クルマユしてるカキツバタを見たスグリの話
放課後のリーグ部の部室にカキツバタがいない。珍しいことがあるものだとスグリが思えば、苛立ちを隠そうともせずスマホロトムを操作する姉がいた。
「スグ。カキツバタの部屋からあたしのノート持ってきて」
あいつ全然連絡つかないのよ、と溜息を吐く姉を見れば、断るわけにもいかなかった。ノートを返して欲しいゼイユとしては、男子寮のエリアに近寄れるスグリが頼みの綱だ。それがわからぬスグリではなかった。
わかった、とだけ返し、スグリはカキツバタの部屋へ向かう。扉を叩けば反応がない。かちゃり、と中から音がして、扉がゆっくり開く。
「カキツバタ! ねーちゃんにノートかえ……せ?」
出迎えたのはジュカインだった。普段はきりりと引き締まった表情も今日はどこか哀しげで、呆気にとられるスグリを招き入れようと服を引っ張っていた。
「お邪魔します……」
一応声はかけつつ、スグリは室内に入った。あのだらしなさの通り、菓子のゴミが部屋に散らばっている。ちらりと見えた箱に書かれていた賞味期限は四年前。うわ、と声が漏れそうになったのも致し方なかった。ベッドの上には布の塊がある。かすかに上下しているのを見るに、カキツバタがあの中にいるのだろうとスグリは見当をつけた。
大声で起こそうと息を吸い込んだところ、ジュカインがふるふると首を振る。ベッドに近づいて、スグリと主の方を交互に見つめていた。スグリは掛け布団をそっと剥がす。そこに居たのは、普段腰に巻いている紫の布に包まれた、胎児のように身体を丸めているカキツバタだった。
血の気の失せた顔で、紫の布の端をぎゅっと握り締めたそのひとは、眉間に皺を寄せ、荒い息を吐きながらがちがちと歯を震わせている。
「カキツバタ……? 寒いの?」
しかし、学園内は空調で快適な温度に保たれているから、外気で室温が変動するということは考えにくい。ならば風邪だろうか。そっとカキツバタの額に手を伸ばしたスグリは、ひやりとした肌に思わず飛び退いてしまった。
「……だれ? じいちゃん?」
舌っ足らずの子供のような口調。薄目を開き、身を起こしたのは聞き慣れた声、見慣れた姿であるはずなのに、スグリは目の前の人物に違和感を抱いた。
「とうちゃんとかあちゃん、まだねてる。いつも……オイラのほうがねぼすけなのに」
ぼんやりと焦点の合わない目で、カキツバタの手がスグリに伸ばされる。いやに白い指がスグリの上着の袖を掴む寸前、カキツバタが目を見開いた。
「……スグリ? なんでジュカインまで?」
「うん、あー……ねーちゃんが。ノートさ返せって」
「やべっ、忘れてた」
腕を引っ込め、カキツバタがしがしと頭を掻く。ひらりとベッドから飛び降りて、ボールやどうぐが雑多に置かれた机から一冊のノートを取り出した。
「ちゃんと今回は綺麗だろ? ってゼイユに伝えといてくれーぃ」
「普通は丁寧に使うもんだべ……」
いつもの調子で軽口を叩くカキツバタに、スグリは呆れつつも言い様のない寒気を覚えた。ふとジュカインを見れば、肩を落としたように床を見つめていた。てもちである彼にとっては、これが初めてのことではないのだろう。ポケモンである彼らは人間の言葉を話せない。主のことが心配だろうに、決定的な瞬間を見せた相手にすら普段のように振る舞うのを見てしまえば、気落ちするのも当然だ。
「ねえ、カキツバタ。体調悪いならさ──」
「なんのことだ?」
にこにこと笑みを浮かべ、カキツバタはスグリの言葉を遮った。わざとらしい笑顔に、スグリの怒りは即座に頂点に達した。
「……ッ! すぐ誤魔化そうとすんな! 布団さ被ってあんなに凍えてるなんておかしいべ!」
「布団ってあったけえからさあ、いきなりなくなったら寒くもなるぜ」
駄目だ。お得意ののらりくらりとした会話に持ち込まれ、スグリはこれ以上の進展が望めないことを悟った。
「別にカキツバタがどうなろうと俺には知ったことじゃねえけど。てもちに心配されるようじゃおしまいだべ」
くるりと背中を向けて、スグリはカキツバタの部屋から出た。わからない。どうしてあそこまで他者を拒絶するのか。誰もカキツバタが完璧な人間だなんて少しも思っちゃいないのに、どうして頑なに弱みを隠そうとするのだろうか。
あのベッドの上にいたのは、ただの幼い子供だった。断片的な単語でしかないから、どのような状況かわからない。けれど、会いに来た祖父を迎え入れた孫という和やかな場面でないことに間違いはない。ありとあらゆる仮面を剥いだ先にあったのがあれでは、どうにも報われない。誰であっても、カキツバタ自身であっても。
「そんなんだから、俺に説教さしたって無駄なんだよ」
重い足取りのままスグリは部室に向かう。きっと明日にはあの陰鬱な笑顔で、あの男は姿を見せにくるのだろう。