インタビュー・イン・ザ・スカイ
美浦トレーニングセンターから電車に揺られてしばらく。県境を超えたとある都会の駅前、商業ビルの会議室。
数十人入っても平気そうな広さ、シンプルな白を基調とした内装。高層階ということもあり南窓からの眺めが良く、ビル群の向こう、鮮やかなオーシャンブルーが見える。
部屋の中央には長方形の可動式簡易テーブルがふたつ向かい合うように並び、パイプ椅子が置かれている。
そこに腰かけているアップトゥデイトとその隣に座るオジュウチョウサン、そして向かいのテーブルでノートパソコンやノートなどを並べている男。この男は記者の一人だ。トレセン内で取材をし、それをコラムや予想に組み入れ紙面に出す。いわゆるトラックマンと呼ばれる人物。
ノートパソコンは3人に見える位置に置かれ、画面にはレース映像が映し出されている。
「それではこの時アップさんが出遅れたのは?」
「はい、隣の彼がゲート内で一瞬暴れまして……。それにビックリしてしまったんです」
「そんなことが! なるほど……」
記者が熱心にノートに書き込んでいるその隙に、ね? とアップがオジュウを見て首を傾げた。オジュウは何も言わず顔を顰める。
今、向けられた目。
数か月前の、中山の。殺意にも怨嗟にも似た、仇を見るような。目が合っただけで昂らせてくれるその瞳は何処にもない。
不特定の誰かに向ける優しさと同じそれ。
だったから。
「……ああ」
取材中にもかかわらずオジュウが出した言葉はなんとも気の抜けたものだった。
それは大障害の数日後のことだった。
オジュウは元からダメージが出やすい体質で、だからレース後にはしっかりケアをして痛めた筋肉を回復させなければならない。
だが、今回はいつも以上に酷かった。
一気にガタが来たように脚の震えが止まらなくなった。各所に熱感も出て、とても動ける状態ではなくなってしまった。死闘の代償は非常に重く、入院せざるを得ない状況にまで追い込まれたのだ。
そこから療養し、退院してからも苦労は続いた。
体が自分の思うように動かない。軽く走ってみてもリズムに乗れない。練習用の易しい障害を飛んでも加速できない。
当然周囲から不安の声が上がった。もう少し休むべきなんじゃないかとか、練習方法を変えてみるべきだとか。
一向に調子が上がらない体、己の苛立ち。ただ時間だけが過ぎていく。
鬱々とした気分のまま、回避を宣言した阪神スプリングジャンプまで、あと数週に迫っていた。
そんな中、取材の依頼がオジュウに舞い込んできた。年末に行われた中山大障害を軸に、根掘り葉掘り聞き記事にしたいんだとか。勝者のオジュウは勿論のこと、ハイペースを作り出したアップも取材対象だと耳にしたとき、オジュウは僅かに顔を上げた。
「気分転換に行っておいで」
そう厩舎の長に言われて、オジュウは取材を承諾した。
あいつに会って、狂おしいほどの熱に当てられれば何か変わるかもしれないと。
僅かな期待を抱いて。
「それではレースのことも大体お聞きしましたので、普段のお二人のことについて質問させてください」
オジュウははっと思考を浮上させる。歯切れの悪い箇所はなかった、はず。だが折角の取材の場なのにそれでは不味い。
改めてオジュウは姿勢を正した。
「普段の、俺たち」
「はい。美浦と栗東で離れていますので交流は多くないこととは思いますが、やはりファンからしてみればお二人はライバルですから。こう、お互いの存在を意識し合うことはありますかね?」
「うーん、そうですね」
アップは顎に手を添え考える仕草をした。
白のハイネックセーターに黒のカジュアルパンツを合わせた、ラフさもありながら撮影されることも考慮しているコーディネート。スリムさを出しながらも、時折わかるその筋肉の輪郭美。
オジュウは息をのむ。
コイツ、年末より状態がいいんじゃ。
視線を上げるとばちっと目が合った。柔和さと精悍さを兼ねた真剣なおもて。どこよりも深いふたつの黒。
「そりゃあ意識していますよ。だって、ずっと目の前にいますから」
眉をハの字に曲げてアップは苦笑する。
オジュウは目の前がぐらついた。
──嘘だ。その程度のはずがねえ。
おまえのその、王座にかける情熱はそんなものじゃねえだろ。
