ウマ娘-Stellar Record-

ウマ娘-Stellar Record-



まえがき(注意事項)

続きものだよ! ↓前回のお話

・part301>>33(第0話)

・part301>>164(第1話前編)


前回のあらすじ!

・コントレイル

無敗制覇に期待がかかる、クラシック期待の星。ほどほどに頑張って欲しい。

・トレーナー

天才の真似をしようとするとロクなことにならない。ほどほどに頑張って欲しい。

・サリオス

うお……それはさすがにデカすぎ……

・謎のお姉さん

謎のお姉さんだよ。ホントだよ。あんまこっち見んな


02_イカロスの翼/Clibming to Japanese 2000 Guineas


ありていに言えば、父は魔法使いだった。

はっきり言って凡庸なウマ娘でも、父が指導すればまるで別物に化けた。走りに極端なムラがあるウマ娘が、父の指導の下では常にベストパフォーマンスを発揮した。

他のトレーナーが徒競走の速さを競っているのだとすれば、父だけは空を飛んでいた。圧倒的な天性の才能と、莫大な情報に裏打ちされた指導力は、期待の新星も、百戦錬磨のベテランさえ寄せ付けなかったらしい。

練習すれば誰でもできる手品ではなく、誰も真似しようのない本物の“魔法”。そんなものを間近で見せられて、心を折られた同僚が何人いただろう。父に選ばれさえすればと、叶いもしない望みを抱いたウマ娘がどれほどいたことだろう。

そうだ。強すぎる光は、いつだってどこかに影を落とす。光を放つ本人でさえも、追いすがる影を完全に断ち切ることはかなわない。何かひとつでも針が狂えば、簡単に影に飲み込まれてしまう。

あるいは。父も、そうして影に飲み込まれていったのだろうか。

俺が物心つく前に、父はトレーナー業を辞した。URAとの繋がりも、真相を知ろうと大挙して押しかけてくる取材も、元教え子からの連絡すらすべて絶った父は、数年後には世間からはすっかり忘れられていた。山ほどのインタビューに出ていたのに、お茶の間はすぐに父のことを忘れ、次のスターの話に飛びついていた。

その光を覚えていたのは、トレセン学園の内側にいる人間と──そして何より、その血を継いだ俺自身だけ。

成長すればするほどに、父の栄光とかつての名声を理解するようになった。理解すればするほどに、トレーナーになろうなどとは思わなくなっていった。

だって、そうだろう。誰かの夢を叶える力も、それ以外の夢を足蹴にする覚悟も、凡人には到底持ち得ないものなのだから。

勝利の請負人になるということは、他のすべての夢を否定し続けるということ。誰かの背後にあるたくさんの想いにバツをつけて、選ばれた一人に王冠を被らせるということ。父がやっていたのはそういう仕事であり、そんな次元の話だった。

ただひたすらに勝ち続ける。勝たせ続ける。想像すら及ばないはずの世界なのに、それを実現させてしまう存在が目の前にいる。ひょっとしなくても、俺はその事実に恐れを抱いていたのかもしれない。

間近で見続けるには、その光は眩しすぎた。だから必死に目を背けて、逃げるように他の道を探した。教師の道に進もうと思ったのも、そんな逃避の結果だった。

父の存在から逃れようとしておきながら、同じ指導者という道を志している。そんな矛盾を抱いていることすら、当時の俺は気が付かなかった。この選択は間違っていないはずだと、子供心に繰り返し言い聞かせた。


だというのに。その走りを、見てしまった。


「捉えた! 捉えた! 捉えました、あと100m! アドマイヤジャパン粘る、しかし先頭は■■■■■■■■■!」

軽やかで、鮮やかで、並ぶものなど誰もない。文字通り頭抜けた、まるで翼が生えたような走り。たとえ地獄に落ちたとしても、きっとその美しさを思い出す。

「大外から足音も軽やかに、■■■■■■■■■! 三冠達成、勝ち時計は3分4秒6──」

次元違いの実力に、人はどこまでも夢を見る。このウマ娘が負けることなどあり得ないと、いっそ無責任なほどに願いを託す。

ああ、そういうことか、と。面白いくらいに、何かがストンと腑に落ちた。

どうして頑ななまでに、父に背を向け続けたのか。どうしてあれほどの人たちが、揃って父に焦がれ続けたのか。孤高の三冠バの姿を通して、誤魔化しようのない事実が浮かび上がる。それはあまりに明白で、だからこそ覆せない答えそのものだ。


