アクアと幽霊かなちゃん

アクアと幽霊かなちゃん

145前スレ


 アクアに付き添って早いものでもうすぐ八ヶ月。一時期は芸能活動を引退をするかもしれないと噂されていたアクアはトラウマを乗り越えて見事に芸能界に返り咲いてみせた。やっぱり私が見込んだだけあるわ。まーったくなにが俺には演技の才能がないよ。まぁ、アクアが活躍するのなんてずっと昔から私だけには分かってことだったけどね!!それでもアクアを散々落ちぶれただの何だの言ってた奴らをぎゃふんと言わせられたようでスッキリした。

「それにしても、いい天気……」

 屋上の景色を独り占めしながら一人でのんびりと漂う雲を眺める。生きている頃はずっと気を張ってたから、こうやってただのんびりするのも新鮮。なんて最初のうちは思っていた幽霊生活にも随分と慣れてきた。

 いつもならば付き添っているアクアは演技の打ち合わせ中。アクアが復帰した最初の仕事は私もずっと心配で付き添っていたけれど、もう今のアクアは私が側にいなくても演技にうちこめられる。だからアクアが仕事の打ち合わせをするときは私はこうして一人でのんびりと過ごすことにしている。雲をぼんやり眺めていると去り際のアクアの顔が浮かんで、覚えた罪悪感を振り払うように声を出してみた。

「……あーもー。あー!!!」

 私がアクアの元から離れる時、それが少しの間だけでもアクアは決まっていつもどこか不安げな表情を浮かべる。だからといってアクアは私の自由行動を止めはしないけれど。

 アクアが心配してくるのは嬉しい。でも私は弱いから、どうしたって不安そうなアクアを置き去りにしてしまう。だって、ずっと見てたら悔しくなる。アクアを助けられたことに後悔はないけど、それでも皆が楽しそうに演技しているのを見ると嫌でも思ってしまう。なんで私はここで生きてないんだろう。なんで、私だってもっと演技がしたかったのにどうしてって。けど私がそんな事を考えようものならようやく立ち直りつつあるアクアをまた傷つけてしまう。だから先に離れておくの。まあこんなちっぽけな私の考えなんてとっくに見透かされてるかもしれないけど、アクアの前では気丈な私でありたい。それにこれはここまでアクアに付き添ってきた私のちょっとした意地でもある。有り難いことに最近は他にちゃんとした理由もあるし。


 うとうととしながら今までのアクアとの日々を振り返る。

 アクアにとっては地獄みたいな日々だったかもしれない。でも私にとってはこの八ヶ月それなりに楽しい日々だった。最初に再開した頃のアクアは目も当てられないぐらいにひどかったけど。

 あの真っ暗な部屋の中でずっと自分を責め続けて、ろくに部屋も出ずに、ルビーとだって頑なに口を利かずに、ひたすら世界を遮断して殻に閉じこもって。でも、そこは天才の私よね!すぐに気づいたけど、アクアは私が言う『私に悪いと思うんだったら』という言葉にとても弱かった。そのこと気づいてからは有り難くその言葉を使って、私は無理矢理アクアをいろんなところに連れ出させた。別に悪く思う必要はないのにアクアが頑なに自分を責め続けるから、それならその気持ちに精々つけこまさせてもらおうと思って。色んなところに二人で出かけて、二人でいろんなことをして、あんたに生きて、幸せになってほしいって言い続けた。

 そのうちの何がどう功をなしたかは分からないけれど、一緒に過ごしていくうちにアクアは少しずつ落ち込む回数が減って、徐々に前の調子を取り戻していった。どういう心境の変化があったのかわからないけど、頑なに拒んでいたアクアが演技にまた挑戦するって言ってくれた時は本当に嬉しかった。そして一番落ち込んでいたアクアが前を向き始めたことで、最近は随分とアクアの周りも落ち着いてきた。

 結局アクアは私の死が自分の責任であるということに関しては折れてくれなかったけど、それでも、私のために生きてくれるって言ってくれたし。これは完全に、とは言えないけれどもう十分立ち直ったって言ってもいいんじゃないかしら?

 ただ、だからこそ最近はよく考える。

 私は後どれぐらいアクアと一緒にいられるだろう?

