イランイランのしたたる夜に(中の上)

イランイランのしたたる夜に(中の上)

稠林坊

 起床時間のアラームが鳴り響き、もぞもぞと熱のこもった絡み合いから目を覚ます。あたしが組みついたことでぐっすり微睡みに落ちているシンの寝顔が眼前に広がる。
すー。すぅー、すー。鼻先につついてくる、落ち着いた寝息。このいじらしい魔性の獣は、軍人として大きな責任を背負わされてここに配属されてるってことすらつゆ知らず、あたしの胸奥を弄っては突き刺してくる。あたしは、頬がふやけてしまう前に、この浸蝕に抗うべく唇を重ねた。
「んっ、っ?!」
柔らかな桃肌の双葉で寝息の窓を閉ざされたシンが、混乱した師団を取りまとめるかのように全身を震わせる。すかさず胸を押し当てて吐息で鼻を軽くつつき、シンの微睡を優しく刺激して目を覚まさせた。
「朝よ、シン」
あんたが魔性であたしを籠絡しようもんなら、あたしにもそれなりの考えがあんのよ。そんな妖しい考えを喉奥で押し殺しながら、朝のブリーフィングへの出動を催促する。
「ルナぁ…おはよ」
「うん…おはよ、シン」
よし、いいぞ。びっくりするくらいシンメトリーに満ちた朝を迎えられた。あたしが寝る時欠伸して、朝はシンが欠伸して起きた。今の会話もちょうどシンメトリカルだ。シンは、確実にあたしの作ったリズムに引き寄せられている。
着実な計画の遂行を確認しつつ、2人で仲睦まじく会話をする。昨日の感謝を会話の弾みにして、諸々の準備の手際をスムーズにする。
「昨日はありがとね!相変わらず身体が軽くってびっくりしちゃう!」
「へへっ、だろ?」
「今日は自由時間、確かオーブに着港するのよね?」
「ああ、そう言ってたね」
「よしっ!それじゃあ、今日の自由時間はデートに行くわよ!」
「よっしゃ、乗った!!どこでも付き合うよ」
「やったー!それじゃあシンの行きつけの本屋に連れてって頂戴?その後買い物いっぱい付き合って貰うんだから!」
「へへっ、りょーかいっ」
衣服を着替え、制服が肌を摩擦する音をバックに、他愛ない会話が弾む。この争乱が全部終わった後も、あたしとシンはきっとこんな会話をする。そうなるって確信があるから、身支度で整えるモチベーションもばっちりだ。今日の仕事も、きっと手際よく上首尾に済ませられるだろう。
シンが姿勢を整えると、潔く個室ドアのロックに手を掛けようとする。
「あっ」
「わっ、ルナ?…はむっ」
あたしはそれに気付いて、ぴょんとシンめがけて飛び跳ねる。シンが気付いて振り向いたら、すかさずあたしは包むように抱きついて、唇を重ねる。
出勤前の、扉前のプレゼント。忘れちゃ駄目じゃない?ついでに……
「ん…むは、はむっ…」
「んあっ…ルナぁ…」
続けざまに、襟元ギリギリのキスマークを刻む。吐息を仄かに洩らしながら、”地雷のセッティング”完了を確認。
「…いってらっしゃい」
「…えっ?」
「え?」
「いやだって…ルナも一緒に行くんだろ?何で…」
あああもうバカ!!
「いだっ!」
こー言う時は「ああ、いってくるよ」とかじゃないの?そーいうとこなのよ、シン。今日の担当2人とも違うの知ってんでしょうが。まあいいわ。あたしの計画に支障はなし。軽くシンの頬を叩いて気を取り直させ、シンの掛け声で部屋のドアを開けさせる。
廊下の光がばっと差し込み、2人のチャンネルが仕事モードに切り替わった。あたしは軽く会釈して、反対側に向かうシンを優しく見送った。

―――

昼にかけての作業を終えたら、早速私服に着替えて作戦を継続する。状況は好調。あたしはシンのマッサージでピンピンしたまま書類をテキパキ処理しちゃったし、メンタルコンディションもオールグリーンを維持している。ミレニアムがオーブに到着し、晴れ渡る空と緑に囲まれた基地の空気が艦内を吹き抜ける。あたしはそれを吸いこんで、出撃前のブリーフィングを行った。
 自由行動時間とはいうが、恋する聖母にとってそんなささやかな平和ほど重要な戦争もない。あたしは鏡を見ながらピンクのリップを塗り、唇の張りを確かめ、まつ毛を整え、パウダーで頬の艶を整えて潤す。日々のつきあいでシンが一番身をそばだてた香水を吹きかけ、立ち上がって今日のお出かけコーデをチェックする。シンのことだから、どうせあたしとのデートであれば目がころころあちこちに泳ぐことだろうけれど、そんなシンの目を吸いこめるような、ピンクを中心に身体の随所をひっそり露出した動きやすい上着に、短くひらひらするスカートを組み合わせ、目を誘い込む装備を換装する。胸元にはシンの目と同じ色の造花を挿し、腿を強調するニーソックスと、かかとは稍低めだけどきらきらした、真珠色のヒールを穿いて、「今日のルナマリア」は出撃準備態勢に入る。
 あたしの浮かれた声の暗証番号に反応して、個室のドアが開く。進路クリア。あたし、発進、どうぞ。今日のルナマリア・ホーク、出ます!