単純な話。一度その光に灼かれてしまったら、二度と戻ってこられない。


この夢を見続けたい。衝撃がターフを去ってもなお、その身を焦がす熱は冷めることなく。誘蛾灯に引き寄せられる羽虫のように、ただ無我夢中で走り続けた。幾度目かの試験に合格して、トレセン学園の門を叩く頃には、万人を魅了した伝説もすっかり過去の話になりつつあった。

名門と呼ばれるチームのサブトレーナーになった。出せるもの全てを絞り続けて、ようやく一人で担当を持てるようになった。経過した時間はほんの数年でも、そこに至るまでには凡人にできる努力の200%を必要とした。

目指したものは、高い高い一番星。その星の形がわかるところまで近づいたからこそ、あまりの遠さに愕然とする。それでも、と根拠もなしに言い続けたところで、伸ばした手は虚しく空を切るだけだ。

彼女が目の前に現れたのは、そんな時だった。


# # #


「ひかりーのはーやーさーで……かけぬけるしょーどーは……」

かつ、かつ、かつ。歌声と靴音が幾重にも混ざり合って、遥か遠くまで響いています。

ただでさえ長い地下バ道ですが、大事な一戦の前ともなれば、その長さは輪をかけて格別です。歩いても歩いても果てのないトンネルに感じられるのは、わたしの心が逸っているせいもあるのかもしれません。

例えばお昼からのプールが楽しみなあまり、午前中の授業がとんでもなく長いものに感じてしまうような。待ち遠しさにも似たそんな感情を抱くあたり、なんだかんだでわたしも浮かれている、ということなのでしょう。いつも通りのテンションでいるつもりでも、はたから見たらとてもそうは見えない、なんてことは多々あります。

とはいえ。浮き足立って実力を発揮できなかった、なんて言い訳をしなくて済む程度には、わたしも準備を重ねています。

対戦相手の情報だけでなく、今日の天気、風向き、トラックバイアスなどなど。トレーナーさんがしっかり準備をするタチなのもあって、わたしたちの作戦会議は毎回かなり気合の入ったものになります。頭でっかちなんて言われることもありますが、色々な手札を用意しておくことは、決して悪いことではありません。

メインプランが上手くハマらなかった時のために、プランBを用意しておく。たったこれだけの話ではありますが、これが案外バカにならないものなのです。まだやりようがある、という心の余裕こそ、レースを確実に勝ち切るための秘訣です。

「はーしーれーいまをー……かえたいなら……」

舞台に上がることを許されたのは、たったの18人。そのうちわたしを除いた17人は、既にパドックに向かっています。地下バ道をのろのろと歩く一人の時間も、残されているのは数秒とありません。

トンネルの中から外へ、光溢れる戦いの地へ。大歓声はないかもしれないけれど、檜舞台であることに間違いはありません。チームのみんなが、スクールの人たちが、モニタ越しにわたしが現れる瞬間を今か今かと待っています。

「はてしなくつづく……っ、と」

だからこそ。今この瞬間、彼女がそこに立つことには、見かけ以上に大きな意味があるのでしょう。

地下バ道の出口の前で、光を背負って立つ影ひとつ。それが誰を待っていたかなんて、今更言うまでもありません。

その身体を包むのは、真新しい勝負服。子供の頃から変わらない艶のある黒髪は、ミディアムとセミロングの半ばほどの長さで綺麗に整えられています。

「ねぇ、コンちゃん。わたし、ここまで来たよ」

凛と張り詰めた声色は、一見すると普段と同じ穏やかなもので。けれど、そこから顔を見せる情念の重さを、わたしは痛いほどに知っています。

スクールで一緒になって、トレセン学園でも相部屋になって。腐れ縁と呼ぶに相応しい関係だから、大抵のことは口に出さずとも伝わるのです。

「うん、知ってる。……ずっと、頑張ってるのを見てたから」

誰よりも負けん気の強い彼女が、思うように勝ち星を挙げられないこと。連闘も辞さない覚悟で走り続けて、滑り込みで皐月の切符を手に入れたこと。その辛さも、積み上げた努力も、何もかもを隣で見てきました。