だってずっと意識されていやそれどころじゃなくて。鋭く磨がれた刃先のような眼光を惜しみなくぎらつかせていたおまえはどこいったんだよ。
わずかにある意識にしがみつくようにオジュウは膝に置いた手に力を籠める。黒のジャージズボンをその手の中に巻き込んで。
喉から出た声は。
「……俺も、意識していますよ」
どこか懇願にも似ていた。
「負けるなら、お前しかいない」
のに。
・・・
「今日はありがとうございました! 良い記事になりそうです。原稿が完成次第お二人に送りますね」
満足げに鞄を抱える記者に見送られてオジュウとアップは退出し、エレベーターで降りる。自動ドアが開き外にでた瞬間吹く風はまだ冷気をまとう。街路樹の枝の先で小鳥が春を乞うように鳴いた。アスファルトの上を走る自動車は窓が開いていることが多くなった、とオジュウはただ目の前を歩く。
「もうすぐ春ですけどまだ寒いですね。あまり薄着をしないで正解でした」
アップは腕に掛けていた薄いグレージュのコートを羽織る。筋肉質な骨格が程よく隠れ、その長身が映えていた。
もう帰りたい。仄暗い感情とは裏腹にオジュウはアップに話しかける。
「おまえ、今日は関東に泊まるのか」
「ん? あ、はい。とりあえずホテルとったので一泊してから早朝の新幹線でかえろうかなと」
「わざわざ取材のために、こんな時期に?」
「そうですねー。それもありますけど」
アップはオジュウを見下ろす。ただ視線を合わせるだけではない。全体を、髪のくせ毛からつま先までそのすべてを観察するように。
オジュウは思わず足が一本後ずさる。
「……なんだよ」
「いや? やっぱりなんでもありません」
「は?」
「と、それよりもですね」
アップはコートのポケットからスマホを取り出し画面を確認する。わざとらしい、とオジュウが思うより先にアップの口が再び開いた。
「君、この後の予定ってなにかあったりします?」
オジュウの心臓が跳ねる。
「……特には」
オジュウは軽く首を振った。実際予定は何もない。
だが、この言い方。いやこの前振りは。
脈が速くなる。瞳孔が開く。風が嫌に涼しい。
「それじゃあ、ちょっと僕に付き合ってくれませんか?」
友達みたいな、親しい人に語り掛けるようなそのアップの言葉が。
オジュウは何よりも嫌いで、それでもどうしようもなく焦がれてしまった。
・・・
「うーんこっちのチョコもいいけどクッキーも捨てがたいな……あ、これテレビで見たことある! ねえオジュウくん、どれがおいしいとかわかります?」
「……いや、俺も買ったことねえから」
「そっかー。気になるのあったら教えてくださいね」
駅前のビルから歩くこと数分。その地域では名の知れた商業施設の土産物コーナーにオジュウとアップはいた。
文明開化に後押しされるように建築された煉瓦つくりの建物をリノベーションし、フロアは整備され外観の修飾はほぼそのままに、中はテナントが多く出店できるようにしたらしい。観光名所としてメディアによく名を出しているためか平日にも関わらずどの店にも人が絶えることはない。
普段のオジュウなら絶対立ち寄ることはない場所。そして普段なら絶対にいないはずのアップトゥデイトが地域限定と謳うポップの前でうんうんと悩んでいる。オジュウにとってなんとも不思議な光景だった。
「バロンは面白いもの期待してるみたいだし……ノエルは美味しければいいよって言ってたし……デュークさんは何でもいいってLINEで……」
クランチチョコ、ミニカステラ、サンドクッキーにエトセトラ。好き嫌いなくよく食べるアップにとっては魅力的すぎるラインナップらしい。とうとう頭を抱え始めたので流石にオジュウも何かしら助けようかと店内の並びをざっと見る。その中にひとつ見覚えのあるものがあった。
いつだったか、厩舎の後輩がおいしいのでと一つ手渡してきた、キャラメルとナッツが生地に練り込まれたショコラ。個包装を開けた時の鼻をくすぐる香ばしい香りに一口頬張った時の食感は、普段そこまで甘いものを口にしないオジュウでも面白いものだった。
平たく積まれたそれから一箱取って、アップの目の前に差し出す。
「これ、うまかった」
「これ? ……へえ、オシャレですね! おいしそうだし、みんな喜ぶかも! いっぱい入ってるのとかあるかな……そうだ、先生たちの分も!」
