オメガバースの話
この世界には、男と女以外に「第二の性」と呼ばれるものがある。
あらゆる能力に秀でた「アルファ(α)」、
人口の大半を占める「ベータ(β)」、
そして、アルファ性を誘引する希少な「オメガ(Ω)」。
これら三種からなる「バース性」だ。
…とは言うものの、なあ…
と桜井景和はぼんやりと思う。
小学校・高校と行われたバース性別検査では自分は2回とも「ベータ」だった。姉もベータだし、その姉が両親もベータだったと言っていたので多分桜井家は由緒正しい(?)ベータの家系なのだろう。学校も中高大学共に公立なので同級生もベータばかりだった。
まあ、この世の中ベータが一番多いし、アルファなんて今までTVや雑誌の中でしか見た事はない。アルファは芸能人とか、セレブとか、いわゆるエリート層と呼ばれる人達に多い。平々凡々な自分にとっては雲の上のような所にいる人達だから会わないのも当然か。
そしてオメガは会うどころか、一度もその存在を見たことはない…いや、「会ったとしてもオメガだとは分からない」なのかもしれないが。
それもそのはず、国内の割合はベータが一番多く75%。アルファは20%、オメガに至っては5%。オメガは存在そのものがレアなのだ。
また、昔よりも抑制剤の研究が進んでいる事に加え、日本では法制度がしっかりしてるおかげでオメガも一般層…いわゆるベータと同じように暮らすことが出来ている、と言われている。他国ではヒエラルキー最下層の存在として差別の対象になっていたりすると聞くが、少なくともこの日本ではそのような事はないらしい。
景和にとって、オメガはアルファとは別の意味で実感が沸かない存在だったし、アルファにしろ、オメガにしろ、この平和な日本にいる限り自分は特に意識したり大きく関わることはないんだろうなあ…などと思っていたのだが。
ひょんなことから、雲の上の存在だと思っていたアルファとお近づきになる事となった。
それが、デザイアグランプリ参加者の浮世英寿だ。
いや、本人からはっきりと聞いた訳ではないけど、英寿くんはどう見たってアルファでしょ!容姿端麗、デザイアグランプリ連勝の不敗の男、それになんてったってスター・オブ・スターズ・オブ・スターズなんだよ!?これだけ条件揃ってて俺と同じベータとかないない、絶対ない。
…と根拠はないが強い確信を持って景和は思う。
そして、もう一人の参加者、セレブインフルエンサーこと鞍馬祢音は意外にもベータなのだそうだ。
そもそも、普段なら特に意識することもないバース性について考える事になったきっかけも、サロンでタブレットをいじっていた祢音が「デザグラの注意事項にバース性についての記載がある」と教えてくれて、そこから自分達のバース性の話になったからだ。
「へー、祢音ちゃんはアルファだと思ってた。だってほら、セレブだし」
「セレブとかスターだからってアルファとは限らないよ。うちは両親ともベータだし。それに」
「それに?」
「アルファだったら『運命の番』に出会っちゃうかもしれないんだよ!そんなの最悪じゃない!」
運命の番。
それはアルファとオメガのみに起こる関係性で、出会った瞬間に電撃が走るように惹かれ合う存在なのだと言う。生涯でこの相手に合う確率は極めて稀だとされる。
そんな都市伝説並の話しか聞いたことはないが、本当にそんなものあるんだろうか…。
まあ「運命の番」とやらを信じているらしい祢音の前でわざわざ言うことでもないので、「あー、まあ、そうだね…」と曖昧な返事でお茶を濁す。
「とにかく、どこかの知らない誰かが、いつの間にか運命の相手になっているなんて絶対に嫌。私は自分の力で私の王子様を探したいもん」
と言い切るのはとても彼女らしい前向きさだな、と思う。
「で、景和は?」
「それ聞く必要あると思う?」
「やっぱりベータ?」
「やっぱりそうです」
と二人でひとしきり笑ったあとに、祢音が「…でも私、『運命の番』抜きにしても、ベータで良かったなーって思うよ」とポツリと言った。
「アルファって生まれも育ちもエリート中のエリートって言われてるじゃない?今まで会ってきたアルファの人達も、将来を約束されたり、期待されたりが当然って感じなんだよね。
私みたいにベータでも財閥の娘ってだけで色々面倒なのに、『エリート中のエリート』まで付け足されたらもっと色々面倒なこと、あるんじゃないかなー…」
祢音のようなセレブにもセレブなりの悩みがあるように、エリートにもエリートの悩みがある、って事か。
…アルファとして、スター・オブ・スターズ・オブ・スターズとして、何不自由ない優雅な日々を送っているように見える英寿にもあるのだろうか、そういう事が。
そんなことを思いながら、ふと当の本人に目をやろうとした景和だったが、
「…そういえば、英寿くんは?」
「あれ?英寿様さっきまでそこのソファにいたはずだけど…」
見れば、サロン中央にあるテーブルの上にぽつんとスマホが置かれている。
「じゃあ、あのスマホ英寿くんのかな」
もしかして持ってくの忘れた?とテーブルに近づきスマホを手に取ろうとした瞬間、不意にふわり、と甘い香りが鼻先をかすめた。
「なんか、いいにおいがする。…誰かの香水とかかな?」
「え?においなんてなにもしないけど…」
鼻をくんくんさせて、祢音が言う。
「えー、結構してるんだけどなあ…まあいいや」
とにかくこれ英寿くんに届けてくるよ、とスマホを手にサロンをあとにした。
廊下に出て当て所もなく歩いていると、またあの香りが漂ってきた。甘い、花のような香りが。
しばらく歩いている内に、景和は自分がいつの間にかその香りを辿っている事に気づいた。どうにも抗えずにそのままフラフラと香りの発生源を探すかのように歩き続ける。
そして、何故か祢音との話を思い出していた。
──でもね、昔はベータでも、大人になってからアルファになったとかオメガになったとか、バース性が変わっちゃうこともあるんだって
──え?何それ…二次検査過ぎたら変わらないんじゃないの?
──私もそう思ってたけど、そういう人もいるんだって。運命の番に会った途端そうなっちゃったって人もいるみたい。まあ、何百万人に一人って言うくらい稀な事象みたいだから、そうそう起こることじゃないと思うけど
どうして今こんな事を。さっきから動悸が治まらない。英寿くんはどこだ。この香りを追わずにはいられない。どうして。英寿くんにこれを届けるつもりだったのに。英寿くん。
発生源に近づいているのか、歩く度に一層香りが強くなる。
まとまらない思考回路のまま、薄暗いコンクリート造りの長い廊下をひたすら歩き続け──
果たして、そこにはむせ返るような甘い香り──景和は知る由もなかったが、オメガの発情期特有の濃いフェロモンを纏い、膝を抱えてうずくまる英寿の姿があった。
「英寿、くん…?」
自分が一体どんな声で彼の名を呼んだのか、覚えていない。
ただ、その呼びかけに弾かれたように顔をあげた英寿と目が合った瞬間、この人だ、と分かった。
自分はベータのはずなのに、ベータならそんなもの分かるはずもないのに、分かってしまったのだ。
目の前の彼が──、浮世英寿が、自分の『運命の番』だと言う事に。