カフェとお泊まり 前編
今日はきっと忘れられない日になる────……朝、目を覚まして私は高鳴る胸にそう感じた。
サイドテーブルに置いた時計は午前8時を示している。普段起きるには遅い時間だけど、休日に起きるにはちょうどいいくらいかな……むしろ夜はなかなか寝付けなかったはずなのに起きられたことに驚きだ。
────、────……────!
「……ふふ、そうだね。あなたもちょっと楽しみに……してた、もんね」
私と同じように寝ぼけ眼をこすりながら、お友だちも嬉しそうにしていた。あんまりはしゃいだらダメだからね、トレーナーさんに迷惑がかかってしまうから。
「んむぅ……」
うきうきとはしゃぐあの子に笑っていると、隣で眠っていたユキノさんがもぞもぞと動き始めた。私は咄嗟に口元を手で塞ぎ、声を出さないように息を殺す
起こしちゃったかな……?
「もう食われねぁーよ……」
どうやら起こすまでには至らなかったみたい……よかった。ユキノさんはお友だちのことを少なからず理解してくれるヒト……だけど、話し声で起こしてしまうのは忍びない。
私はお友だちと顔を見合わせてもう1度クスクスと笑ってから、ベッドから降りた。
・・・
「明日……デートをしませんか……?」
「ん゛っ……!?」
旧理科実験室でコーヒーを飲みながら、トレーナーさんに提案をしたのが昨日の夕方。
次の日────……つまり今日は私のトレーニングも、トレーナーさんのお仕事もお休みだから……せっかくだからと思い立ってのことだった。
少し前に……私と彼は恋人と呼ばれる関係になった。想いを告げたのは……ふたりで、いっしょに。
恋人になった日は眠れなくて、寝落ちするまで電話をしていた。幸いなことにユキノさんはレースで部屋にいなかったから、ずっとずっと……今までずっと伝えたかった気持ちやお互いの好きなところを話し続けていたっけ。
「けほけほ……で、デート……?」
私の問いかけが唐突すぎたのか……トレーナーさんはコーヒーで咽せてしまった。彼の背中をさすりながら、私は小さく頷く。
「……せっかくのお休み……ですから」
お休みの日でもあなたと一緒にいたい────……言外にそう伝えると、トレーナーさんは少し嬉しそうに、少し恥ずかしそうに、
「……うん。僕も一緒にいたい」
少し赤くなった頬を見せて、私の手を優しく握ってくれた。
・・・
時は過ぎて、14時半。太陽が頂点を過ぎて、外の空気がそろそろ冷え始めようかという時間帯。
私は……────トレーナーさんの家の前にいる。
スマホの画面を手鏡のようにし、少しだけ前髪を手直し。ちゃんと可愛くなれているかな……デートなのに可愛くないって思われるのは嫌だから、チェックはちゃんとしておかないと。
────……! ……!
「……うん、ありがとう。……緊張、しちゃうね」
お友だちが私の身だしなみを確認してくれたようで、可愛くできてると教えてくれた。
深呼吸をふたつ。
数秒ほど心の準備を整えるように時間を使ってから、きゅっと唇を結んでインターホンに人差し指を当てた。
数回のチャイムの後、とたとたと足音が聞こえてから扉が開かれた。
「いらっしゃい、カフェ」
現れたのは……もちろん私のトレーナーさん。自宅で着るのには似つかわしくない、外行きの服装をして私を迎えてくれる。
「どうぞ、入って」
「……お邪魔します」
片手で数えるほどしか訪れたことのない、トレーナー寮にある彼の部屋。恋人になってから訪ねるのは初めてで、これまで普通に出来ていたはずなのに緊張してしまう。
慣れるまではまだまだ時間がかかりそう……でもこの緊張も、本当の恋人になれた実感が湧くみたいで嬉しい……ふふ。
「コートもらうよ」
「ありがとうございます」
脱いだロングコートをトレーナーさんに手渡すと、お友だちが私の肩を叩いた。どうしたの?
────……! ……!
