キャット・パニック 前編
マスターの腕の中で、一匹の猫がくったりしていた。マスターは猫狂いである。故に例え目の前で、先程までレポートの手伝いをしてくれていたサーヴァントが猫化するという異常事態が発生しようと、それが猫であるならば容赦なく愛でるような存在であった。
その猫────由井正雪は、マスターの魔の手にかかったサーヴァントである。マスターのその神がかりともいえるブラッシングとマッサージにより抵抗する間もなく骨抜きにされてしまい、自力で動くことすら叶わなくなってしまった哀れな被害者だった。
「やっばいやっばい、やらかしたぁ……」
はてさて、そんな被害者を生み出したマスターはといえば、猫化した正雪をひとしきり可愛がった後に漸く正気を取り戻し、あまりの気持ち良さにくったりしてしまった正雪(猫)を優しく抱え、大慌てで医務室へと向かっていた。正雪が霊基異常で猫化してからどれくらいの時間が経過したかのは分からないが、早く連れて行かなければ医務室の主たる医神や白衣の天使に何をされるか分かったものではない。そう、小走りで向かっていると、曲がり角からひょっこりと最近仲間になったばかりのサーヴァント────宮本伊織が現れた。
「伊織!」
「マスター! 大変だ、セイバーが猫になってしまった!」
「え! タケルも!? もしかして伊織の頭に乗っかってる黒白のソマリみたいな仔!?」
「あ、ああ。その通りだが……待てマスター、『も』と云うことはもしや……」
「うん! 正雪さんもこんなになっちゃった! 真っ白なスコティッシュフォールドの長毛種!」
可愛いでしょ~と自慢するマスターと、妙にくったりしている正雪(猫)を交互に見遣り、伊織は首を傾げた。
「セイバーと違って随分と草臥れて……いや毛艶はかなり良いが、妙に力が抜けていると云うか……」
「いやぁ実は猫になった正雪さんがあまりにも美猫だったもんだから、顔マッサージとブラッシングを少々──ああぁ正雪さぁん……」
マスターの返答を聞くや否や、伊織は徐にマスターの腕から正雪(猫)を優しく抜き取り、代わりに頭上のヤマトタケル(猫)の首根っこを引っ掴んでマスターに渡す。ヤマトタケル(猫)はもう少し丁寧に扱えと不満げだったが、新しい猫がやって来てマスターは大喜びだ。腕に抱えたヤマトタケル(猫)の額を優しく揉むように撫でた途端、ヤマトタケル(猫)は気持ち良さそうに目を細め尻尾の動きも穏やかになる。何故正雪(猫)が伊織に抱えられても大人しいままなのかその一端を理解してしまい、伊織は思わず戦慄した。
「と、ところで、マスターは何処へ向かおうとしていたんだ?」
「あ、そうだったそうだった! 医務室に行くんだよ、これどう考えても霊基異常だし」
一緒に行こうとマスターに誘われ、勿論だと伊織も同行する。
そうして二人が向かった先には、マスターにとっての天国が待ち構えていた。
「こ、これは……!?」
顔を右に動かしても、左に動かしても猫だらけ。目の色を変えたマスターは、ヤマトタケル(猫)を抱えたまま猫軍団の中に素早く静かに突入し、そのままストンと腰を下ろしてまずは腕の中のヤマトタケル(猫)を撫で始めた。本当にぶれない猫狂いである。
そんなマスターの行動に頭が痛くなったのか、医務室の主であるアスクレピオスは頭痛を抑えるように頭に手を当てながら重々しく口を開く。
「…………新しい患者か」
「あ、ああ……こっちが正雪で、マスターの方はセイバー────ヤマトタケルだ」
「そうか……おい」
「はーい。マスター、ヤマトタケルさんはお預かりしますね」
「えー! たった今愛で始めたばっかなのに……」
「その代わり、他の方々は皆診察を終えていますので良いですよ」
「はーい! 分かりましたー!!」
ネモナースへ素直に────マスターの手腕によりうとうとしていた────ヤマトタケル(猫)を渡した後、マスターは近くの猫を一匹抱え早速愛で始める。あれはもう頼りにならないなと、伊織はとうとう猫狂い《マスター》を意識の外へ追いやった。
「此度のこれは霊基異常だとマスターから聞いたが、何が原因かは判明しているか?」
