カヨコの肌に筆を走らせる話
「もう…そんなに我慢できなかったの?なんだか、今の先生って子どもみたい」
先生に背を向けたカヨコが簪を外し、床に落ちると同時にカランという音がした。続いてするりと帯を解くと、黒い着物がはだけ、真っ白な陶磁器のような肌が晒される。肩から背中、程よく引き締まった臀部とすらりと伸びた足は男の情欲を煽る。芸術に対する造詣の薄い素人が美術館で見る名画の数々に不思議な感動を覚えるように、カヨコの肉体には見るモノを魅了する”美”と”魔”が宿っていた。
「別に、どこにも逃げたりしないから…そんなに焦らなくてもいいよ。それじゃあ、書き初めの時間だよ、先生……」
その言葉を聞いた先生は勢いのままにカヨコを押し倒すと一心不乱にその肌に筆を走らせる。男は飢えた獣のように息を荒くしながら、それでいて繊細に少女の肌に描く。筆が通った後が黒く染まり一つの線を描く。一つ、また一つカヨコの肌を黒い線が侵食する度に作品が完成に近づいていく。一つ一つの線が明確な意図を持って形を成していく。
「んっ、ちょっとくすぐったいね」
筆が肌をなぞる感覚とその跡に残る墨汁の冷たい感覚に思わず声をあげる。肌をくすぐる筆先から感じる冷たさはどうにも好きになれないようだ。
(でも…この目を独り占めできるなら、まあ悪い気はしないかな…)
じっと熱に侵された男の目を見つめながらそんなことを考えていると、蝋燭の火が吹き消されるように男の目に宿る熱が薄れた。
「うん、これで完成だよ。無理させちゃってごめんね、カヨコ」
「大丈夫、もう慣れたから。それで、今日は何を描いたの?」
「うん!今日のは自信があるんだ!!」
先生はお気に入りのおもちゃを見せびらかす無邪気な子どものように目を輝かせる。そんな先生の姿を微笑ましく思いながら、鏡越しに背中を見る。先生が自らの身に刻み込んでくれたモノを目に焼きつけ、記憶する。
「これって…翼?なんでゲヘナの私に…トリニティの生徒でもないのに」
カヨコの背中に描かれていたのは見た者は皆、天使を連想してしまうような美しい翼だった。
「うん、やっぱり綺麗だ」
「はぁ…先生はいつもそんなことばっかり言うね。私なんかには似合わないと思うんだけど…」
「そんなことないよ。私はカヨコだから描いてるんだから!!」
「まぁ、先生がここまで言ってくれてるんだから…いいよ。先生のお願いなら天使にでもなんでもなってあげる……」
だが、忘れることなかれ。少女は天使を演じてくれたとしても、悪魔であることに変わりはない。そして、悪魔との契約には代償を支払わなければならないのだ。
「その代わり、条件がある。ねぇ、先生…私、先生の瞳が欲しい。真剣な目も、子どもみたいな目も怒ってる目も悲しんでる目も、全部私だけに向けて欲しい。」
それは醜い独占欲の発露だった。相手は【先生】なのだ。どこまでも、生徒たちみんなの為に行動すると知っているのに…
「ごめんねカヨコ。それはできないかな」
「うん……そう言うと思ってた。やっぱり先生は先生なんだね…」
この契約を受け入れればきっと先生では居られなくなってしまう。だから、先生がこの契約を受け入れることはない。
(うん…きっと受け入れてはくれないと分かってたけど…これでよかったんだ)
確かに醜い独占欲もあった。だが、それと同じだけの信頼もあった。この人は最後まで【先生】でいてくれる。だからこそ、誰か一人だけの特別にはならないのだと…
(でも…いつかは先生の特別になれたら…)
少女は願う。その背に仮初の翼を携えて、ただ祈るように…