オジュウから受け取った箱のパッケージを眺めつつぱっと明るくなったアップはそのお菓子をカゴの中に入れていく。本当に気に入ったようでレジに向かう足取りも軽い。
会計から戻ってきたアップはほくほくとした顔で「オジュウくん、本当にありがとう」と言ってきたものだから。
「……おう」
と顔を逸らしつつオジュウは自らの後ろ髪をがさつにかいた。それは照れからくるものではなかった。
アップからの真っ直ぐな感謝の笑みに──純粋な好意に。慣れているはずなんかない。
折角なので観光してみたい、とアップに同伴を誘われたことからこの奇妙な散策は始まった。
その辺ぶらつくだけなら1人でも平気だろ、とオジュウがややぶっきらぼうに呟いても、
「僕、初めての場所って苦手なんですよ。臆病なので」
知ってるでしょ? とはにかむから、そこからオジュウはもう何も言えなくなった。
片手にお土産がずっしり入った紙袋を難なく持ちながらアップはオジュウの隣を歩く。履き慣れたらしい白のスニーカーでリズム良く、軽やかに。
と、オジュウは足を止めた。甘い菓子の匂いがする。
その匂いを辿るように視線を動かすとテイクアウト専門のスイーツ店があった。オープンキッチンで焼かれる、バターと牛乳、卵と小麦粉を混ぜた生地がじゅうと音を立てて固形に変わるあの瞬間の。くうと腹が鳴るような。
あいつが好きそうな匂い。
「オジュウくん? ……あ、もしかしてこれ食べたいんですか?」
足を止めたことにすぐに気付いたアップがオジュウの視線の先を追う。
「いや……。お前こそこういうの、好きなんじゃないのか」
「僕? 確かに大好きですけど……今はもうレース目前ですから控えたいかなって」
アップは頬を指でかき惜しそうな顔をしつつも、ふと何かを閃いたように瞳が輝いた。
「オジュウくん、食べてみません?」
「は? 俺が?」
「はい。ちょうどおやつどきですし、君が食べた感想を僕に聞かせてくれたらって思ったんですけど。甘いもの、嫌いですか?」
「いや嫌いというわけじゃねえが……」
「……もしお腹空いてるなら、さっきのお土産のお礼も兼ねたいなって」
ゔ、と言葉が詰まる。
美浦を出てからコンビニで買ったおにぎりくらいしか腹に入れずにいたため、実を言うとオジュウは腹が減っていた。
目の前にはうまそうな洋菓子。そわそわ忙しない隣人。
はあ、とオジュウは息を吐く。
降参だ。
オジュウははむっと焼きたての生地に齧り付く。焦げた部分の香ばしい香り、外はパリパリ中はもちっとした食感、バターも意外にくどくない。2枚の生地に挟まれたクリームはなめらかで、練り込まれたフルーツが舌を飽きさせないでくれる。
ゴーフレットと言うらしいその焼き菓子をオジュウは一口ずつ溢れないように頬張る。
「おいしいですか?」とオジュウの顔を覗き込むアップにこくりと頷いた。
「もっと甘いかと思った。結構いける」
「それはよかった。僕も今度来た時に買おうかな」
手に持っていたゴーフレットはするすると胃の中に収まり、あっという間に消えてなくなった。ごちそーさん、とオジュウが軽く頭を下げると「こちらこそ」とアップはまた笑顔を返す。
その優しい態度に、オジュウはまた胸が苦しくなる。心臓に凍る寸前の水が流し込まれたかのように。
それでも、オジュウはアップと個性溢れる店を渡り歩いた。
「オジュウくん、ここのハンドクリーム知ってますか? 今流行りなんですよ」
──痛い。
「こういうペンダントってなんで言うんだろ……えっと、ピアストリーネ? へえ知らなかったな」
──痛え。
「わざと残してある古めの壁とか、昔の跡が残ってていいですよね。歴史を感じます」
──痛ぇな。
オジュウに向けられる笑顔に穏やかな声音。それは宿敵にかけるものではない。
"友人"にかけるものだ。
去年の年末は、あの時は違った。俺だけは特別だったじゃないかと。そう心でぶん投げかけて不意に思い出したレース後のコメント。
やけに吹っ切れたようなあの賞賛の言葉。
あいつの中で、今俺はどこにいる? 友人で、同じ路線を走る仲間で、ライバル? 向けられる数多の視線の中でもわかる、この世全ての熱を凝縮したような、唯一の、鋭くひかるあの光線はもう。
おれには、向けられないのか?