 視界がばあっと明るく開け、港の潮風があたしを包む。きらびやかな空の色にコントラストする向こうの山々の緑が心地よい。感傷に浸っていると、後ろから聞きなれた愛しい声があたしを呼んで叫ぶのがわかった。
「ルナ!」
振り向くと、コケティッシュな子供らしさを纏って、小さなバッグを肩に掛けた少年が、軽い足取りで駆け寄ってくる。本日2回目に顔を合わせる、あたしの捕食たいs…じゃなくて、愛しい男の子。約束の時間が待ちきれないといわんばかりの底抜けな明るい表情が、沸騰するあたしの雑念を相も変わらず掻き乱して蒸発させてくる。高ぶる気持ちのままにあたしも、同じ位底抜けな明るいトーンを弾ませて呼び返す。
「シン!」
あたしの姿を認識した途端に駆け寄るのが早まり、飛ぶようにこちらに引き寄せられてくる。あたしが野の花をやってるときは、シンは必ずミツバチになる。愛らしいミツバチが止まってくれたので、あたしはすかさず近寄って、腕を絡める。子供みたいに絡むシンの表情は晴れやかで、今日のオーブの晴れ空を反射するようだ。そんなシンをぐいと引き寄せて、あたしはうきうきした心持でその腕を手繰り、恋人繋ぎを作ってシンを引っ張って歩き出した。
 この愛しいミツバチは、とっても単純で分かりやすい 。…それゆえ、とっても心憎い。足取りが一定の速さで揃った矢先から、開口一番にシンが言いだす事と言えば、
「今日のルナ、すっごい可愛いな!」
…こういう、屈託も捻りも一切考えないあたしへの褒め言葉。開幕直後からハートを刺すのは、シンが得意としているコックピット一撃殺法譲りのやつかしら。
折角だから、あたしは追撃要請を発信してみる。
「あはっ、嬉しい!ねえ、どんなところ?どんなふうに可愛い?」
…討たれる側が追撃を求めるなんておかしな話ではあるのだが。それでも恋の戦争は、如何に敵機が自分のコックピットを狙い撃ちしてくるかにかかっている。
 で、そういう狙撃センスをシンにさりげなくねだると、
「えっ…だって、いつもよりずっとキラキラしてて、靴も真珠みたいに光っててさ。スカートとかセクシーだし、それに、花が一輪胸元にあるの、すっげえ似合う!」
 追撃要請にないヘッドショットまでしてきた。しかも連射で、全弾。は?こんなに彼氏力あった?ちなみにここまで下心一切なし。思考を読ませない高速機動の口から、この射撃である。何これ?コックピットは早くもレッドアラートを連発してけたたましいんだけど、その矢先にこの少年兵と来たら、
「…とにかくさ、今日のルナ、宝石みたいでさ!」
 …CQ,CQ.こちら、ルナマリア。当方、作戦の遂行に大幅の憂慮あり。ダメージコントロールできません。こんっの純朴バカ。のっけから作戦行動を逐一踏み越えてくるじゃないの。しかも、声量があるからあたしはほっぺたオーバーヒート必死。当然、足取りにそいつは影響しちゃって、
「きゃっ…?!」
…ヒール穿いてるのにそんなになるあたしもあたしだ。で、
「あっ、ルナ?!…大丈夫か…?」
…すぐに空いてる外側の手が伸びてあたしの腰を支えてくれる。まだ100mも歩いてない矢先でこの対応だ。シンの顔があたしの肩に近付いて、吐息が鎖骨を掠め、あたしの外側の手甲はシンの手に捕まえられ、ゆっくり正しい姿勢に矯正される。始まる前からあたしは大破させられている。
「…もう、バカ!」
「いっ…?!…やっぱ…嫌だった?」
「嫌じゃない!すっごい嬉しいわよ!!でも…」
「でも…何?」
「そういうのはもっと、静かな声でお願い……」
こうやって自分の姿勢を維持してやるのが精いっぱい。ああ神様、どーしてあたしの彼はこんな何時の間に天然スパダリ街道を直進するようになったんでしょう。にやける自分を殴りたい。このまま浮かれた気分のまま二人の足取りは超大型モールへと直行する。心なしかあたしの方も足がフワついている気がする。状況は良好と言えば良好だけど、戦地に入ったらペースは全部握りきられないようにしないと。

…まあ、この準備は脆くも破り去られることになったんですけど。


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