数ヶ月と十数年
“俺、辞める。2軍の連中もみんな辞めるってさ“
長年愛用してるお気に入りのエナメルバッグに、部室に置いた私物を詰め込見ながら、あいつはそう告げた。
その机の上には、細かく裁断された紙の資料。
”へへっ、カッコよく啖呵切ったけど、結局なぁんも出来なかったなぁ……”
色んな感情がないまぜになった視線でそのゴミを見下ろしながら、自嘲のこもった様な笑いと共に、あいつはそう呟く。
本当は、行ってほしくなかった。
いつもみたいに傍にいて欲しかった。
だけど、あたしをほったらかしにして、選ばれなかったみんなに手を差し伸べて、でも結局何も出来なくて……
そんなあいつが、ちょっといい気味だと思ってしまった。
……あたしをほっといた報いなんだと。
だからあたしは、少しだけ考えるフリをして、
“……寂しくなるね“
とだけ返した。
それは、嘘じゃないから。
あいつは少しだけ泣きそうな顔をして、
だけどすぐに、笑顔を作って、
“お前は……アキラは、才能あるんだから、頑張れよ”
応援はずっとしてるからさ…なっ?
そう言って、震える肩を隠して教室を出た。
あたしは……ひとりになった。
ウワガキ
幼馴染の少女をNTRれた少年のその後のお話
チャプター2:数ヶ月と十数年
『今日はどうする?』
『もちろん、やる。そろそろアンタの鼻っ柱、へし折らないと気が済まないから』
『俺はもう、お前に負けるつもりないぞ』
『上等。今日も付き合ってあげるから、ボコボコに負ける覚悟しといて』
修也が柳と練習を始めてから、暫く経ったある日
修也は休み時間、自身の携帯でメッセージを送る。相手は勿論、柳だ。
柳は隣のクラスだが、わざわざあって話すより
こっちの方がなんだか2人らしい気がした。
強気な、だがリスペクトもある、
そんなたわいもないやりとり。
アキラと違う、支える事に充実感を感じる様な幼馴染ではなく、純粋に高めあう…競い合う仲間。
あの発作は、最近めっきり起きなくなった。
正直言うと、毎日が楽しい。
そして、もうそろそろお待ちかねの夏休みだ。
学校での事を考えずに、もっとバスケができる。
なんでもっと早く、こういう事が出来なかったんだろう?
修也は自分自身に疑問を持ったが、答えは簡単だった。
柳が俺を誘ってくれたからだ。
あいつが誘ってくれなければ、ずっとバスケに未練を残したまま、屈辱の発作に苦しめられていただろう。
……柳と、夜までかぁ……
最近は柳と一緒に遅くまで練習する事が、当たり前の日常になってきている。
柳は凄く、……いい奴だ。
燻っていた俺をもう一度、そして新しいバスケの世界に連れて行ってくれたんだから、本当に感謝しかない。
だがふと疑問に思う事もある。
何故柳はあの日、自分を誘ったんだろうか?
俺をストリートバスケの仲間に入れたかったから?
友人が欲しかったからか?
そうかもしれない。自分はそれなりにバスケ部では活躍してたし、もしかしたら学校の同級生で心おぎなくバスケができる、バスケ部じゃない奴を探してた、とか?
いや、バスケができる友人など、コミュニティに嫌というほどいるではないか……
それとも、他の何かがあるのだろうか?
柳の気持ち、そして自分の、気持ち……
それ以上考えると、
なんだが胸の鼓動がおかしくなる
ドキドキと、そして同じくらいの不安。
……バカな事は考えるな。
唯の、純粋な好意かもしれないだろ?
でも、キスとか、してるんだよなぁ……
修也の中で柳への感謝と好意と疑問がぐるぐると渦を巻く。自分は柳とずっと友人で居たいのだろうか?
いいや、多分違う。もっと深く、柳を知りたい。
だが、もし柳にそんな気がなくて、そもそも自分の知らない恋人とかが居たら?
