コラさん
天から降りたあの遠い日からずっと、死を望むことは腐るほどあっても、どうしても生きたいとは願ったことがなかった。
天上においては与えられていることにさえ気付かずにいた命は、地獄のような地上で過ごすうちに諦めのつくモノに成り果てた。
兄に守られ、養父に拾われ、上官に助けられ、同僚に励まされ、部下の命を預かり、罪のない人々を守っても、いつもどこかでいなくなってしまいたいと思っていた。飽きたら捨てられ忘れられていく粗末なオモチャのように、重ねた嘘が壊れてしまう前に誰の中からも消えてしまいたいと祈っていた。
失望されることが何より怖いくせに、いつも世界から逃げ出したくて仕方なかった。
だからそれは、きっと必然だったのだ。
「…馬鹿じゃねえの」
「う~ん。おれもちょっとそう思ってたんだよな」
「なんでタバコの煙で噎せたせいで"喋れない"なんて誤解を受けるんだよ」
「いや、いやいやロー!だっていきなり『イエスの合図はノック3回、ノーは2回』とか言われたら、なんて返したもんか悩むだろ!?」
「そんな理由で喋れないフリしてるのか…」
忍び込んだドラム行きの民間船でサイレントを張りながら、おれはここ数週ですっかりお馴染みになってしまったローの呆れた目線を受け止めていた。
「正直なトコ、おれを他の幹部にどう見せたいのかも分からなかったし」
「どうって…お前、最高幹部のコラソンだろ」
「んん、最初おれめっちゃ干されてたぞ?そもそも仕事任されるようになったのが、先代が抜けた時だったし」
「それでいきなり最高幹部になったのか?」
「それも謎なんだよなァ…」
腑に落ちないと顔にでかでかと書いてあるローの求める答えは、おれとしてもできるなら知っておきたいものだった。
たとえ地位自体がハリボテの囮役であったとしても、ぽっと出の穀潰しを最高幹部に据えて、組織内で反発は起きなかったのだろうか。兄の考えることは、やはりおれには全く分からない。
「…ドフラミンゴには伝えないのか」
「おれが喋れるって?別に今更どうでもいいだろ…説明も面倒だから適当に誤魔化しといてくれ」
残念ながら人とやり取りするような仕事も任されていないので、誤差の範囲だ。
もっと正確に言うなら"口を開いただけで実の兄に首を刎ねられる危険がある"と説明するのが正しいんだろうが、兄は確実にローの心の支えになっている。そんな中で、捨て駒に見せる兄の冷酷さを突き付けることはあまりしたくはなかった。
ローの知る血の繋がった家族とは、決しておれ達のようではないだろうから。
納得いかない様子のローから視線を外し、お馴染みの東の海の煙を吐き出す。
しかしまあ、どれだけ自分に言い訳をしてみても、あのアジトは恐ろしく居心地が良かった。
兄や最高幹部たちはおれの血のことを知っていたし、喋れないというていでいれば皆短い筆談だけで済むような関りしか持とうとはしなかった。
実のところおれはあまり喋るという行為を好まない性質だと気が付いてしまった時には、本部勤務時代のぺらぺら言葉を吐き出す自分を思ってげんなりとしたものだ。
けれど、あの嘘ばかりのおれも捨てたもんじゃなかった。
ローと話をするようになってひと月。
おれは初めて自分の為ではなく、誰かの為に己のふるまいを選んで過ごしていた。
ローを可愛がっていた兄と引き離した罪悪感もないことはなかったが、何よりもっと世界を愛せるような思い出を作ってやりたかった。
おそろしい血の同族が支配するこの残酷な世界で、憎しみだけを糧に生きるのは苦しすぎるから。
養父の優しい背中を追って、思いつく限りの楽しい話をした。
能力を使っておどけてみせて、治らないドジを笑われて、笑って過ごした。
ローのくれた"自由"は、いつでもおれに多くのことを教えてくれた。
例えば剝がれ落ちた嘘の奥に、ほんの少しのほんとうが残っていることも。
日々を懸命に生きる人々の幸せを守りたくて、いつかの自分のような子供に手を差し伸べたくて正義を背負った。
