コーヒーの味
「おはようございます、No.842。何をなさっているのですか?」
起きてきた黒服がコーヒーを飲もうとキッチンに来ると、そこにはエプロン姿のNo.842(874号)がいた
「マスター、おはようございます。…ヤヨイ先輩がマスターが今日は休みと聞きましたので朝ごはんを作っていました」
「いえ、そうではなく…」と黒服が言うと842はすかさず「お耳寄りな情報があります」と口を出す
「アリス・ネットワークを通じて調べた折、一時出禁とされた姉妹がおりまして、彼女ら曰く『マスターを楽しませるならエプロン姿、特に裸エプロンがいいですよ』との事です」
842の話に黒服は興味を持った
「ほう…、コミュニティの中で出禁扱いという事はその者たちは本来考えられていた交流の仕方と違ったという話ですね。マスターになった者による影響か、その個体の特異性なのか気になりますね」
「ちなみにアリスのエプロンの下は洗濯してもらいましたが初期装備のままです」
「あなたの服装は見てわかりますよ。キッチンの惨状のようにね」
先程まで感情が平坦ながらも流暢に喋っていたNo.842がしまったという顔になり目を背ける。キッチンは悲惨な状態になっていた。卵を割った際に辺り一面に飛び散り、成功した卵も何故か天井にくっついている。使用したフライパンは取っ手の部分が潰れており、用意した皿もアリスが持っていたであろう部分にヒビが入っている
(話には聞いていましたが相当ですね)
とりあえず842にドリップコーヒーを淹れてくるように頼む。一瞬動きの止まった彼女だが、特に表情を変えずに指示に従う。842が準備をする間にキッチンを再び見る。そこで黒服が思うのは——ビリィッ!
音のした方を見ると842がドリップの袋を破った際に中の粉が全て舞っていた。少し涙目になりながら2袋目を破くと同じように破けて粉が舞う。続けて3袋目に手を伸ばしたところで制止した
「そこまでです。一旦話をしましょう」
874号改め被験体No.842です。ヤヨイ先輩は仕事、マスターは休みとの事でしたので、今回マスターの為に朝ごはんを作ろうと思ったのですがまた失敗してしまいました。家庭のお手伝い用として買われたのに家事ができない、他のアリスのように周りの事に楽しさを見出せず子供のように振る舞うこともできない。そもそも家事は楽しいからやっているのではなく、初めからそう行動するようにプログラムされているからであって——いえ、これはただの言い訳ですね。そう行動するようにプログラムされてても姉妹達は最初は失敗してもちゃんと修正ができるのですから。
…せめてヤヨイ先輩の言ったように盾としての役割は果たせるといいのですが
黙ったままの黒服を怒っていると解釈した842は謝罪を口にする
「自分の力を過信して今回マスターに余計な手を煩わせる事となり誠に申し訳ありません。どのような処分でも受ける覚悟はあります」
「…ん?ああ、いえ、今回の件は別に怒るような案件ではありませんよ。それよりも842、あなたはレシピや掃除方法などは知っていたのですか?」
「…そうですね。アリス達はネットに繋ぐ事ができるのでそこから情報を得る事ができます。アリスも基本の情報はそこから獲得ました。それが何か?」
「私は簡単なものしか作れませんが材料や手順は合っていたと見てます。そこから見るにあなたは力加減ができていないだけと推測できます」
842は黙って聞く
「あなたのパワーを測定した結果、初期のヤヨイと変わらない。おそらく量産型のパワーと同一でしょう。ならば必要な事は何か」
黒服は机の上で腕を組み言う
「訓練です」
「え?」
842は自分の耳を疑った
「おや?訓練は嫌ですか?」
「い、いえ。マスターから根性論みたいなのが出てくるとは思わなくて…」
「クックックッ、根性論ではありませんよ。あなたが自分で修正を出来ないなら客観性をもって修正するという理論です。…では行きますか」
「!マスターが手伝ってくれるのですか?」
「ええ。本来なら同じアリスであるヤヨイが適任だとは思いますが、彼女には他の候補を連れてくるように言いました。3体めぼしいのがいるとの事でしたから3体とも連れてくるかもしれませんがね。そういう理由でヤヨイは忙しいので私がやりましょう」
こうして訓練が始まった。パワーを測定しながら物を掴む訓練。コーヒーを入れる事に絞り、安物を使って何度も行う。何度も何度も、しかし、割れるカップが100を超えたあたりで842の手が止まる
「…もういいです」
「………」
「マスターの優しさに感謝します。だけどこれ以上は無駄です。アリスは…私はアリスとして出来損ないなんです。与えられた簡単な仕事すら出来ない…欠陥品で…」
842の言葉に黒服は
「続けなさい。842」
ただ、下す
「あなたが他のアリス達のように上手くいかない事はわかっています。それをわかった上で計画をしているのです。あなたが出来ない事は私が失敗と判断する理由にはなりません。命令です。続けなさい」
冷徹と言える発言、されど842に浮かぶ感情は…喜びだった。失望ではなく当然。ならば道具として842は命令を全うするだけだ
「……はい!」
機械なのに心臓が高鳴るような気がする
袋を開け、カップにセットしてお湯を注ぐ。出来たら袋を除きソーサーに乗せてる。震える手を落ち着かせながら、コーヒーカップをマスターの前に置く——置けた
簡単な事だが初めて出来た事に842は感激する
黒服はカップを手に持ち一口飲んだ後、口の触れたところを拭き取りアリスに渡す
「どうぞ」
黒服から渡されたコーヒーを戸惑いながら口に含む——苦い、だけど何かわからない
「…苦いです」
「そうですか?ですがそれがあなたが初めて淹れることのできたもの、勝利の味です」
黒服の言葉に842はコーヒーを見る。まだ自分には美味しさのわからない味。だけど842はこの味が好きになった
「はい!」
彼女の頭上がジジッとなる。ヘイローが生まれるまであと
黒服は842を見ながら思う——危険だと
(やはり彼女は出来ない事を克服できた。作られたプログラムでありながら)
他の者達についても考えを巡らす
(マエストロもゴルゴンダも芸術家としてアリスを受け入れている。カイザー社は兵隊として求めている。先生は彼女達をどんな事があっても見捨てないでしょう)
先程842に浮かびかけたものについても考える
(先生はヘイローの発現に愛があるからだとおっしゃった。ええ認めましょう。そして、それを先生は【良いもの】だと考えるなら私は【脅威】と捉えましょう)
何故なら量産型アリスは無名の司祭が作り出した『アリス』をもとに作り出されているのだから
ヤヨイは早足で帰ってきていた。マスターに一刻も早く耳に入れなければいけない情報があるからだ。候補の内の一体が非正規のアリスだった。問題はその子がレッドウィンターから逃げてきた子だという事。レッドウィンターではアリス達と生徒が争っていたが最終的に和解をした所だ。しかし、その子は戻らず怯えている様子で化け物がいると言うのだ。ただならぬ雰囲気に頭の中で警鐘が鳴り響く。そうして帰ってきたヤヨイが見たものは散乱した部屋と机の上にいくつも置かれたコーヒーだった
「ヤヨイ…戻ってきましたか。首尾はどうですか?」
「えっ?あ、はい!3体のアリスを連れてきました。しかしそのうちの一体が気になることを「そうですか。そこにあるコーヒーに砂糖かミルクを入れるなりして差し上げてください。私は少々休みます」…ええ?」
そう言ってフラフラ歩いていく黒服を見送ってヤヨイは叫ぶ
「842ー!!」