「えー、そんなこと言われると照れますなぁ。ま、私が頑張ってたのは事実だから、これに関しちゃどれだけ褒めてくれても構わないんだけど。なんなら忖度してくれたって構わないプボよ」

「絶対思ってないでしょ、その言い方。というか、手加減なんてしたら一番怒るのはボンドちゃんでしょう? 今でも覚えてるからね、スクールのアイス逆奢り事件。先輩たちが手抜きしてくれたのに、ボンドちゃんがキレて納得しなかったやつ」

「あー、ドベになった人がアイス全額奢らされたアレ? あれは先輩たちが悪いよ、自分で真剣勝負って言ったその口で負けようとするんだから。そんな情けかけられるくらいなら、アイスだろうがなんだろうがくれてやったほうがマシです」

さも当然と言わんばかりに、ふんすふんすと鼻息を荒げて胸を張るボンドちゃん。その勢いに釣られたのか、思わずわたしの口からも笑いが溢れてしまいます。

胸のうちに隠すことこそ覚えたけれど、その本質はずっと変わらないまま。烈火のような激情は、一度スイッチが入れば止まることがありません。それを一番知っているわたしが相手だからこそ、彼女は今、このタイミングで、話をしに来たのでしょう。

1秒だって惜しいはずの、勝負の前の貴重な時間。それをわたし一人のために割く理由くらい、いかな私といえど理解しています。そこにどれほどの感情が込められているのかも、完璧でないながらも知っているつもりです。

その、上で。ここに至るまでの全部を知っていて、何が言いたいかなんてまるっきり分かっている上で。

わたしたちは、それでも。こうして、思いの丈を言葉にするのです。

「勝負だよ、コントレイル。私は、今日、あなたに勝つ」

「受けて立ちます、ディープボンド。言っておくけど、手は抜いてあげないから」


# # #


すう、と小さく息を吐く。鼻腔をくすぐる芝の匂いには、ほんの少し濡れた香りが残っている。

昨日の雨から一転、今日一日は雲ひとつない晴れ模様。それでも芝の状態が稍重なのは、看過するには大きすぎる点だろう。コースの荒れ具合も加味すれば、見た目以上に力がいるレースになりそうだ。

そして。その不安材料すべてに勝るものがあるとすれば、それは枠順をおいて他にない。

現行のレース制度になって以降、皐月を1枠1番から勝ったウマ娘は二人のみ。更に中山で、という条件を追加すれば、達成者はあの怪物ナリタブライアンただ一人に絞られる。その“前例”がどれほどアテにならないかなんて、彼女の走りを一度でも見たら簡単に理解できるだろう。

求められるのは、正真正銘の怪物と同じ位地。あの領域に踏み込まなければ、今回の戦いを勝ち抜くことは不可能に等しい。あまりに荒唐無稽で、無理筋と言われても仕方のない要求だ。

ゲートの中から見える光景は、あまりに閑散としたもので。屋外と屋内とを問わず、そこには一人のお客さんの姿も見当たらない。仮にもGⅠの熱狂をこの身で経験しているからこそ、現状がどれほど異常な事態であるのかを身に沁みて理解する。

地鳴りのような歓声も、天に届かんばかりの喝采もない。ともすれば儀式のように、ただ粛々と執り行われるだけ。モニタの向こうでどれほどの人が固唾を飲み、喜んでいようと、こちらからはそれを知る術がない。

『クラシック第一関門、無観客の中──』


けれど、大丈夫。何も、問題はない。

だって、わたしは知っている。大勢の人が期待してくれていることも、数えきれないくらいの人が夢を見ていることも。

わたしが一番、よく知っているのだから。


『──第80回皐月賞、今スタートを切りました!』

がたん、と音が響いて。静寂を切り裂くように、18の影が飛び出した。

『横一線18人、綺麗なスタートを見せています。さあ、先行争いは──』

耳元で唸る風の音に混じって、途切れ途切れで実況の音声が聞こえてくる。ほんの僅かな断片とはいえ、外部からの情報を拾い上げることができるのは、実況が歓声にかき消される有観客時にはなかった利点だ。