「……オジュウくん? 危ないかも、っと!」
「んっ」
どんっと尻の辺りに軽く衝撃、前方にいたアップにいつのまにか両肩を支えられる。衝撃の正体はきゃーっと声を上げて通路をぱたぱたと駆けていった。小学校に入るか入らないかくらいの。
「元気ですよね、子供たち。ここって家族連れにも人気なんだっけ……。……それより、大丈夫ですか?」
「ん、なんとも。悪かったな」
「ああいや、そうじゃなくて。さっきから何だかぼーっとしているような気がして……。慣れない場所は疲れますよね」
両手を離されてオジュウは体勢を直す。ふと、子供が飛び出してきたであろう場所に目を向けた。ガチャガチャが縦に3列、壁一面に置かれた一画だ。商業施設でたまに見かける、どこにでもある区画。
ふらっと足を踏み入れてすぐのところに惹かれる台があった。よく見るとこの地域限定の、観光地をモチーフにした商品が出てくるらしい。今いる建造物に展望台が名物のタワー、そして観覧車がセンターに配置された遊園地。キーホルダー用にデフォルメされたものがカプセルの中に封入されているらしく、台のなかにはカラフルなカプセルたちが所狭しと詰まっている。
「折角ですからどこかで休憩しましょうか。このガチャガチャで出たところでどうです?」
「いい、けど」
それじゃ、とアップは財布から100円玉を3つ取り出し投入口にひとつひとつ入れて、レバーを回す。やや硬めなのかつっかえつつ、1周半したあたりでカプセルが転がってきた。青色のカプセル。
大きな手のひらがしっかりと両側を掴んで開けた。
観覧車だ。
・・・
先程までいた建物からさほど歩かず、遊園地のゲートをくぐり観覧車の足元までオジュウとアップはやってきた。
「ゴンドラの中で座りつつ休憩なんてどうでしょう」
入園した直後、簡易ロッカーに土産が入った紙袋を入れつつアップにそう提案されてオジュウも頷いた。
平日のため特に並ぶことなく係員に列で待つように指示される。ちょうどこの時間は夕陽が綺麗なんだとか、てっぺんまで行くと海がよく見えるんだとか。園内に流れるBGMの中に好きな曲があるんだとアップに言われた時、オジュウは興味なさげに頷きつつも密かに耳はスピーカーの方に集中した。
二人で他愛無い話題をしているうちに薄水色のゴンドラに案内される。
ゆっくりと、しかし止まることのないスピードにタイミングを合わせてアップが先に乗り込んだ。オジュウも続けて片足を入れるとがたとバランスが傾く音がする。アップが先に座り、オジュウも向かう合う形で腰掛けた。
ゴンドラのドアががちりと閉まる。
「いつ以来でしたっけ。観覧車乗ったの」
「……1年くらい前の、交流会の時じゃね」
時たまに栗東と美浦の競走バが何かの拍子に集うことがある。面子はその時によるが、障害バはその中でもとりわけ結束が強いのか飲み会以外でも何処かで遊んだりする。ボーリングしたりバーベキューしたりゴルフしたり、去年は遊園地でバカみたいに騒いで。
「そうだ。あの時は僕たち何故か同じゴンドラに押し込まれて……窓の外見たらみんな笑ってて。ほんとにひどかった」
語るアップは言葉とは裏腹に嬉しげに目を細め、窓に手のひらを当てる。緩やかに上昇を始めたゴンドラの景色は園内の遊具をうつしていた。急降下するジェットコースター、優雅に回るメリーゴーラウンド。制服を着た学生らしきカップルがチュロス片手に手を繋いで。
がたり、と揺れる鉄の球体の中でぴくりとアップの体が跳ねた。
「……そういやお前、高いところとか苦手だとか言ってなかったか」
「そ、そう、でした……。で、でも! 一応去年経験してますからね! 前よりは慣れたはずで」
「この観覧車、前のったやつよりずっとデカいぞ」
と、園内マップで見た謳い文句を思い出しつつオジュウが突っ込むと目の前の白い男はさらに顔面が白くなる。
「…………だめかも」
絶対動かないでくださいよ!? と今更ながら慌てだしたアップにオジュウは思わず顔がにやける。ちょっと尻を動かしただけで「きゃあ!」だとか「ひい!」だとか叫びながら後ろにもたれるアップだが、それが余計に揺らす原因になるとは考えていないらしい。
