ウマ娘の下書き
日本トレーニングセンター学園・・・・・・通称トレセン学園。
ここで新進気鋭のウマ娘が自分の夢を叶えるため、日々鍛錬を積んでいる。
そこにまた1つ、新人トレーナーのデスクが増えた。
ようやく研修を終えて、まだ担当するウマ娘もいない。
そんな僕の耳にも学園の噂くらいなら入ってくる。
学園も手が付けられないほどヤンチャなウマ娘。
僕の師匠、もとい先日同僚になった先輩が言うには。
「なぜか迷惑をかけないイタズラで、一切の証拠を残さない知能犯」
「職員室に、生徒会室に、理事長室に犯行が及んでなお捕まらない」
ただでさえ新入生の多い春先、たずなさんは気炎を吐いて犯人を捜している。
昼休みのチャイムが鳴って、こちらも新入生らしき放送部員のラジオが始まる。
小鳥のような丸みのある声は、寸分の狂いのないペースでスラスラと話す。
『本日の天気は雨、時々晴れの予報です』
『芝コースは重馬場、ダートは不良馬場の模様です』
『そんな泥まみれの練習になる今日の豆知識』
『3月下旬から4月上旬にかけての雨は、様々な花が咲くに欠かせない水分です』
『そのため催す花の雨と書いて、催花雨という異名があるんですよ』
『千里の道も一歩から、本日もレースの花を咲かせるために頑張りましょう!』
『それでは、お便りコーナーの時間です…』
無難な放送だ。少なくとも僕はそう感じた。___彼女を担当する、先輩は違った。
しきりに顎をさすって目を細めている。
「違う。普段の声じゃない。元気というか、生気がない」
「先輩?」
「君もついてきて。これぐらい気付けないと担当に笑われるわ」
のど飴と水筒を持った先輩に続いてトレーナー室を出て、一段飛ばしで階段を上る。
昼休みの喧騒に満ちていた廊下は先輩が通るとスポーツ選手の戦場に変わる。
トレーナーを欲しがる未勝利ウマ娘をあしらって、先輩は僕にしか聞こえない声で話す。
「日本で生まれるウマ娘は年間7000人を超える」
「そして地方・中央合わせてトレセン学園に入学する者は4000人程度」
「しかしデビュー戦と未勝利戦は1500、重賞は129、G1は24しかない」
「単純計算すると65%、97%、99%の敗者が生まれる」
「実際は複数の重賞を勝ち取れる天才もいるから、数字以上に現実は厳しい」
「それでも過半数のウマ娘がトレセン学園に、夢を持って入学してくれている」
「これから彼女たちを指導する者として、肝に銘じなさい」
赤いランプが灯った防音室は、いかにも外からの騒音を拒絶していた。
しかし鍵は開けられている。それを見た先輩の目はさらに細くなる。
確信的な握力でドアノブを引き、ゆっくりと音を立てずに扉が開く。
厚みのある防音扉の隙間から徐々に放送室が見え始める。
瞬間。
僕はとっさに先輩を抱きかかえ、慎重に扉から引き剝がした。
ドアの隙間から覗いた足元にはピアノ線が張られている。
目を皿のように開いた先輩も3秒間の暴力を経て、腕の中に収まった。
生配信のように和気あいあいとコメントを読む放送室には、しかし誰もいない。
「肉声じゃない」
「合成音声ですね、これ」
凍り付いた表情で担当に電話する先輩をよそに、僕はポケットからブルガリのライターを出した。
赤からオレンジ、さらに黄色から白色になるまでピアノ線を熱し、先輩が持ってきた水筒から水滴を垂らして、一切触らずに熱衝撃で破壊する。1回10分、午後1時を過ぎても未だ放送は止まらない。
そんな手の込んだイタズラを解除する頃には、先輩の顔色も戻っていた。
「片付いたわ」
こめかみに手を当てながら先輩は続ける。
「彼女、例のイタズラ新入生と取引したみたい」
「少しでも自主トレーニング時間を増やせないか悩んだ末の、彼女なりの決断よ」
ほっと胸をなでおろしつつ、また例の新入生が関わったと聞いて興味が湧いた。
「変ですね、あの子は未勝利を勝ってるじゃないですか」
「どうしても重賞クラスに出走したかったみたい。奨学金の返済費用が欲しいって」
「中央トレセンのレース科って一ヵ月、生活費込みで70万円ですよね」
「いくら無利子と言っても不安に呑まれる子がいて当然よ。そっちは?」
リアルタイムに対応する文章生成速度、担当トレーナー以外を見事に騙す合成音声、
ピアノ線に触れれば証拠隠滅される罠、それらをイタズラでやりおおせるウマ娘。
「ライブ配信型の音声合成AI、研究者か大学院生が扱うような代物です」
「学年全体で1人いるかいないか、それぐらいのバケモノが作ってます」