スタートはほぼ横並び、ゲートの出で躓いた子は一人もいない。さすがクラシックといったところではあるけれど、そうなると苦しくなるのはこちらの方だ。


──やっぱり。いいや、想像以上にバ場が悪い。


走り始めた瞬間に伝わる、足元からの違和感。事前に確認したつもりでも、自分自身を含めた18人が全力で走るとなれば、条件はまるで別物になる。

一瞬でも気を抜けば、ぬかるみの中に足を取られそうになる。稍重とは名ばかりの道悪バ場は、乾いた風が吹き抜けるお天気模様とはまるで正反対だ。ここからポジションを上げようとすれば、想定外の消耗はどう頑張っても避けられない。

メインプランは2番手から3番手、前目のほうで勝負を進めていく予定だった。けれど、この足元にこのペースでは、とてもその手は使えそうにない。始まって早々に手札の一枚を潰されるのは、あんまり良いスタートとは言えないだろう。

スタート直後のポジション争いほど、レースの中で1秒の価値が重い瞬間はない。こうしているうちにも、刻一刻と状況は変化している。あと数秒で隊列は完成し、わたしはバ群の中に押し込められてしまう。

「……、だったら」

けれど、それも想定内。そんな時のための、プランBだ。

胸元にわだかまる空気も、雑然とした思考も、一度の呼吸で洗い流す。方針を決めたのなら、それ以上拘泥することはリソースの無駄遣いだ。使えるエネルギーには限りがあるのだから、不必要な思考はなるべく削ぎ落とす必要がある。

枠順はともかく、バ場の条件は誰にとってもイーブンなはず。であれば、なるべく消耗を避けられるコース取りも、ベストな仕掛けのタイミングも、ある程度は予測が立てられる。あとはそれにどう対応していくか、を考えればいいだけだ。

『まだ先行バが定まらないまま、一周目ゴール板を通過。ようやく来た、逃げ宣言のキメラヴェリテがここで先頭に立つ──』

お互いがジリジリと牽制し合う、腹の探り合いの中で1コーナーへ。先頭で逃げの手を打った子は、早くも2番手以下に2バ身ほどの差をつけている。ボンドちゃんはそれに続く3番手の位置、そしてサリオスはその後ろに控えることを選択したらしい。

向こう正面が見えてくる。頬を撫でる風の向きが変わる。誰かが蹴り上げた土塊が、視界の隅を擦過していく。

大丈夫。わたしがやるべきことは、焦らずに機を伺うことだ。今は黙って、トレーナーさんの作戦を信じればいい。

まだまだ、戦いは始まったばかり。心配せずとも、勝負をかける瞬間は必ず来るのだから。


⬜︎ ⬜︎ ⬜︎


「──みたいなこと思われてるんじゃないか? お前も隅に置けないトレーナーだね、いやほんと」

「なんで関係者席で見てるんですか……」

「そりゃ、私が関係者だからに決まってるだろ。いいんだよ私のことなんて、それより集中しろ集中。教え子の大舞台だぞ? 担当トレーナーが見ないで、誰が見てやれるんだ」

集中も何も、それを乱してるのはあなたなんですが。溢れかけた反論をグッと堪えて、ターフを駆けるウマ娘たちの姿に意識を戻す。彼女に言われるまでもなく、1秒だって見逃してやるつもりはない。

がらんとした観客席に立ち入りができるのは、報道陣を含めた一部の関係者のみ。労せず最前列を取れる、という点だけ聞けばファンは大挙して押し寄せるだろうが、時勢もあって警備の目を潜り抜けることなどまず不可能だ。いわんや胡散臭い謎ウマ娘が立ち入る隙など、本来どこにもありはしないはずなのである。そう、本来なら。

職業不詳、年齢不明、謎の隣人ことアラタさん。着の身着のまま、入館証だけはご丁寧に首から掛けた彼女がなぜここにいるのか、正確な説明ができる人などおそらく存在しないだろう。一体どんな手品を使ったのかと問い質したいのは山々だが、本人に聞いても十中八九はぐらかされるだけだ。

レース直前になってふらりと現れたかと思えば、そのまま俺の隣に陣取って観戦し始めるのだから、まったくもって自由奔放という以外にない。どうやらクラシックが気になると言っていたのは事実らしいが、にしたってこれは予想外もいいところだ。変装のつもりなのか、被ってきた野球帽がまた似合っているのが大層腹立たしい。

「で、先行押しきり勝ちが狙えなくなったから、サブプランの後方待機に切り替えたと。内枠なことも考えりゃ、妥当っちゃ妥当な判断だが……あの位置に陣取ることまで含めて、お前が仕込んだってわけか?」

