カフェと無意識

カフェと無意識




「カフェの目は綺麗な琥珀色だね」


そう、トレーナーさんが私をじっと見て言った。


「髪も尻尾もさらさらで、いつまでも触っていたくなっちゃうよ」


優しく頬に手を触れ、髪を梳かすように私を撫でながら。


「肌も白くて綺麗で……すべすべしてる」


ああ、ダメです……そんな触れ方をされたら、ドキドキして、おかしくなる。


トレーナーさんの視線は私の瞳を貫いて離さない。恥ずかしくて目を逸らそうにも、彼がここまで近くにいてはそれすら叶わない。


吐息が。熱が。心音が。


その全てが伝わる距離で、トレーナーさんは私を褒める。


私の熱も……トレーナーさんに届いているでしょうか?


……いえ、そんなことを望んでも意味はありません。


これは彼には届くことのない幻……────夢の中の出来事なのだから。


これは私の望みか、誰かのいたずらか。


どちらにしろ、これは夢なのだから。


だったら、少しだけ。


もう少しだけ。


あなたから……愛の言葉をいただいても……許されますよね……?


ふわふわと浮遊感が身体を支配するこの世界で、私はトレーナーさんと、夢のような時間を過ごすのでした。



・・・



目が覚めると、そこは寮の自室。時計を見るとまだ朝の6時過ぎで、隣のベッドではユキノさんがすぅすぅと気持ちよさそうに寝息をたてていた。


「……やっぱり、夢でしたね」


口の中で小さくつぶやく。


やはりあれは夢だった。彼の言葉も、握られた手の温もりも、口唇に触れた優しさも……全ては夢。


けれど手を握ればまだあの暖かさがあるようで。


私は寝起きは良いつもりでしたが、どこか夢現のような気持ちでその手を包み、胸に抱いてもう少しだけ、彼と過ごした夢の続きを見ようと目を閉じる────


けれど────結局、目を閉じても眠ることはできなくて。


そのうち朝食の時間になり、気づけば登校すべく身支度を整えていた。


寮を出ると、外は12月の寒い空気。吐く息は白く、道ゆくヒトは一様に防寒具を纏っている。


例に漏れず私も学園指定のコートと、お気に入りのマフラーを巻いて、肌を刺すような冷たい風の中を歩いていく。


寮から校門までは遠くはなく、それを抜けてさえしまえば程なくして暖房の効いた校舎にたどり着く。それまでの辛抱だと自分に言い聞かせ、私は────


「おはよう、カフェ」


「────……ぇ」


声を、かけられました。


後ろから、突然、優しい声を。


その声が耳に届くと、私の心臓はぎゅっと締め付けられ、一瞬だけ呼吸ができなくなってしまった。


耳朶を打つ、あの優しい声。夢の中で何度も私を褒めてくれた、暖かな音。


私は彼の顔をまともに見られるだろうか。いつも通りの私で、接することができるだろうか。


そう考えるだけで、頬が熱くなりそうな気がしてしまっていけない。マフラーで顔を覆ってしまおう、そうすれば彼には見えないはずだから。


振り返る前に冷たい空気を吸ってから、


「……おはようございます……トレーナーさん」


可能な限りの『いつもの私』を身に纏って彼へと挨拶を返した。


「今日は寒いね……風邪ひかないようにしないとね」


私に歩幅を合わせながら、トレーナーさんが30cmほど開けて隣を歩く。


「……そうですね」


返事をしながら、横目でその距離を見る。とてももどかしい、その距離を。


これがあの夢の続きであれば、すぐにこの短い距離を詰めて彼の手に手を乗せてしまえるのに。彼の手から温もりをもらえば、こんな寒い日もたちまち暖かく過ごせるというのに。


