キヴォトス行動学
「先生、休憩中ですしちょっと雑談に付き合っていただけますか?」
“いいよ。何?“
「変な話になりますが、なぜ人は、人を殺してはいけないのだと思いますか?」
“また突然ヘビーだね…うーん…『いけないことだから』という答えではダメなんだよね?“
「お察しの通りです」
“じゃあ……どう言えばいいんだろう“
「中々簡単には答えられませんよね。だからこそ、昔の人々はその理由を、ひいては道徳全ての根拠を神に、宗教に求めました。地獄行きだとか天国行きだとか民衆を脅して人々に道徳を守らせたわけですね。しかし、今の我々には科学が、哲学があります。ならばその理由を論理的に説明できるはずです」
“うん“
「例えばホッブズやルソーといった古の偉大な哲学者、思想家は、その理由を社会契約に求めました。人間は自由意志を持ちながらも、生存の障害が発生すれば各個人同士で協力関係を結びます。その中には当然相互の安全保障も含まれます」
“あー…確かに言われてみれば、それを理由にすれば良いのか“
「やはり先生はそこらへんの話はよく知っていますね。では、こうした思想、哲学的な視点だけでなく、生物学的、情報科学的な視点から考えてみます」
“?“
「コンピューター技術の発展に伴い、人類はシミュレーションという新たな道具を手に入れました。当然その中で色々な研究がなされます。その一つが『囚人のジレンマ』という問題です。所謂ゲーム理論ですね」
“あ、それは知ってる“
「流石です先生。一応、認識の齟齬がないために確認しておきますと、状況としてはこうです」
ここに二人の犯罪者がいて、二人は共犯者であるとする。二人は別々の部屋で取り調べを受けることになり、当然お互いに連絡は取れない。そこで二人は取り調べ官から次のように言われる。
【このまま二人とも黙秘したら、二人とも懲役二年だ】
【君だけが黙秘して、もう一人が黙秘なら君は釈放される】
【逆に、君が黙秘して、相手が自白なら、君は懲役10年になる】
【二人とも自白したら、二人とも懲役五年だ】
「さて先生、あなたが犯罪者だとして、この時どうするのが正解ですか?」
“確か、常に相手を裏切るのが正解なんだよね?“
「その通りです。期待値的には自白した方が良い。その結果、二人とも黙秘すれば二人とも合計でハッピーだったのに、二人とも不利益を被るわけです。人間ってのは愚かなのか賢いのか…」
“どうなんだろうねぇ…“
「では、この囚人のジレンマをちょっと拡大してみましょう。10回と回数を決めた上で、このゲームを繰り返します。何度も二人が取り調べを受けるのは不自然なので、懲役を『報酬』に置き換えます。例えば…」
【お互いが「協力」を選べば二人とも5千クレジットを入手できる】
【自分が裏切り、相手が協力を選んだら自分は1万クレジット、相手には1クレジットも与えられない】
【相手が裏切り、自分が協力を選んだら自分には1クレジットも与えられず、相手には1万クレジットが与えられる】
【お互いに裏切ったら、お互い1000クレジットしか与えられない】
「このゲームを10回と回数を定めた上で行います。当然、10回の間ペアが変わることはありません。先生ならどうしますか?」
“うーん…どうしよう…“
「…まあ、これは本当に難しいですね。私も初見ではちょっと分かりませんでした。正解を述べさせていただくと、『全てのゲームで裏切る』のが正解です」
“えっ、そうなんだ?“
「ゲームを逆から考えてみましょう。まず、10回目はどうするのが正解ですか?」
“…結局最初にやった囚人のジレンマと同じだから、裏切りが正解かな?“
「その通りです。すなわち、『10回目は相手が裏切ることが決まっている』わけです。では、9回目はどうするのが正解でしょうか?」
“…もしかして“
「そう、10回目が実質ないようなものですから、9回目も裏切るのが正解です。10回目は裏切りで決定していますからね。そうして繰り返していくと…なんと、全てのゲームで裏切るのが正解になってしまうんですね」
“えぇ…“
「さて、困ったことになりました。このままでは『生物同士は常に裏切り合うのが正解』となってしまいます。こんな世界に道徳もクソもありません。では、このシミュレーションのどこが間違っていると思いますか?」
“……回数?“
「というと?」
“現実の世界では『この人と10回ゲームをする』とは限らないでしょ?1回かもしれないし、100回かもしれない“
「正解です!そう、そこがこの状況の問題でした。では、次に参加者たちには『何回このゲームが行われるか』を知らせずに挑んでもらいましょう。この時、最適解は何だと思いますか?」
“難しくない?“
「そりゃそうですね。なんと言っても最適解が現在の所見つかっていませんから」
“ちょっと?“
「すいません、ちょっと意地悪をしてしまいました。しかし、有効な方策というのは見つかっています。それが『しっぺ返し戦略』です」
“ふむふむ“
「これは、ひたすら相手の真似をする戦略です。相手が協力を選ぶなら、次に自分も協力を。相手が裏切りを選ぶなら、自分も次に裏切りを選ぶわけですね。1980年にロバート・アクセルロッドによって開かれた第一回囚人のジレンマ世界大会で猛威を振るいました」