その気持ちの先にある、
深く刻まれた傷が、自身の不安を煽る。
そういう気持ちを裏切られるのは、もう嫌だった
惹かれて始めていても、心に刻まれたその傷が、踏み出す足を留めてしまっていた。
「ねぇ、しゅーや、居る!?」
そんな思考から現実に意識を引っ張り上げたのは、聞き慣れた、いや、聞き慣れ切った少女の声。
振り向くと、そこに居たのは長身で、ショートカットを後ろで少し束ねた、元気があり余って、周りに振り撒いてる様な、そんな女の子。
「あ……っ、アキラ……」
榊晄(さかきアキラ)
修也の幼馴染で、……初恋の少女だ。
「しゅーや、バスケもっかいはじめるの!?」
その声と共に少女の視界が修也を捉えると、ぱっと明るい笑顔が咲き、もの凄い勢いで修也の机に……いや修也自身に飛びつく。
彼の戸惑いなど、お構い無しに。
相手の懐に飛び込んで、いつの間にか相手をペースに巻き込む。
榊アキラという少女は、そういう少女であった。
アキラは抱きつくなりいやー、よかったよかった。と修也の頭を撫でる。
いつもと……いや、半年前と変わらないやりとり。
クラスのみんなは、ああ、久々にこの2人のいつもの光景を見たなといった程度の反応で、あまり驚く様子はない。
……そうだ。これが普通だったんだ。
ごく普通の、俺たちのやりとり。
“しゅーや、夏休み用の新しいメニュー組んでよー”
“向こうの選手に競り負けた〜っ、くやしぃーっ!!”
“しゅーやがいると、あたし負ける気しないんだ“
そう、
何も変わらない。
まるであの日見たものが、幻だったかの様に
そんな彼女のいつもの調子を思い出しながら、少しだけ思考がまどろみ始める様な感覚を覚える。
……ダメだ。正気に戻れ……
どこかで修也を呼ぶ声がする。
「お母さんが、おばさん経由で教えてくれたんだ。しゅーやまた、バスケの本とか買い始めて、おばさん安心したって……」
それ聞いて、あたし嬉しくなっちゃって!!
すこぶる上機嫌なアキラはぴょんぴょんと飛び跳ねる。
……ああ、そういうことか、俺が最近帰るのが遅くなっても、母さんがあまり心配しなかったのは……、俺がもう一度バスケを始めた事に気づいたからだったのか……
半年間、あんなに口うるさかった母が、口を出さなくなった理由に、今更ながら気づく。
「また、しゅーやと一緒にバスケできるの、凄い嬉しいよ!!」
中学に上がりたての頃、修也はアキラと大喧嘩をした時に、同じ事を言われた。
あの時は修也もアキラと仲直りできて嬉しかった。もう一度バスケが出来る事と、やっぱりアキラの隣が自分の居場所だと気づいたからだ。
「まっ、まぁな……」
身体が勝手に、相槌を打つ。
……おかしい。
悪い気がしない。
思考が今の自分から離れていく感覚が更に大きくなる。
「修也がまたバスケ部戻りたいっていうなら、コーチに言うし、あたし応援するよ!!」
「ああ……、そっか」
俺はバスケ部に、戻りたいのか?
そんな筈はない。
そんな事は……無い筈だ。
思考が彼女に…アキラに引っ張られているのだ。
いや、アキラと一緒にいた頃に自分に、戻りかけているのだ。
その事実に、修也の背筋が凍りつく。
「やっぱさ、しゅーやが応援してくれないと、あたし全力でないなぁー……なんちて」
「お前いつもそんな感じじゃん?負けた時俺のせいにしたいだけだろぉ〜?」
「なによぉ〜!?」
……おかしい。
なぜこんなに俺は安心している?
何故こんな会話が出来る?
コイツは……栗岡を選んだんだぞ?
