シュレディンガーのチョコと箱に潜む魔物(前編)
ゆーれーぶいん
★
「にゃあー」
夜も明け切らない曖昧な空の下、愛清フウカはゲヘナ学園の食堂へ向かう道すがら足を止めて耳を澄ます。猫の鳴き声が聞こえた気がしたからだ。
そうしていると再び「にゃあ」という鳴き声が。声の聞こえる方に目を向けると、歩道から外れた雑木林の中より聞こえてくるようだ。鳴き声はどこか舌っ足らずな印象を受け、フウカは興味を惹かれる。
(……子猫かしら、親はいないのかな?)
猫はにゃあ、にゃあ、と鳴いていて、いつまでも鳴き止む気配がない。想像が事実ならば放って置くのも憚られる。フウカは食品を扱う給食部であり、動物と相性の悪い面もあるが猫が嫌いというわけではない。
食堂へ向かう用事は早いに越したことはないが、大急ぎというほどでもなく、彼女はわずかな逡巡の後に、茂みに踏み入ることにした。
「ううっ……ソックス、もっと長いの履いておけば良かったなぁ……」
道から外れたこともあり、手入れされずのびのび育った雑草は膝まで届く。フウカは素足にチクチク刺さる葉っぱに耐えながら、草むらをかき分け足元に気を付け進んで行く。
鳴き声の下へ近づくに連れて子猫の居場所に目星が付いてくる。どうやら猫はもう少し進んだ樹の影にいるらしく、草丈もあってまだ目視できていない。猫を見つけるために彼女は四苦八苦と茂みを掻き分ける。
あと少しで見えてくるかというところで、いきなり人が現れたら猫が驚いてしまうかもしれないとフウカは思い、猫を刺激しない程度に静かに声をかけることにした。すると猫の方も彼女の存在を認識したようで、にゃーにゃーと鳴いて返事をする。声音に険悪な様子もなく、フウカは近づいても良さそうだと判断し、姿勢を屈めてゆっくりと歩み寄った。
その微笑ましい交流の最中に、それは現れた。
「見つけた!」
突然、フウカの物ではない大声が上がる。フウカの来た道とは逆方向、林の奥から茂みを押しのけやって来たのは、ゲヘナ学園の美食研究会に所属する「獅子堂イズミ」だ。彼女は何故か頭にダンボール箱を被っていたが、聴き慣れた声なので間違いないだろう。
彼女は迷いなく猫のいる木陰に向かって飛び込み、フウカを驚愕させる。
「えっ、何してるの!?」
イズミは倒れこむように猫へ突撃、シャーッ!と威嚇の声が上げて猫は草むらを小さく揺らして林の奥へ逃げていった。子猫と思っていた子は以外と俊敏にイズミのボディプレスを躱したようだが、それでは終わらない。
「もうっ!本当にすばしっこいんだから!……あなたで28匹目、逃がさないよ!」
「あんた、まさか猫を食べるつもり!?ちょっ、待って……!!」
イズミは素早く立ち上がるとフウカに目もくれず猫を追跡、茂みの奥へと走り出す。フウカも続いて追いかけるが、片や身軽な動物、片や獰猛な捕食者、双方に身体能力で劣るフウカが追いつくことは叶わない。あっという間に距離が開き、猫もイズミも草木に遮られ見失った。
「はぁ、はぁ、待ってってばぁ……どこ行っちゃったの……」
一人置いていかれたフウカは息を切らして足を止める。イズミに制止の言葉が届くことはなかった。
イズミの言葉に気がかりな点もあるが、いくら美食研究会の彼女でも猫を捕まえて食べてしまうなんてことは……ないとも言い切れないところだ。どちらにせよフウカにこれ以上できることはなかった。雑木林での探索は骨折り損な結果に終わる。
結局、猫の姿をハッキリ確認できなかったが、揺れる草木の様子をから思いのほか機敏に見えた。フウカは草むらから道へ戻りながら、あの猫が無事に逃げ切ることを祈った。
元いた歩道へたどり着き、空を仰げば林へ入る以前より朝の色は強く伺えた。
フウカは小休止を挟んで体についた枝葉を払い落としていると、パァン……と乾いた音が響き渡る。それは銃の発砲音で、音は食堂の方向から響いていた。
★
粗方片付けは済んでいるが、それでもなお激しい銃撃戦の痕が刻まれたキッチンで、アリス278+721+163+699+820+694+226+911+883+466号(以下アリスと表記)は、光沢ある茶色い獣に銃を突きつける。