それはきっと、嘘なんかじゃなかったのだと。
「……医者がいない?」
辿り着いたドラムで現地の住民から聞いたのは、嘘みたいなとんでもない話だった。
なんでもこの国の王は最近"医者狩り"なんていう馬鹿なことを始めたらしく、城に召し抱えられた医者を除いて2人しか生き残りがいないという。
上陸から一夜明け、ローはひどい熱を出していた。
珀鉛病のタイムリミットまではまだ十分時間があるはずなのだから、合併症を疑うべきだ。珀鉛病患者の診察ができるような医者じゃなくて構わない。まともな医者が一人でもいたなら、誰でも助けになったのに。
余所者のおれたちでも治療を受けられる医者は、たった二人だけ。
風邪っぴきを重病患者に変えるというヤブ医者と、もう一人。
魔女と呼ばれるその人が、町外れにたった独りで暮らしている。
荒い息を吐くローをファーコートでしっかりくるんで、なるべく揺れが伝わらないように普段の何倍も注意を払いながら凍った石畳の上を往く。
"D"がなんだ。"神の天敵"だったらなんだっていうんだ。
嘘の殻を破った"ディー"におれがいつか喰われてしまうとして、それがどうした。
白い香りに騒ぐ修羅の影を蹴飛ばし森の奥にあるという魔女の家を目指して走る。
ずっとずっと、消えてしまいたいと祈っていた。
一人のにんげんにさえロクになれないおれが消えても、この世界が欠けることなどないのだと信じていた。
けれど今、おれの腕の中では、小さな柔い手をおれの血で焼きながら笑ったこの子が、ローが必死に息をしている。
修羅だろうが鬼だろうが、バケモノだろうがなんだって構わない。
ローを守れる腕があるなら、希望を探せる足があるなら、命を願う心臓があるなら、何者だろうとおれはまだ生きなければならなかった。
世界に忌まれるこの血を知った日から初めて、心の底から"生きたい”と願った。
「もうすぐ医者のとこに着く!生きてくれ…ロー!!」
嘘ばかり吐いてきた口から、勝手に言葉がこぼれ落ちる。
この子を守る嘘の卵よ。もう少しでいい、割れてくれるな。
森の向こうに”魔女"の家の灯りが、遠く光るのが見えていた。
「さて…あたしの薬はよく効くから、あとは3日ほど安静にしておきゃそれでいい」
治療は、本当にあっけなく終わった。
「あ…りがとう、ありがとうございます!本当に…」
「ヒッヒッヒッヒッ!!珀鉛病は治りゃしないってのに、大げさな奴だね!」
「…診てもらえるだけでも、ありがたいので」
「全くセンゴクといいお前といい、本当にワケありのガキを抱え込むのが好きだよ」
センゴクさん、と、ワケありのガキ。
おれだ。
「センゴクさんは…おれの、血のことを…知っていますか」
「ああ。あたしが教えてやった。覚悟しろとも言ったが…ありゃ昔から頑固でね」
知って、いたのか。
センゴクさんはおれの、この血を知って、それでもずっと。
ただ、おれが知ろうとしなかっただけで、ずっと。
「ヒッヒッヒッ…涙もろい所は、奴に似ちゃあいないようだね」
おれはもうずっと、あの人の家族だった。
「なんだ!病人か!!」
「治療はもう済んでるんだ!!お前の出番は無いよヤブ医者!!!!」
突然乱入してきた男におれが目を白黒させている内に、魔女と呼ばれるその人は躊躇なくメスを投げまくって叫んだ。
なるほどどうやら、黒いシルクハットの彼が噂のヤブ医者らしい。
「とっとと行きな!!宿に戻ったら絶対安静だよ!!!」
「はい!!ありがとうございました…!!!!」
勢いに押されて"魔女の家"を飛び出し森を抜けて、宿を目指し歩く。
腕の中で規則正しい寝息を立てるローを見て、おれは初めて、ひとよりもずっと高い己の体温に感謝した。
「おはよう……"コラさん"」
宿の二階に差し込む朝日の中に、そっと柔らかい声が落ちた。
随分と良くなった顔色で、ベッドから起き上がったローが笑う。
血の内に宿る修羅が瞳を閉じた、そんな気がした。