ああ、うん。そうだね……大丈夫、忘れてないよ。
「……ケーキを買ってきたので……食べませんか?」
これは来る途中、ケーキ屋さんに寄って買ってきたもの。私のお気に入りのお店で、もちろんコーヒーにもよく合う……んだけど。
私がそれを見せると、トレーナーさんは少し申し訳なさそうに眉をひそめてしまった。
「えっ! そんな、悪いよ。せめてお金出すから……!」
「……嫌です。私が……あなたと食べたくて、買ってきたもの、なんです」
私が見たかったのは……あなたのそんな顔じゃない。私はあなたの顔を想像しながら、あなたの好きなケーキを選んできたんだから。
そんな、そんな私の気持ちは……────
「……………………わがまま、ですか?」
「わがままなんて。……僕はカフェと過ごせるだけで嬉しいんだから……ありがとう」
「ん……ふふ」
ようやく、笑ってくれた。私の好きな……トレーナーさんの笑顔。つられて私も笑ってしまう。
────なんだか、むず痒い。それと……照れ臭くて、恥ずかしい。あなたと過ごせて嬉しいのは私の方こそ……なのに。
そう……私が昨日、トレーナーさんに希望したのは……所謂おうちデート。トレーナーさんのお部屋で、ゆっくり……ゆっくり1日を過ごす、そんなデート。
トレーナーさんとなら外に出かけるのも楽しいけど、私はそれよりも2人きりで静かに過ごしたかったから。
「コーヒーメーカー……お借りしますね」
「うん。お願いします」
トレーナーさんにケーキを渡し、私はキッチンへ。
この部屋に置かれたコーヒーメーカーは、お家でもコーヒーが飲みたいと言うトレーナーさんのために私が選んだもの。決して安いわけではないけれど、そのぶん美味しいコーヒーを用意できるんだよね。
コーヒー豆とお水をセットすると、全自動で豆を挽いてお湯を沸かし、抽出までしてくれる。ミルを使って自分で挽く方が好き────……だけど、カジュアルなコーヒーも嫌いじゃない。お家で簡単に飲めるから、トレーナーさんにはぴったりだと思う。
寮の部屋にも欲しいけど……さすがに、学生が簡単に買えるほど安いものではないから……正直、トレーナーさんのお家にあるのは私にとっても嬉しいことだったりする。
「ケーキの用意できたよ」
「ありがとうございます……こっちも、あと数分待つだけです」
見れば小さなテーブルに、ケーキを乗せたお皿が用意されていた。
お皿は可愛らしい黒猫のデザインがあしらわれたもの。トレーナーさんのお部屋に来た時に使うように、ふたりで選んだんだっけ。コーヒーカップと2つでセットの、お揃いで……ふふ。
ふたりで選んだものを使ってくれているのを見ると、嬉しくなってしまう。頬が緩んでしまいそうで、少し恥ずかしいけれど……嬉しいから、これくらいはいいよね……?
「……お待たせしました。温かいうちに……食べましょう」
「うん……いただきます」
「いただきます」
時間は、ちょうど15時……ティータイムの時間。この時間に合わせてきたから、計算通りなのはそうなんだけど。
ふたりで手を合わせて、ケーキとコーヒーをいただく……────つもりが、ついトレーナーさんが食べるところを見てしまう。
「うん、美味しい!」
「……よかった」
子供みたいに笑うトレーナーさんに、私も笑みが溢れてしまう。いつもトレーナーさんは私のコーヒーや、用意したものを美味しく食べてくれるから……私も嬉しくなってしまう。
もちろんトレーナーさんもよくお菓子を用意してくれて、そのどれもが破顔してしまうくらい美味しいけど……やっぱり、自分が用意したもので喜んでくれるのはとても嬉しく感じてしまう。
「ケーキも美味しいし……コーヒーもカフェが淹れると全然違う気がする。僕が淹れてもこんなに香りが立たないんだ」
「そんなことは……ないと思います。私もトレーナーさんも、同じ使い方をしているはずですが……」
「だとしても、やっぱり違って感じるよ。カフェが入れてくれるから美味しいんだよ」
「ふふ、なんですかそれ……おかしいです」
でもそう感じるのは、実は私もだったりするんですよトレーナーさん。ひとりで飲むコーヒーよりも、ひとりで食べるケーキよりも、あなたと共有するものの方が美味しく感じるんです。
「きっとふたりで……美味しいを分け合ってるからだろうね」
「……はい、そうですね」
ケーキを食べ、コーヒーを口に含むと、程よい酸味と苦味が甘いクリームを喉奥へ流し込んでいく。