 ある時から意識がふっつりと消えるようになった。最初は数分だったのが気づけば数時間、最近の私は寧ろ生きていたときよりも眠ることが増えた。恐らくこれがあの子の言っていた魂を留められるリミットに徐々に近づいているということに違いない。そのせいで一時期はアクアと盛大に喧嘩したりもしたけど……今ではそれもいい思い出。

 アクアは私が眠るようになってからは前にもまして仕事以外の時間を私に費やすようになった。愛されてるのが伝わってちょっと悪くないなって思ってるのはここだけの秘密。だけど、多分アクアも私もどこかで分かっている。

 もう私達に残された時間はそんなに、長くない。










 だから、数日前と同じように一人でいた私の目の前にあの小さな女の子がまた現れたのはさほど驚くことではなかった。

「ふぅん。驚かないんだ?」

「幽霊が今更どう驚けって言うのよ?」

「そう?君も最初のときは随分と驚いてくれたけど」

 くすくすと笑うこの子がなぜアクアを立ち直らせたがったのかその理由は私にはわからないし、興味もない。ただ彼女がいなければこうしてアクアと過ごせる日々はなかったのだから、そこだけは感謝してる。

「それで……?ちゃんとお別れぐらいは言わせてもらえるんでしょうね?」

 アクアを立ち直らせるまで、その約束通りなら私はもういつ消えてもおかしくない。だからこそ単刀直入に聞けば彼女はたんたんと答えた。

「そうだね。君は宣言通り彼をちゃんと立ち直らせた。今日の終わりぐらいまでは待ってあげられると思うよ」

「今日の終わり……」

「あとは、そうだね。君の手を出してみてごらん」

 今日、というあまりにすぐそこまで迫った時間に戸惑いながらも、彼女に言われるがままに手を差し出した。そうすると彼女は私の出した手に触れようと手を伸ばしてきたので、いつものようにその手がすり抜けるのを想像していたら、子供特有の柔らかい肌がぴとりと、私の手に当たった。

「……えっ」

「君は役目を果たしたから、これはそのおまけみたいなものかな。長くは保てないからお別れを言う時だけになるけどね」

「……ほんとに、さわれるのよね?」

「何だったら、もう一回試してみる?」

 未だに半信半疑でいると彼女はぺたぺたと私に触れてみせた。

「もういい!!いい!分かった!アクアにさよならする時は触れられるようになってる!そういうことね!どういう理屈かは知んないけど……信じるわよ。こうなったらアンタにかまってる場合じゃないし。じゃあ、私もう行くから。いい?」

「うん。今度はしっかりお別れしてくるんだよ」

「余計なお世話!」

 さり際の彼女の言葉を一蹴して私は急いでアクアの元に戻った。なんで彼女にそんな力があるのか、どういう理屈で私の体に干渉できるのか疑問はつきなかったけど。そんなのどうだってよかった。逸る気持ちを抑えきれずに、早足で彼女の元を後にする。


 今は、ただ。アクアに早く会いたかった。




「──アクア!」

 帰ってくる頃にはちょうど打ち合わせが終わったらしいアクアの姿が見えた。私の姿を見つけたアクアは一瞬だけ安堵した表情を見せて、それを隠すように取り繕った。

「有馬。今日はどこ行ってたんだ?」

 帰ってくるのがちょっと遅かったみたいで、アクアは少しだけ息を切らしていた。きっと私の姿が見えなくて探してくれたのだろう。申し訳ないと思いつつも、アクアの執着を感じて私はこんなことで嬉しくなってしまう。あーあ、こんな後ろめたい喜びを感じるのも今日で最後かぁ。なんて考えながらも、いつもの調子で、いつもの笑顔でアクアに語りかける。

「天気が良いから屋上に行ってただけよ。……それより、ねえ。アクアこの後は予定なかったわよね?」

「ああ、今日はもうこれで終わりだ」

「じゃあ、私行きたい場所があるの。連れてってくれるわよね、あーくん?」

 不思議だった。これが最後だと言うのに私はアクアを前にしてもどこか落ち着いてた。いざアクアと別れる時がきたら私はもっと動揺すると自分でも思っていたのに。それこそアクアと離れたくなくて泣くかもって思ってたのに、意外と普通に話せていることに何より私が驚いていた。だけど、不思議というのは嘘で。本当はちょっとだけ心当たりがある。そう、私は別に落ち着いてなんかいない。本当はちょっと、ドキドキしてる。

 だって、ずっと。そう、ずっと。私はアクアに触れることができなかった。ずっと近くにいたのに夢でうなされてるアクアの手を握ることすらできなかった。柔らかいその髪にふれたくても、ふれることができなかった。泣き方を忘れてしまった不器用なその体を本当はずっと、抱きしめてあげたかったのに。あの時してくれたキスだって、本当はこの身でそれを味わえたらどれだけ嬉しかったかって。