「いえ。俺はあくまで、メインが上手くいかなかった場合の保険に、後ろからレースを進めるプランを提示しただけです。細かい位置取りの調整は、彼女自身の判断ですよ。バ場の状態も含めて、先行できない可能性も伝えてありましたから、想定外の展開に焦ることはなかったと思いますけど」

「ほーん、なるほど。あのバ場であの位置ってのも、なかなか勇気ある決断だな。先頭からは15バ身ってところか? 先頭はまた随分と気前よく逃げてるが──それ以上に」

そこまで言いかけて口を噤み、アラタさんはすっと目を細める。見定めるような視線に平時の色はなく、その鋭さは猛禽類のそれにも等しい。

意外にもと言うべきか、その状況分析は冷静かつ的確だ。だからこそ、彼女が思い至った懸念が何なのか、俺にも手に取るように理解できる。

「ええ。先頭から5番手、本来彼女が居たかった位置に、あのサリオスがいる。しかも見たかぎり、まだまだ余裕はありそうですね」

「お? 思ったより焦ってないな。そこもプランに織り込み済み、ってわけか?」

「や、そりゃあ嫌な展開ではありますよ。一番強い相手が一番いいレースしてるなんて、こっちからしたら恐ろしくてたまったもんじゃないですし。いくら相手に距離不安があると言っても、コースの選択次第で前提がひっくり返ることもあり得ます」

好位につけたサリオスと担当ウマ娘──コントレイルの差は、およそ5バ身から6バ身。そのサリオスでさえ、先頭から10馬身近く離されている。

レースは早くも2コーナーを過ぎ、バックストレッチでの戦いに場を移している。位置取り争いが既に決着しているからこそ、ここまでのロスをひっくり返すのは並大抵の力では不可能だ。

──けれど。それは結局、並大抵のウマ娘であれば、の話でしかない。

「これは、あくまで俺の感触ですけど。今日の彼女のコンディションは、確実に過去最高レベルの仕上がりです。このバ場で後ろからの勝負になっても、問題ないって言えるくらいに」

「……へーえ。そいつはまた、大きく出たな」

興味深そうなその笑みは、気焔を吐く俺の無謀さを笑うものか、それとも。口元を緩めたアラタさんは、それきり言葉を継ぐことなくレースに視線を戻す。俺の言葉がハッタリか否か、その真偽さえも楽しんでいるかのような振る舞いだ。

無論、言うまでもなく俺は本気だ。直前に動きを確認しただけでも、今日の走りの出来は群を抜いていた。今までとは段違いの脚を使えるはずだと、理屈ではなく直感で理解できるほどに。

彼女の中に、この状況をひっくり返すだけのポテンシャルは間違いなく存在する。だが、切り札をどのタイミングで切るか、それを選べるのは当事者である彼女だけだ。部外者である俺に出来ることと言えば、せいぜいが信じることしかない。

『──59秒8で1000メートルを通過、外からはダーリントンホール──』

提示されたタイムは、バ場の状態を考えればやや速め。本来であれば観客が各々の反応を示していただろうが、生憎と今日は歓声もどよめきもない。ただ静かな祈りだけが、彼女たちの思惑と駆け引き以外に存在を許されている。

刻一刻と、18の足音が近付いてくる。勝負の分かれ目は、もうすぐそこに迫っていた。


# # #


ここだ、と思った。

3コーナーを前にして、かなり詰まってきた前との距離。隊列はひとかたまりに密集したまま前進し、渾然となって600メートルの標識を通過する。

動くなら、今しかない。最高速度で回転する頭の中で、本能がじゃかじゃかとアラートを鳴らす。予め整頓しておいた思考が、瞬く間に二択を組み上げる。

バ群の間を割って上がっていくか、ロス覚悟で外から追い上げるか。選択肢は二つに一つ、どちらを選んでもリスクが伴う。前が塞がれる危険性と体力の残量、どちらをより重要視するかだ。