私と同じタイミングでカップを取り、コーヒーを飲むあなた。
こんな、何でもないただのティータイム。普段からトレーナー室や、旧理科実験室でもしているような……日常の風景なのに、トレーナーさんの部屋で過ごしているだけで何倍にも幸せに感じる。
窓から差し込む暖かい光。
部屋中に充満したあなたの香り。
視線を向けると、にこりと笑うトレーナーさん。
その全てが愛おしく感じて、やっぱり、おうちデートを希望してよかったと心から感じた。
・・・
お話をしたり、サブクスで映画を見たり……ゆっくり過ごしているうちに夜になって。
せっかくのおうちデートだから最後までおうちで過ごそうということになり、ふたりで近くのスーパーへ買い物に行き料理をした。
料理とは言っても、私もそれほど得意というわけじゃないから……ふたりでレシピを見ながら、試行錯誤して……なんとか、というところ。
苦労しながら作ったローストビーフはとても美味しくて、普段よりもたくさん食べちゃった。本当に美味しくて……なにより、トレーナーさんとふたりで料理できたことが、嬉しくて。
彼と分担しながらキッチンに立つ姿が、まるで……────
「夫婦みたい……ですね……」
自分の言葉で、頬が熱くなる。何を恥ずかしいことを言っているんだろう……でも、本当に思ったことだから誤魔化すようなことではないし。
「…………そうだね」
見れば、トレーナーさんも頬を赤くして恥ずかしそうに頷いていた。……考えていることは同じだったみたい。
そんな頬が熱くなる夕食を過ごして、時刻はもう20時。
そろそろ帰る準備をしないと、寮の門限が来てしまう……名残惜しくなる時間帯。
洗い物を済ませてリビングへ戻った私は……────ベッドに腰掛けて休むトレーナーさんの左隣に座った。
トレーナーさんは私の肩に手を当てて抱き寄せると、私ももたれかかるように彼に身体を預けた。
彼の匂いを強く感じる。
「……どうしたのカフェ?」
優しい声で問いかけてくるトレーナーさん。分かっているくせに、そんないじわるを言うなんて。
トレーナーさんはときどき、いじわるを言ってくる。しかも、分かってて……わざと、いじわるなことを言う。
私に言わせたいからなのか、私の反応を楽しんでるのか……多分、そのどちらもだと思うけれど。
でも私もそれが嫌いじゃなくて。
「……甘えても、いいですか?」
下から見上げるように、ぽそりと……────声、小さくなっちゃったかも。ちゃんと伝えたいはずなのに……やっぱり、恥ずかしくて。
……ああ、頬が熱くなってきてしまう。尻尾と耳が暴れちゃって仕方ない。恋人になるまでは隣に座っても……ここまでドキドキすることなんて、なかったのに。
……好き。
好きになると、こんなになってしまうなんて。
それとも……あなたの部屋に来ているから?
「……よしよし」
「ん……っ」
ふと左肩を抱く手が離れたかと思うと、トレーナーさんはその手を私の頭に乗せて……暴れる耳を落ち着かせるように優しく撫で始めた。
「今日は……ふたりきりだから。遠慮しないでいいんだよ」
その声が、なんだかとても甘くて。
ティータイムに食べたケーキよりも……甘くて、優しくて。
あなたの香りでいっぱいの場所にいて、おかしくなってしまいそうなのに……そんなに優しく抱き寄せられたら、私はおかしくなってしまいそう。
胸のドキドキが止まらなくて、どんどん早くなっていくようで……聞こえていたらどうしよう、なんて考えてしまって。
でも……聞こえていてもいいかも、なんて考えていて。
私のドキドキが、好きって気持ちがあなたに伝わったら……いいな、って。
「カフェ」
私の頭を撫でながら、耳元に囁くように言う。
「……カフェ」
「っ、ん……」
トレーナーさんはただ、私の名前を呼ぶだけ。
耳に囁くから、私はまともに返事もできなくて……耳朶を打つトレーナーさんの甘い声に、背筋がゾクゾクしてしまうばかり。
「好きだよ……カフェ」
「ぁ……、ぅ……」
……ずるい。
ずるいです、トレーナーさん。
逃げられないように抱き寄せて、何度も私の名前を呼んで……そんなことを言うなんて。
ずるい。
私だって好きなのに……好きだって言いたいのに、あなたばっかり。
「……大好きだよ……カフェ」
ずるい。
……大好きなのは、私なのに。私の方が大好きに決まっているのに。
トレーナーさんは、ずるいです。
「……そろそろ帰らないとね」
本当に、ずるい。