その獣、手のひらサイズの「猫ちゃんのチョコレート」は手作り感溢れる磔台の上にクリップで拘束されて逃げることはできない。離れたキッチン台の上からたくさんのチョコレート達がその光景を静かに見守っていた。
「……ケース16、検証を開始します」
アリスは冷たい声で呟くと機械仕掛けの瞳を収縮させてターゲットを注視する。手にした給食部支給のショットガンをチョコレートに向けて、引き金を__
「アリス……!!銃声が聞こえたけど大丈夫……!? 」
__引こうとした所で、キッチンの出入り扉が勢いよく開かれる。フウカが血相を変えた様子で飛び込んできた。
「ああっ、キッチンが酷いことになってる!銃撃戦でもあったの……!?どこか怪我したところはない……!?」
「フウカ、そんなに慌ててどうしたんですか?……戦闘ならありましたが、アリスは大丈夫です。頭に葉っぱが乗ってますよ。フウカは薬草を採取していたのでしょうか?」
心配そうに駆け寄ってきたフウカにアリスはキョトンとした表情で問い、銃を下ろした。フウカは息を切らし、とても疲れた様子だったため、アリスは椅子を運んで彼女を座らせ、髪に絡まっていた葉っぱを摘みとった。
「戦闘があったって、さっき近くにいたイズミと……?」
「はい。でもキッチンはアリスのフィールドです。攻撃力と回避にバフがかかるのでノーダメージでした」
「そっかぁ……でも無事なら良かった……ところで、これは一体、何をしていたの?」
アリスに怪我が無いと確認して安堵したフウカは、改めてキッチンの見渡して疑問を口にする。
銃が乱射されたであろう破壊痕、キッチン台に山のように積み上がる猫型のチョコレート。チョコの形はそれぞれ違い、走っている者、伸びをする者、丸くなる者…様々なポーズを取っている。そこまではいい。
そして先ほどアリスが銃を向けていた。磔台に固定され、腹を見せて降伏を示す猫ちゃんチョコ。一体、この磔の猫ちゃんは何なのか、フウカは状況を理解しきれなかった。
「これは検証実験をしている途中なんです!この実験が成功すれば、アリスは料理界に革命を起こす、すごい発見をするかもしれません!」
嬉しそうに語るアリスの言葉に、フウカはやはり理解が追いつかず、より詳しく聞き出すことにした。アリスは胸を張って語りだす。フウカが到着する以前、昨晩起きた出来事を。
事は草木も眠る丑三つ時に遡る。眠る必要のないアリスは深夜の食堂で一人、いつものように次の日提供する給食の準備を進めていた。そして準備を終え、余った時間でお菓子づくりに励むことにしたのだ。
作り始めたのは日頃お世話になった人へ配るチョコレート。給食部に所属するアリスは顔も広く、大勢にチョコを配る必要があったため簡易な作り方、チョコを溶かして味を調え、既製品の型で固めた物を量産することにした。
チョコを型に流し込みあとは冷え固まるのを待つだけ。暇になったアリスたちは控え室に置いてあるゲームを皆で遊んで時間を潰すことにした。そしてチョコが固まる頃になり、キッチンへ向かうと中から物音が、覗き込むとイズミが侵入してチョコレートを貪り食っていた。単体なら勝てると踏んでアリスは襲撃を仕掛ける。
すると銃撃戦に驚いた猫ちゃんチョコの一部が飛び起き、走り出してしまったのだ。アリスとイズミは一時休戦、キッチンで逃げ回る猫ちゃんたちを捕まえることにした。
捕まえたチョコをダンボール箱に押し込んだのだが、食堂の外へ逃げたチョコに気を取られた隙を突かれ、イズミがチョコの入った箱を強奪、逃げられてしまった。
元より床を走り回ったチョコを他人へプレゼントするわけにも行かず、アリスは取り返すことを諦めた。その後は足り無くなったチョコレートの再生産と走り回るチョコレート現象の再現性を確かめる作業を夜通し行っていた。
それがこれまでの経緯であるとアリスは語った。それは夜に見る夢のような話で、フウカは難しい顔をして唸った。機械仕掛けのアリスは夢を見るか。
★~後編に続く~