「どこぞの馬鹿が猫の日がどうとか騒いだ結果らしいが詳しい話は知らん、ダヴィンチ辺りにでも聞け」
「治す方法は『しっかりと構ってあげて愛でること』だそうですよ」
アスクレピオスは黙々と正雪(猫)とヤマトタケル(猫)を診察し始めると、こいつらも他と変わらんようだなとつまらなさそうに舌を打つ。そんなアスクレピオスに続くように、赤い軍服を着た看護師────ナイチンゲールが困ったような口ぶりで言葉を発した。そんなナイチンゲールへ、アスクレピオスは据わった眼を向ける。
「看護師」
「はい」
「サボってないでいい加減お前も手伝え」
「サボっていません、治療です」
「マスターによって猫化から解かれて床に崩れ落ちている連中を退かせと言っている。このままでは医務室が機能不全に陥るぞ」
「…………………………分かりました」
渋々、といった様子でナイチンゲールは膝に乗せていた猫を下ろし、マスターの元へと向かっていく。それを視線で追った伊織は、改めてマスターの周りを見て目を剥いた。
死屍累々、と表現すれば良いのだろうか。十人近くの男女が皆一様に頬を染め恍惚とした表情で床に倒れており、それを見た猫達が戦々恐々と後退っている光景がそこにあった。しかし残念ながら医務室から逃亡しようとした猫はナイチンゲールに捕獲され、マスターの元へと連れていかれる。ナイチンゲールからマスターへ手渡され絶望の空気を醸し出している猫に、伊織は心の中で合掌した。
「しかし、マスターでは猫化が解けない患者もいるようだな……これは中々に興味深い」
「あ、それ大体目星付くかも」
「どういうことだ、マスター?」
先程まで絶望していたはずなのにすっかり骨抜きにされている猫をしっかり愛でつつ、アスクレピオスに促されたマスターは告げる。
「猫化が解かれてないサーヴァント達は、他に愛でてほしい人がカルデアにいるんじゃないかな?」
例えば好きな人とか、とご機嫌な様子で告げたマスターの言葉に、伊織はつい自分の腕の中にいる、未だ復活の兆しを見せない正雪(猫)を見る。マスターと彼女の様子から察するに、彼女は既に思う存分マスターから愛でられていたのだろう。それなのにも拘わらず、彼女は未だ猫のままの状態でいる。
自分に対してはどこか緊張した様子しか見せないのに、猫の姿とはいえマスターに無防備に身を預けている姿を見てつい回収してしまった、生前の知人。普段から伊織の周りをうろちょろするヤマトタケル同様、否、それ以上に、生前の記憶が一部欠けている伊織とどう接したものか戸惑っている感じの正雪に────マスターの推測が正しいとすれば────好きな人がいるという。
果たしてそれは誰なのか。
(正雪が雛鳥のように慕っている────天草四郎殿、だろうか)
そう考えただけで、伊織は何故か胃が重くなる感覚に陥った。その理由が何故なのか伊織には分からないが、もしそうであるならば面白くないと感じる。伊織が覚えている範囲では、生前に一度も味わったことが無い感覚だ。
ヤマトタケルと丑御前、そして由井正雪は、伊織の生前の知り合いである。伊織は生憎と覚えていないのだが、伊織はヤマトタケルを、正雪は丑御前をそれぞれに召喚して、盈月の儀という聖杯戦争の亜種にて相争ったらしい。その記憶を一切持たない伊織に対し、彼らは一様に口を噤む。伊織に分かるのは、ヤマトタケルと正雪に対して伊織は何か酷い行いをしてしまったということと、それをのうのうと忘れている今の伊織を許しているということだけだ。
失った記憶自体に未練はない。『宮本伊織』が余分なものだと判断したから斬り棄てたのだろうことは、自分の性格上分かり切っている。だが正雪と接している時は、それが酷くもどかしいと感じてしまうことが多い。
「それでは、彼女はこちらでお預かりしましょう」
「────いいや、対象に見当はついているから結構だ」
その理由が何なのか、伊織には未だに判断付かないが────
「俺が、送る」
────それは、それだけは、斬り棄ててはいけないものなのだと伊織はそう思っている。