「……帰りたくありません」
私を……帰りたくなくさせて、そんなことを言うんだから……ずるい。
見上げて懇願するように呟くと、トレーナーさんは嬉しいような、少し困ったような顔をして私の頭を抱く。
「でも帰らないと……門限があるでしょ?」
「……」
寮の門限は22時。今は20時を過ぎているから
、門限を守るならあと1時間もしないうちにここを出て帰らなくてはいけない。
でも……帰りたくない。こんなに幸せで、暖かくて、心地のいい……あなたの隣から離れるなんて、嫌。
嫌だから、私は……────
「……ここにいたい、です」
「……そりゃあ、僕だって」
「僕だって……なんですか?」
「……言わせるの?」
「言って、ほしい……です」
「…………僕だって、帰したくない。もっとカフェと過ごしたい……このままここにいてほしい」
「……じゃあ……いさせて、ください」
「出来るならそうしたいよ……? でもそうしたらカフェは寮長に怒られてしまうだろうし、僕だって」
「……嫌です。嫌です」
「カフェ……」
「……トレーナーさん」
「……でも、カフェ……それは」
「お願いします……トレーナーさん」
私は、懇願する。
帰りたくないと。
ここにいたいと。
あなたと、このまま夜を過ごしたいと。
自分のショルダーバッグから……────
外泊許可証を、取り出しながら。
「…………えっ」
「今日は……帰る場所が、ないんです」
呆気に取られた顔のトレーナーさんに、私は昨晩の出来事を話し始めた。
「実は、昨日……ヒシアマゾンさんにお願いしておいたんです。トレーナーさんの部屋に……泊まる許可を、もらいたくて」
ちゃんと聞こえているのかな。トレーナーさん、口をぱくぱくさせてるけど……。
「最初は驚かれました。でも……私は外泊届をすることが多くて」
トレーナーさんも知っている通り、私の趣味は登山。道中でテント泊をしてから、朝日を見ながらコーヒーを飲むのがとっても美味しい。
次の登山にはトレーナーさんも誘ってみようと思っていて……って、そうじゃなくて。
「だからうまく誤魔化しておく……と」
申請書類の写しにはヒシアマゾンさんがでっち上げた理由と、私のサイン。そして寮長のサインがあり……────つまり、正式に許可されているという証拠。
だから………────
「…………お泊まり……デート……しませんか……?」
「ぁ……あ、ああ……えっと……」
私のおねだりに、トレーナーさんは少しだけ困ったような顔をして……それから、
「痛っ!?」
「きゃっ……」
ばしっ! と……叩くような音がして、こちらへと倒れ込んできた。
私の肩に手をついて、ベッドに押し倒すように覆い被さりながらふたりで一緒に倒れ込んだ。
……────、────!
薄らと目を開けると、トレーナーさんの肩越しにあの子がケタケタと笑っているのが見えた。あの音は彼女だトレーナーさんの背を強く叩いた音だったみたい。
……もう、強引なんだから。
でも……ありがとう。
「……トレーナー……さん」
「ぁ、ちょっ……カフェ……!?」
私は覆い被さる彼の背に手を回し、きゅぅ、と抱きしめる。
「…………ご迷惑なら、帰ります」
お友だちが手助けをしてくれたのはありがたい……けれど、無理やり泊まるなんてことはしたくない。
お泊まりデート……だから……あなたの許可がないと、そんなことはできないから。
答えを待つようにトレーナーさんを抱きしめて待っていると……彼は私に覆い被さったまま、目と目を合わせるように頭を持ち上げた。
「……ねえ、カフェ」
「………………はい」
どきり、と鼓動が跳ねた。
彼の表情は依然として困ったような顔で……この顔をするときのトレーナーさんは、何か迷っているときか、言葉にしにくいことを伝えようとしているとき。
だから私は断られることを覚悟して、彼の言葉の続きを待つ。
「僕も……実は、さ」
「………………はい」
「今日は帰らせたくなかったんだ」
「…………えっ」
どくん、と鼓動が強く跳ねた。
「そ、それ……って……」
「……うん。お泊まりデート……しようか」
トレーナーさんの表情が崩れ、赤面していく。頬は緩んでふにゃふにゃで、きっと恥ずかしさと嬉しさでいっぱいになっているんだ。
私も、同じ顔をしちゃってる。
……私も嬉しくて……恥ずかしくて。
あなたとまだ一緒に過ごせることが……とても幸せで。
こんなに、嬉しくて……いいのかな。
いいのかな……?