笑った。

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