 だから、最後にもう一度だけアクアにさわれるなら。

 それは二度目のお別れすら霞んでしまうぐらい、眩しい夢だった。

「……分かった。けど先に家に一回だけ寄ってもいいか?」

「まあ。それぐらいなら…………うん!いいわよ!さっ、そうと決まったら行くわよ、あーくん!」

 本当は今すぐ向かいたかったけれど目的地はアクアの家からそう遠くない。それぐらいなら大丈夫なはず。アクアの提案に頷いて私達は一旦アクアの家に寄ることにした。家によったアクアは軽く着替えて部屋から出てきて、それから私達は公園に向かった。



「懐かしいな、この公園。で、有馬。今日は何するんだ?」


 打ち合わせ場所が少し遠かったせいで、公園についた頃には空も随分と茜色に染まりはじめていた。お陰で小さな公園には私達だけ。アクアと私が初めて一緒に学校をサボって二人で初めてキャッチボールをした公園。この体になってからもし二度目の最後があるならここがいいなって、ずっと思ってた。

 ここにくる道中試しに電柱に触れてみたりしたけど、私は相変わらず何にも触れられなかった。でも。もし、あの子が言ってたことが本当なら。


「………とりゃっ!」


 覚悟を決めてアクアの胸に飛び込む。どうせすり抜ける、どうせすり抜ける、悪い未来を予想しながら飛び込んだのに私の体は予想を裏切って、しっかりと彼の腕の中に収まった。ああ。ずっとずっとこうしたかった。柔らかい胸板。細いけど、私より力のある、血の通う白い腕。アクアの匂い。ずっと、こうされたかった。アクアの心臓の音がとくとくと聞こえてくる。

「有馬、おまえっ……どうして、……」

 アクアも私に触れられることに驚いている。それでも、ふれられるのだと分かって彼は確かめるように私の身体を抱きしめた。ぎゅっと、キツく抱きしめてくるから。もし私の心臓がまだ動いてたらきっと爆発しそうになってたと思う。夢みたい。全部、そう。全部。夢だったら良かったのに。本当は、生きて、こうしてアクアに抱きしめられてたら一番うれしかった。でも、アクアだってきっと分かってる。私の体はアクアよりうんと冷たくて、抱きしめあっているのに聞こえる心音も一つだけ。それでもあの日なくしたものを取り返すように、暫く私達はそのまま抱きしめあっていた。


 本当はもっとそのままでいたかったけれど、私にはどうしても別れる前にアクアに伝えると決めていたことがあった。


「──ねえ、アクア。あんたにずっと言いそびれてことがあるの」


 それはたくさんある有馬かなの後悔の一つ。

 アクアから離れて、彼の顔がしっかり見えるように一歩距離を取る。

 生きている間は、一度だって素直に言えなかった。憎まれ口ばっかり叩いて。ふざけて、誂うようにしか確認できなくて。元を正せば思わせぶりなことばっかり言って振り回すような行動をしてきたアクアにも責任があると思うけど、それでも私からはとても言えなかった。あかねと付き合い出したって聞いた時も、本当は私のほうがあんたのこと好きなのにってずっと思ってた。あんたも私のこと好きじゃないの。私が告白したら、私と付き合ってくれたりする?って。だけど例え恋人じゃなくても、アクアだけにはずっと私を見ていてほしかったから、だからアクアに拒絶されて気まずくなったらって考えたら、どうしても言えなかった。

 本当は私の心なんてとっくの昔に決まってたのに。


「私……、その。生きてる間はいっぱいあんたに素直じゃないこと言ったりしたけど、」

 幽霊になって長いこと一緒にいて、お互いの気持ちはそれなりに確認してる。多分、うん。多分両思い。お互い言葉にするのは避けてたけど、一応。アクアの方からキス、だってしれくれたし!!だから、そう。分かっている筈なのに。いざ、ってなると緊張して、口がいつもみたいに勝手に喋りだしそうになる。それでも、これは。これだけはちゃんと伝えるって決めてたから。


「本当は私──────────ずっと、アクアの事が好き。でした。……だから、私をアクアの彼女にしてください!!」


 アクアのことが好き。それを認めるだけなのにこの場から逃げ出したくなるぐらい、恥ずかしかった。言い切った瞬間に、撤回したくなるぐらい。本当に緊張して。それでも固唾を飲んでアクアを見守っていると、アクアは微かに笑っていた。な、なにその表情……つまり、いいってこと?ど、どっちなのよ……?!!!