学校であんな事までして…
“……また支えてやれ“
心の奥底から誰かが囁く
やめろ…
修也はその囁きを振り払おうとする。
だが、その声は消える事はない。
“断るな。支えろ。そうすれば……”
俺はそんな事、望んでない……
“……嘘だね”
それは修也の心の中に居る十数年共にした、
アキラと2人で過ごした思い出。
アキラが好きだった気持ち。
それらが修也を、暖かかった2人の世界に連れ戻そうとしていた。
喩え、それが悍ましい現実から逃げる為の幻影だったとしても。
「しゅーや、ほんと頼りにしてるんだから……」
アキラは小さく呟き、俺を背中から抱きしめる。
寝落ちしたこいつを背負ったり、戯れあったりして、ずっと昔から感じていた。暖かくて慣れ親しんだ感覚。
これが、ずっと続くと信じていた。
……だが、そこに感じるほんの少しの違和感が、修也に言いようのない恐怖を叩きつける。
アキラは、香水なんかつけていたか?
抱きしめ方が露骨すぎて、どこか変じゃないか?
修也の浮かんだその違和感を、過去の思い出達が鎖で縛り上げ、表に出さない様に閉じ込めようとする。その矛盾が、地獄の様な苦しみを修也にもたらしていた。
……早く、早く終わってくれ……
他ならぬ自分自身から生まれ出るその苦しみに苛まれ、必死に抗おうとする。
アキラの語る言葉全てに、修也の心に暖かく優しい気持ちが灯る。だが、現実のその違和感が、修也の疑念が正しい事を証明していた。
記憶が、思い出が、修也に牙を向く。
決して消えない思い出と現実が、修也の心を引き裂いていく。胸に湧き上がる感情が、ひどく恐ろしく、グロテスクなものに感じた。
「アキちゃん、コーチが呼んでるよー?」
教室から顔を出すバスケ部員がアキラを呼ぶ。
その声に晄は、ぱっと弾かれた様に修也を解放する。
「もー、コーチってば人使い荒いんだから……」
「ア、アキラ……その……っ、」
そう言いながらも、どこか期待する様なアキラの声色に、恐怖を感じて必死で引き留めようとその顔を見て……修也の心は完全に壊された。
「じゃあね、修也。また今度、話そ。」
そう言って、修也から離れると、こちらを振り返りもせず、そのまま教室を出て行った。
今までのどんな言葉より、どんな疑念よりも、
アキラのその顔が……修也の心にとどめを刺した。
叫び出さなかったのは奇跡に近かった。
修也はちょっとトイレに、と言って教室を出る。
トイレで変な事すんなよーと、囃し立てる友人達の声がどこか遠くに聞こえる。
気持ちが悪い。動悸がおかしい。
どこかに行かなくては……
あいつから、離れなくては……
修也は壁に手をつきながら、ふらついた足取りで、必死で廊下を進み、階段を登る。
心の苦しみが修也の世界が平衡を崩していく。
どこでもいい、誰もいない場所へ……どこかへ……
大好きだった幼馴染が、知らない顔をしてる。
足りなかった力が、彼女を失わせた。
その結果を現実でまざまざと見せつけられ、
打ち込めさせる。
心をズタズタにされる。
……いや、足りなかったものは本当は力なんかじゃなかった。
アキラはいつだって待っていた筈だ。
バスケ教室でも、中学でも、ついこの間までも……
その事に気づいていながら、自分がアキラに相応しい男なのかと、どこかで躊躇していた。
なんという愚かで……無様な自分……
屋上まで続く階段の踊り場までなんとか辿りつくと、修也は手すりを両手で握り、息を整えようと足掻くが、
……崩れ落ちる。
もうこれ以上は、ダメだ。
苦しい……息ができない。
呼吸をしようとしても、吸ってばっかりで、息が吐けない……
胸を掻きむしる。このまま死んでしまうのだろうか?