──考えるまでもない。この詰まり方なら、外からの捲り一択だ。

ギアを上げる。踏み締める足に力を込める。ずん、という衝撃と共に、身体は砲弾のごとき勢いで飛び出していく。

ここまで溜めたおかげで、脚には十分な余裕が残っている。ここがスタートラインだと言われても、今のわたしなら問題なく勝負を成立させられると思えるほどに。

「……ッ!」

タイミングを合わせたかのように踏み込んでくる、前方を走っていた5番のゼッケン。わたしが仕掛けるのを待って動いたのだとすれば、かなりの策士というほかない。距離にして一人ぶん外を回らされるのは、最終直線前の攻防としてはあまりに致命的だ。

けれど、問題ない。相手がこのスピードであれば、このまま競り落とせる。

「ふ──、っ!」

横一線になった先頭集団、その中4番手に付けているボンドちゃんを横目に見つつ、大外から切り込んでいく。進路を塞がれることもなく、バ場の状態も問題ない、最高の最終直線だ。

隣を走る5番の彼女との位置は、直線に入った時点でほぼ同じ。外を走らされた状態でこれなら、地力勝負で負ける要素はどこにもない。残り300メートルの直線で、十分にセーフティリードをつけられる。

そう。わたしの敵がいるとすれば、それは。

「はは、そうこなくちゃ! ええ、遊びましょうコントレイル! 今度は本気で、ね!!」

「……っ!!」

残り200メートル地点、やはり抜け出してきた青い勝負服。美しい栗毛に彩られた凄絶な笑みは、まさしく“本気”と形容するに相応しい。

ポジショニングも、ここまでのレースの運びも。彼女の──サリオスの動きは、まさしくわたしが理想としていた形そのもの。であるのなら、勝負をかけるタイミングもまた、同じような形になるはずだ。

中盤がどんな形になろうと、最後は彼女との対決になる。半ば確信していた未来予想図が、寸分違わぬ現実となって像を結ぶ。小細工も作戦も意味をなさない、1vs1の真っ向勝負だ。

『外から来た来た、コントレイル! 強い! しかし、迫るサリオス!』

脚の回転は既にトップスピードに乗っている。後続には追いつかれないどころか、このまま突き抜ける自信すらある。それだけの脚を、余力を残して、このレースを走ってきた。

それでもなお、彼女を振り切れない。一歩踏みだすその度に、荒い息が追い縋ってくる。ほんの一瞬、1秒の百分の一の時間が勝負の分かれ目だと、全神経が訴えている。

『並ぶ、並ぶ、東西のGⅠバが並ぶ! さあどっち!!』

ゴール板までの距離はもう幾許もない。出せる力があるとするのなら、とっくに限界まで搾り出している。それでもまるで足りないと喚くのだから、まったくもってこの肉体は強欲にも程がある。

「──っ、はあ……っ!!」

隣ではためく勝負服の裾が、否応なく視界に映り込む。ほんの僅かに残った冷静な思考は、どうやらこのままでは勝てないと言っているらしい。

“この先”が必要だと。全力の先まで絞り出さなければ、この勝負をものにすることはできないと。思考は声となって、歯を食いしばるわたしの奥底で囁いている。まるで“この先”に何があるのか、はじめから知っていると言わんばかりに。


視線の先で、誰かが走っていた。

小柄で、鹿毛で、見た目に目立つところは何もない。見る目のある人が見たとしても、10人中9人は平凡だとジャッジを下すだろう。

けれど、誰もが彼女の功績を知っている。憧れを飲み込み、嫉妬すら焼き尽くしてしまうまでの、圧倒的な速さを知っている。

何度も、何度も。記憶に焼き付くまで、その記録を見続けてきた。会ったこともない彼女に追いつくために、ここまで走り続けてきた。


「っ──」

届かないことは知っていて、それでもその光に手を伸ばす。何故にその背を追っているのかもわからないまま、ただそうしなければならないという義務感が身体を突き動かしている。

強すぎる光に耐えきれず、伸ばした指先がどろどろに溶け落ちていく。掌が空を切るその度ごとに、肉体の一部が欠け落ちていく気さえする。

それでも。もう少しで、彼女に届くのだ。

もう、少し。あと、ほんの少しで──


『──コントレイル、コントレイル!! 2分0秒7、コントレイル、皐月を制しました!!』


そうして。

気が付いた時にはもう、わたしの脚はゴールを駆け抜けていた。


# # #

あとがき

サリオスの身体とかっこよさはどこまで盛っても良いとされる

前後編で収めるつもりだったけど想定が甘かったので中編になりました! ごめんネ!

後編は後日談とたのしいライブだよ


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