「い、今更なのは分かってるけど……!いいじゃない!?冥土の土産にあんたの彼女って名乗るぐらい許してくれたって……」

 堪えきれずに適当に口走ると、それを諫めるような優しい声で名前を呼ばれた。


「…………有馬かな」

「は、はいっ」


 フルネームで呼ばれて思わず身構えてしまう。ドキドキして返事を待っているとアクアはおもむろに私の前で屈んで、片膝を立てた。うそ。うそ。ねえ、うそでしょ。そんなの。ねえ。バカじゃないの。でも、そうだったら。そんなわけが。と私が一人で考えている間もアクアの表情はいつになく真剣で、彼の瞳の中の星がきらめいていた。私が恋した人の、大好きな表情。


「俺は……お前ももう知っての通り、アイが殺されてからずっと復讐することばかり考えて生きてきた。……ただ、そんな中でも有馬と過ごす時間は純粋に楽しかった。……だからこそ、こんな感情は邪魔だと思って俺はあえてお前を遠ざけた。結局そのせいでお前を失って……こんな俺が今更、有馬に言う資格なんてどこにもないが……それでも、言わせてほしい」


 アクアが服のポケットから小さな箱を取り出す。開閉式のジュエリーボックス。


「有馬かなのことを愛してる。これからもお前にはずっと俺の側にいてほしい」


──どうか、俺と結婚してください。




「あく、」

「……受け取ってくれるか?」

「あ…、あ…………………あんた、ば、馬鹿じゃないの。バカ。ばかばか!!!」

「………………一応プロポーズなんだが……さすがにバカって傷つくぞ。そんなに嫌だったか?」

「嫌じゃないわよ!!!バカ!!!!!!!」


 違うの。嬉しくて。涙で前が滲むぐらい、嬉しいのに。だって、だってアクアってば本当に分かってる?ねえ、分かってんの?


「私、もう消える、っのよ……」

「……ああ。やっぱりそうなんだな」

「あんたのとなっ、りに、いられないのに……?」

「いてくれよ」

「〜〜〜バカ!アクアのバカっ…………!!!!」


 泣いてる場合じゃないのに。涙が勝手に頬をつたっていってしまう。

 だって。だって。ずるいじゃない。嬉しいけど。こんな。こんなの。もっと早くに言ってほしかった。まだ生きてるうちに言われたら、そうしたら今すぐにだって頷いたのに。なんで。今、言うの。もう私は生きてないのに、アクアのそばにいられないのに、アクアを幸せにすることができないのに、なんで。もうどうしようもできないのに。なきべそを書きながら、バカバカとただの八つ当たりを口にする。分かってる。知ってる。アクアが立ち直っても、立ち直らなくても私達はいつか別れる運命だった。ううん、本当はあの日。あの日が私達のお別れで、こうして話せる今が奇跡なんだって、分かってたけど。分かってたけど。


「……私、でいいの?」

「有馬かなじゃなきゃ嫌だ」

「なにそれ……子供みたい」

「笑いたきゃ笑え、俺はお前が良いんだ」


 不満そうに言い切るその姿すら可愛く思えてくるから、きっとこれが惚れた弱みって奴だ。アクアのためを思えば、受け取らないこともできる。でも、私は。アクアが私のことを必要だっていってくれるなら、例えそれが後ほんの少しの間しか叶えられない願いだったとしても、それに応えてあげたいって思ってしまうから。

「しかも、あんたこれ……婚約じゃなくて結婚指輪って……いつの間に用意したのよ」

「お前が寝てる間にいろいろと試した」

 そういう卒のないところ。その癖ちょっと詰めの甘いところも、ずっと好きだった。
 何度かしゃくりあげながら、涙を拭って今度は私もとびきりの笑顔を作ってみせる。きっとこれが最後の晴れ舞台、それなら貴方の目には一等可愛くうつっていたい。


「ねぇ……アクア、はめてくれる?」


 アクアに左手を差し出せば、彼はジュエリーボックスから銀色の指輪を取り出して私の薬指に優しくはめてくれた。手をかざすと、薬指につけられた銀色のシンプルな指輪が夕暮れのオレンジ色を映して輝いていた。


「……似合ってる?」

「世界一」


 アクアが好きだと自覚してから何回かおままごとみたいな妄想はしたことがあった。仕事を頑張って終えたら、私しかいない寂しい部屋じゃなくて愛する人が待っている家に帰るの。扉を開けたらアクアがいて、おかえりって言ってくれて、私もただいまって笑って。私が待っていたらアクアが帰ってくる音がして嬉しそうに出迎える、愛する人が隣にいる。そんな絵空事みたいな夢。半分は叶っちゃった。くすぐったい気持ちを抑えきれずに何度も右手で指輪を確認してから、そんな私を見守っていたアクアの前に手を出した。