“何その世界大会“
「面白いでしょう?これが第一回、第二回の大会ともに優勝しました。正真正銘『最強の戦略』です」
“へー…じゃあ、それで人の道徳を説明できるの?“
「その通りです。相手が協力を選ぶなら、こちらも『感謝』により協力する。相手が裏切るなら、こちらも『怒り』によって裏切りを選ぶ。相手が反省して再び協力するなら『許し』を与えて再び協力する。付け加えるなら、結局お互い協力する方が得なことが多いなら、一度裏切った相手に『罪悪感』を感じて協力する。現実世界ではゲームの度に報酬は変わるので一概には言えませんが、実に人間的でしょう?こうして人は道徳を獲得した…とも考えられます」
“なるほどね〜“
「ま、第三回大会ではこの戦略負けたんですけどね」
“ここまで言っておいて!?“
「これはこれで示唆に富んでいて面白いんですよ。ちょっと脱線しますが、こちらについてもご説明しましょう。第三回で優勝したのは『主人と奴隷戦略』です」
“あまりにも名前が酷い“
「この戦略を表すのに最適な表現ですから仕方ありません。まず、60のプログラムをエントリーします。あ、言い忘れていましたが、この対戦は参加者が提出したプログラム同士の対決で行われています」
“うんうん…っていうか、いくつも出して大丈夫なの?“
「大会にそのような規定はありませんでしたから。さて、この戦術では、最初の数回、協力と裏切りを出す順番を決めておきます」
“うん“
「そして仲間だと判断したら、あらかじめ決められた上下関係に従って主人と奴隷役になります」
“…うん“
「そして奴隷側はずっと協力、主人側はずっと裏切りを選びます」
“…“
「こうして主人は凄まじい高得点を叩き出せます。当然、仲間でないと判断した場合はずっと裏切りを選び、相手に得点を与えません」
“えげつなくない?“
「結果、『主人と奴隷戦戦略』の主人側は上位3位を独占しました」
“だろうね“
「そして、奴隷側は皆成績下位に沈みました」
“だろうね“
「これは徒党を組むという点において現実を再現しているとも言えるかもしれません。もしかしたら悪い大人が子供を搾取するキヴォトスの構造にも適用できるかも…っと、話が脱線しすぎましたね。では、前置きが長くなりましたがここから本題です」
“え、ここまで前置きだったの?“
「そうですよ。今までの話は皆が裏切りにより不利益を被る想定、すなわち一個人はある意味無力であり、社会的か、あるいは共同体によって直接的に罰が与えられたり、裏切った相手による復讐、あるいは純粋に協力しなかったことによる成果物の減少という形で不利益を被ることになるという想定です」
“そうだね“
「だから人は誰かを傷つけてはいけない、殺しをしてはいけないという道徳を育みました。それが生存に有利ですから、当然のことです」
“うん“
「しかし、ここキヴォトスではそうではない」
“?“
「社会による制裁を、裏切りによる罰を、全てを圧倒的な力によって捩じ伏せ、何の不利益も被らない。そんな理不尽な存在がいます。他校であれば、生徒ということでほとんど賠償もせず、罰されずに済む連中もいる」
“…“
「さて先生、最後の質問です」
彼女らに、社会契約的に、進化行動学的に形成された「道徳」を求めることはできるのでしょうか?
“それは…“
「質問しておいてなんですが、私は『求めることができる』とも、『求めることができない』とも断言することはできません。検証していないですからね」
“…“
「ですが、私は帰納法的に既に結論を出しています。『求めることができない』、それが現在の所正解に近いでしょう」
“ボンノウ“
「わかっています、先生の仰りたいことは。先生は常に全ての生徒を信じている人だ」
“なら“
「しかし、私は自治区の安全を司る身。希望的観測では動けません。何なら、そんなことをすれば私の身も危うい」
“…“
「ご存知でしょう?『道徳』の通じない連中によって起きた騒ぎの数々を。あれはもはや社会契約を結ぶことのできない獣、いや、チスイコウモリの一部をはじめとした獣たちは社会契約を結ぶことができることを考えると獣未まn“それ以上は認められないよ“
「…失礼しました。先生を不快にさせてしまいましたね」
“…“
「…別に、彼女らの存在を否定している訳ではありませんよ。生物とは、進化するもの。より優れた存在が生まれたのなら、社会契約も道徳も無視して弱者は淘汰されるのは、自然の摂理というものでしょう。我々がお世話になっている資本主義経済なんてまさにそれです。しかし、淘汰されるべき弱者といえど、無抵抗でやられるわけにはいきません」
“…“
「全力で抵抗し、あわよくば奴らの喉笛を噛みちぎり、逆に命を奪い取る権利ぐらいはあって良いとは思いませんか?ま、意地のようなものですが」
“私が言っているのはそういうことじゃ…「えぇ、えぇ、わかっています」
「…まあ、記憶の片隅にでも今の話を留めてくだされば幸いです。では、執務に戻りましょうか」