それができないなんて……なんと残酷なことだろう。せっかくトレーナーさんと朝から会えたと言うのに、寂しく感じてしまうなんて……いけない。


それでも、あの夢がもしも……────


「どうかした?」


どうやら、考え込んでしまっていたようだった。トレーナーさんが私に話しかけてくれていたのに、無視してしまっていたなんて。


気がつくとトレーナーさんは覗き込むように私の顔を見ていて。


「熱があるわけじゃ……なさそうだね」


心配そうに、私の頭を軽く撫でてくれて。


まるでそれは、あの夢の続きのようで。


もしかしてあれは現実だったのでは、と────私らしくないことを考えてしまうくらい、あの夢と酷似していて。


「……トレーナー……さん……」


「うん?」


さっきまであった距離はほとんど無くなっていて、今なら彼の手を取ることも、胸に身体を預けることもできてしまう。


心臓の音がうるさい。


でも、もし夢の続きなら……────


「どうしたの? カフェ?」


「ぁ…………、…………いえ」


……────そんなことは、ありえない。あれは私の夢で、現実ではありえないこと。


「なんでも…………ありません」


私ったら、何を考えているんだか。


高まってしかたない心臓の音と、赤くなってしまった頬を防寒具のうちに隠して──── 私はよくわからない勢いと、よくわからない言葉と、お友だちのせいにしてその場を取り繕った。


あとでお友だちから怒られちゃったけど。


……ごめんね、あのときはそうするしかなくって。ふふ、わかった。ミントキャンディー……用意しておくから。


・・・


それからは、普段通りに過ごせるようになった。


彼と校舎の入り口で別れ、教室に入って過ごすうちに夢から覚めるような感覚に陥り、今ではあの時のように心臓が高鳴ることもなく、顔が近くて頬が熱くなることもなく。


「それでね、今の3週目。ここから腕の振りが遅くなってて────……」


今もこうして、普段通り彼からの指導も受けられている。コースのそばで私の走りを撮影していたタブレットを2人で覗き込み、フォームの確認だってできている。


覗こうとして彼に触れても、頬が熱くなることはない。少し密着しただけで高鳴っていた心臓も、いつも通り落ち着いている。


「だから次はもう少しここを意識して……はぁ、寒いな……」


「大丈夫……ですか……?」


「ああ、ごめんごめん。やっぱり立って見てると寒くて……僕もちょっと動こうかな、なんて────」


ああ、それは大変。魔法瓶に温かいコーヒーを用意してきたから、振る舞ってあげなくちゃ。


……でも、その前に。


「私は走っていたので……温かいですよ。ほら……」


「……ちょっ」


少しでも寒さを和らげてあげようと、私はトレーナーさんの手を包むように両手を重ねた。確かに彼の手はとても冷たく、指先まで真っ赤になっていた。


「か、カフェ……あの……て、手は……」


「温めているだけ……ですから。これくらいなら……大丈夫、ですよ」


温めているだけ、温めているだけだから大丈夫。私の頬は熱くならないし、心臓も高鳴ったりしない。


「……ね、温かいでしょう……?」


「ま……ぁ、そう……だけどさ」


じわじわと彼の手が温もっていくのを手のひらで感じながら、ふと、彼の意識が私の手の中以外にも向いていることに気づいた。


……何か気になるものが……?


「ぁ……いや、あの……手は、わかったんだけどさ」


「…………はい……?」


「その……ね、……ね?」


彼の返事は要領を得ない。あの……とか、その……とか、はっきり言ってもらえないと分からない。


「……なんですか……トレーナーさん……?」


「き、気づいてやってるわけじゃないの……?」


「……はい?」


やってる、って……何をですか。私が何を……────


────トレーナーさんが執拗に足元を見ながら言うので、何事かと視線をやると……また、私の心臓が高鳴ってしまった。


無意識とは、恐ろしい。


よく考えてみると、彼への想いを抑えきれずにあんな夢を見てしまうくらいなのだから……それを隠そうとしても、溢れ出してしまうのは当然だ。


手を重ねたのは私の意識、なら……────無意識は、私の予測できない行動をしているものだ。


けれど、ここまであからさまな行動をしてしまうなんて……────本当に、私は。


「……私は、あなたのことが……こんなにも好きなんですね」


「……………………え?」


「ふふ……なんでもありません。……だって……聞こえなかったでしょう?」


「え、ぃや……あ、あの」


「このままで構いませんので……続けてください。きっと……私の尻尾も……あなたを温めてあげようとしてるんです」


気持ちを抑えて、隠しても、必ず漏れて溢れてしまうなら。


少しずつ彼に渡して、知ってもらえば……それでいい。


あの夢は、私の深層意識が作り出した不安定なかたち。


だったら……少しずつかたちにしていけば、いつかは。


いつかは、あなたに……褒めてもらえますよね……?

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