 だってこれ、結婚指輪だもの。


「ちゃんとあんたの分もあるんでしょ?」

「……ほら」

 やっぱり。もう一つジュエリーボックスを忍ばせていたアクアから対になる指輪を手渡してもらった。

「いいわね。じゃあ、あんたも左手を出して」

 きっとこれが私がアクアに出来る最後の贈り物。私の代わりにアクアを守ってね。と願いを込めながら指輪をとおすと、やがてアクアの薬指に私の薬指と同じおそろいの指輪が収まった。私とアクアの結婚指輪。


「似合ってるか?」

「そうね……世界一カッコいいかも。ふふっ。どう、アクア?嬉しい?こんな可愛い奥さんが持てて?ねぇ──」

 ちょっとだけ恥ずかしさもあって捲し立てて誤魔化そうとした私の口はアクアに塞がれてしまった。柔らかな唇。ああ、好きな人のキスってこんな感触だったんだ。ずっと知りたかった感覚は、くらくらするぐらいの幸せの味だった。

「すっげー嬉しい」


 アクアはずるい。私なんてアクアを立ち直らせるのにこんなに時間がかかったのにアクアはいつもこんな簡単に私を幸せにしてしまう。

「……言っとくけど。私がいなくなっても、ちゃんとやるのよ?」

「分かってる」

「あ、あと!私がいないからって絶対に浮気とかするんじゃないわよ!もし浮気したら末代まで祟ってやるから覚悟しなさいよ!」

「……」

「ちょ、何その沈黙。なにもしかしてあんたもう既にその気満々ってわけ?!さ、最低ーー!!!」

「いや。どうせ末代だし、有馬に祟ってもらえるならありかもな、って」

「っ、!まっ!!!嘘よ!!嘘だからっ!と、とにかく浮気は駄目……!!あんたは無自覚スケコマシなんだからほっんとに気をつけるのよ!!!」


 釘を差したつもりで墓穴を掘りそうになってしまった。危なかった。アクアは魅力的だからきっとこれから先、彼を幸せにしたい女の子なんて幾らでも出てくるだろう。それこそ、黒川あかねがいい例。でも、私はお生憎だけどそんなに性格がよくございませんから?だから、そんな子達と幸せになってなんて言ってやらないの。せめてやるんだったら、絶対に私にバレないようにやりなさいって話。


「安心しろ。有馬かなみたいな女が二人といてたまるか」

「こ、こいつっ……!!てか!有馬かなって言うけど。忘れてない?あーくん。私、もうあーくんのお嫁さんなのよ?有馬、じゃないんじゃない?」

「……そうだったな、かなの言うとおりだ」

「ちょっと急にはずるいわよ!!まだ準備できてなかったのに!」

 言っては見たけど、あまりにも急な切り替えでろくに反応ができなかった。あーもう。こんなくだらない話じゃなくて、もっと幾らでも話しておきたいことがあったはずなのに。口を付くのはまるで明日があるみたいな、いつも通りの会話ばっかり。

 けど別にそれでもいっか。

 だって、これからもアクアの中で私が生き続けるって約束してくれたから。


「ねえ、アクア」


だから今度は私からも約束してあげる。


「これからもいっぱい、私の格好いい旦那さまのこと自慢させてよね?」














 ──瞬き。


 次の瞬間、アクアの目の前には誰もいなかった。有馬かなの幽霊はアクアの胸の中に埋められない寂しさだけを残して、まるで最初からこの世にいなかったみたいに消えてしまった。それでも二つのジュエリーボックスには指輪の跡がある。一つは自分の左手の薬指に、もう一つは今もきっと、彼女の薬指に。見当たらない指輪の跡は、確かにここに有馬かなが星野アクアと共にいたなによりの証だった。

 空になった箱を強く握りしめながら、この日、有馬かなが死んだあの日から初めて、星野アクアは子供のように泣きじゃくることができた。










 その後、星野アクアは八十三歳の享年を迎えるまで幅広い演技に挑戦し続け、監督の意を汲みながらも自分の演技に昇華する彼の演技は多くの現場で重宝され、業界内外ともに広く愛される存在となった。星野アクアの交際に関しては彼の活動中、実に多くの噂が行き交ったが、彼は結局一度も家庭を持つことなくその生涯を終えることとなった。そんな独身を貫いた彼だったが、彼の左手の薬指にはいつも銀色の指輪がはめられており、その指輪を彼がとても大切にしていたことは関係各所でも有名な話である。

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