ひとしきり床を蹴ったり尻で衝撃を加えたりして遊んだ後、オジュウはふと閃いた。
「そんなに怖ェならなんか話すか。話してりゃいくらか気が紛れるだろ」
「そ、そうですね! そうしましょ」
ゴンドラのパノラマビューはもう遊園地の外をうつしている。園を囲むようにそびえる高層ビル群に反射する日光で思わずオジュウは目を眇める。そのビルの隙間から、やがて大海が見えるのだろう。
「ただ話すより頭使ってみるか」
「と、言いますと」
「俺が今からお前にインタビューしてやるよ。まだスプリングジャンプの取材は来てねーだろ? その練習」
「えー? まあいいですけど……」
取材、と聞いてアップは自然と背筋を正し、手を腿の上に置く。目はオジュウを真っ直ぐ見つめ、いつでもどうぞと合図を送る。
もう怖さなんて忘れちまったんじゃねえかと喉から突っ込みが出そうになったが引っ込め、オジュウは軽く咳払いしてから質問を始める。
ビルの背で隠れていた落陽が、丁度アップの真後ろでせつなげに輝いていた。
「昨年の中山大障害では場内を沸かす大逃げで惜しくも2着となりました。レース後の体調などは如何でしょう」
「特に問題ありません。食欲もありますし、すぐに調教を再開できました」
「それは何よりです」
オジュウは目を細める。
「阪神スプリングジャンプは間もなくです。調整の方はどうでしょうか」
「順調に進んでいます。ここは前哨戦、目標は当然中山グランドジャンプなのでそれを見据えて、ですけど。それでも手を抜くつもりはありません」
「……そうですか」
淡々と。オジュウが質問を重ね、アップがそれに答えていく。多少風でゴンドラが揺れたとしてもアップの眉が動くことはなかった。
時折何かを呟こうとしたのかアップの口端が動いたとしても、オジュウは見て見ぬ振りをした。
ゴンドラは上昇を続ける。
「……今回」
躊躇った。呼吸が浅くなる。
その違和感を拭うようにオジュウは一つ咳をする。
「今回、オジュウチョウサンは阪神スプリングジャンプを回避しています。……それで何か、意識に変化などはありますか」
オジュウが見つめた黒い瞳が僅かに揺らいだ、気がした。しかしすぐに見えなくなった。
逆光だ。アップの輪郭の縁の先で、煌々と白く赤く燃えている。
目の前にいる顔が黒になる。視線が、口元が、表情が。全て読めなくなる。
それを知ってか知らずかアップは口を開いた、らしい。
「……例えオジュウチョウサンが出ても出なくともやることは同じです。良い走りをして、良い勝ち方をする。だから特に変化はない、と思います」
力みもなく、熱もなく。そう帰ってきた答えにオジュウは冷や水をかけられた心地だった。
──たとえ俺がいなくとも。
──たとえ俺がどうであろうと。
お前はもう、俺だけを見てくれないのか。
オジュウだって分かっていた。いつまでも自分一人を見続けていられるわけではないということを。どれだけ凄まじく酷い勝ち方をし、目の前で王座をかっさらっても。それが執着に繋がるわけではないことを。
去年の勝ちが、逆に決定的な壁を作り上げてしまったかもしれない、ということを。
それでも、とオジュウは奥歯を噛む。
胸元を引っ掴んで怒鳴り散らして、俺だけを見ろ、と勢い任せに言えたらよかった。
丸い鉄籠が大きく軋むくらい、そのすかした顔をブン殴れたらよかった。
だが、今のオジュウにそんな声を荒げるだけの声量も、拳を作れるだけの力もない。
重い体、プレッシャー、メンタルの極度な低下。
今アップに手を伸ばしたところで、まるで弱者が強者に懇願するように惨めに写るだけになるだろう。弱々しい声で「好きだ」と吐いて、首を振られるだけになるだろう。
だからオジュウは何もできない。
「……そう、ですか」
オジュウは眩しい夕陽に目を背ける。いつの間にかゴンドラの薄い水色はこがね色に染まっていた。外のビルも遠い海も。みんな光に塗り潰されてしまった。
もうこれ以上目に入れたくなかった。何も知りたくなかった。
だから終わらせねえと、とオジュウは思った。
「……最後に。何か意気込みを一言、どうぞ」
ぶっきらぼうに捨てた言葉。目の前で影が揺らめく気配がした。
その言葉を拾うように。アップの膝に置かれていた右手が、ゆっくりと自らの胸を掴む。瞼が閉じる。
僅かな沈黙。
それを破ったのはゴンドラの揺れだった。動きが変わる。
頂に着いた合図。
「……ここは、負けられません」
声音が、変わった。
オジュウはアップを見た。今度はその瞳が合う。
潤む黒の中。オジュウがいる。
「きみ──いえ、オジュウチョウサンが体調悪いことは知っていました。嫌でも流れてきますから、そういう噂。そして今日確信しました。だから僕は負けられない」
きっと鋭い眼光がぶち抜く。バカな不安はよせと怒鳴るように。けれど拗ねる子供に言い聞かせるように。
「絶対ターフに立ちたくなるような、オジュウチョウサンをびびらせるような競バをします。前を、ただひたすら前を見ます。そして──」
呼吸をひとつ。
「──ウイナーズサークルで。ひと足先に待ってますから」
たった1人のため。
それだけのための誓いを今たてたアップに、オジュウはもう目を逸らせなかった。
瞼の裏に潜めていたその熱情を。
夕陽の色でさえ隠せない頬の赤さを。
知った。知ってしまった。今、目の前で見てしまった。
全身が、細胞が。欠けていた歯車が埋め込まれるのを待ち焦がれていたのように動き出す。
鈍った脚に血が巡る。枯れた肺に息吹が戻る。
アップはいつもただひとり。
それは、今でもただひとり。
──俺だけをみていた。
・・・
「いつからなんだよ」
「え?」
「だから、いつからわかってたんだよ。体調良くねえの」
観覧車から降りた時、空を茜色に染める陽がまたビルの向こうに隠れて、辺りは影が長く伸びていた。オジュウは足元に転がっていた小石を蹴る。かつんと段差で止まり、それをまた蹴る。
「いつから……さっきも言いましたけど、流れてくるんですよ。君の噂。多分ですけど、ルートとしては美浦の誰かがレースに行った時に栗東の誰かとそういう話になって、トレセンに戻ってきた時にそれがまた別の誰かに伝わって……みたいな?」
あとは記者づてとか、先生関係からとか、と人差し指を空中でくるくると回しながらアップは答える。そしてその指はオジュウを指した。
「本当だったんだ、ってわかったのは今日君が歩く姿を見てからかな。踏み込みが浅くて軸も安定してない。筋が緩んでるな〜って」
え、とオジュウはアップから一歩距離を取る。
オジュウは普段からトレーニングの一環として歩行を取り入れていた。脚を意識するためによく林道を散歩したり、安静時の筋肉の使い方を学んだり。
だから調子が落ちたとはいえ傍目からそこまで影響は出ていないはずなのだ。
ましてやオジュウの今日の服装は長袖長ズボンの着慣れた愛用ジャージで体の線は明らかではない。おまけにアップとはレース以外で殆ど顔を合わせないのに。
それなのに、だ。
「……きも」
「!? き、きも!?」
「いやわかんねぇって普通。お前そんなこと思いながら今日俺見てたのかよ……うわ」
「人を変態みたいに扱わないでくださいよ! こら! 距離取らないで!」
近寄られて、その分また逃げて追いかけて。そこから鬼ごっこのように2人で園内を駆け回る。
遠くで鴉が鳴いても笑い声は止まらなくて、どれだけ風を集めても体の熱さは冷めない。
「せっかくだからジェットコースター乗ろうぜ! もちろん先頭な」
「落ちた時絶対水かかっちゃうじゃないですか!」
「ほらアトラクションのトコまで走んぞ、負けた方がアトラクション代奢りな」
「えっ」
「よォいどんっと!」
「ずるい! カンパイですよー!」
親の言いつけを忘れた子供のように、アップとオジュウはひたすら走る。
アップが好きだと語った曲が、オジュウも好きだと感じるようになったそれが、スピーカーから流れるその中をただ自由に駆け回る。
絶好のスタートを決めて瞬間、加速する風の中。
早くターフで、若草薫る中山で。
自らのバ生全てを賭けてこいつと走りたいと。
オジュウは心の底からレースを恋しがった。