でも、こんな辛いなら、もう死んでも……
……橘くん
聞き覚えのある声が、遠くに響く……
もはや意識が朦朧として、それが幻聴なのか、現実なのか、もうよく分からなくなる。
「やなぎ……やなぎっ……」
……助けて……
呼んだのか、求めたのか、
修也にはもうわからなかった。
意識が遠のくその瞬間……
修也は不意に抱き寄せられ、顔が何かに覆われる。
何か柔らかくて、暖かくて、良い匂いがするもの。それが柳の胸元だということに気付くまで、しばらく時間がかかった。
「はい。吸ってー……吐いてー」
幼い子供の様に、柳の指示通りに息を吸って、吐く。彼女も同じ呼吸のリズムで、柔らかな胸が上下する。
暖かく、安心する体温に修也は少しづつ呼吸と落ち着きを取り戻す。
ようやく息ができる様になって、なけなしの虚勢を張った修也は小さく、ありがとな……と呟く。
彼女の前では、こういう姿を見せたくなかった。
……ライバルを失望させたくなかった。
「へへっ、なんか、俺、カッコ悪いとこ見せちまったな」
「……………いいよ?泣いても。」
泣いて、いいんだよ。精一杯の修也の強がりに、驚きでも、嘲りでもない、純粋で優しい、花梨の声色が、修也の空元気の壁を溶かしていく。
……うっ、ううっ、うあぁぁ……
嗚咽を漏らし、膝を屈して少女の胸の中で啜り泣く少年。花梨の胸元を修也の涙と涎が濡らす。
修也はしばらく泣き続けた。ブラウスの胸元が彼の涙と涎でぐっしょりと濡れても、花梨は構わず彼を優しく抱きしめ続けた。
「……やなぎ……っ、ごめんな……っ、こっ、こんな……っ、ところ……お、お前には見せたく…なかった……」
柳の前では、こんなボロボロな自分を、見せたくなかった。せめて、彼女の前では……強い男でいたかった。
……ライバルだからとかじゃない。
多分、本当は好きになりはじめているから。
この気持ちが本物なのか確かめるまで……
……いいや違う。
こんなに弱い自分を、隠したかったからだ。
だが柳は優しく首を振り更に強く抱きしめる。
「男の子でしょ?……1回の失恋くらいで……榊さんより良い女なんて……ほら、沢山居るよ……」
そんな修也を胸に抱いて、少し冗談めかした口調で、しかし幼子をあやす様に優しくその頭を撫でる。
「……違うんだ……」
「……橘くん?」
「……怖いんだ……」
花梨の胸の中の修也の囁き。
それは悔しさと、後悔と、そして恐怖に震えていた。
強くなった筈だった。
もう、怖くない筈だった。
だが、アキラと対面して、同じ空気を吸った瞬間、自分があの頃に引き戻される様な感覚が、修也を襲った。
弱く、鈍感な自分……
そして何より暖かく居心地の良いアキラの隣。
十数年、ずっと一緒だったのだ。
たった数週間、数ヶ月でこの感覚を、幸せだった記憶を消し去る事など、出来るはずが無かったのだ。
それなのに、これで強くなったのだと、もう大丈夫だと、思ってしまった。
「こんな事、お前に話して、ごめんな……でも、誰かに言わないと、俺、ダメになりそうで……」
胸の中で修也はその恐怖に必死に抗っていた。
花梨は何も応えずに、ただ修也を強く抱きしめる。
「……橘くん……顔、見せて」
震える声で、胸に埋まる修也の耳に囁く。
修也がぐしゃぐしゃになった顔を上げる。
フレームレスの丸眼鏡越しに映る切れ長で美しい、そして何かの決意を秘めた瞳……
「柳……?」
花梨は抱きしめるのをやめて、修也の顎をぐいと掴むと、彼を引き上げる様に……
そのまま唇を重ねた。
……突然の柔らかい感触。
そして修也の口内に、柔らかく、暖かい何かが滑り込んでくる。それは修也の舌に絡み、ぐちゃぐちゃとかき回す。
「……ふむっ……んっ……」
熱に浮かれた様に修也への口付けを貪る花梨。
修也の口内を隅々まで蹂躙していく柳の舌に、突然の事に驚きながらも、修也は不思議と抵抗感も拒否感も感じなかった。
柳の体温を、もっともっと感じたかったのかもしれない。心がほどけ、じんわりと暖かい感覚が、ようやく修也の世界を取り戻す。
唇を離すと、2人の舌を白い糸が通じて、屋上に続く扉の窓から通じた光できらきらと輝き、
柳の優しい瞳と修也の涙に染まった瞳が絡みあう。
「……どう?あたしの…本気のキス……」
「……柳……なんで……?」
「なんでだろ?私もよくわかんない」
呆然と膝を折って立ち尽くす修也に、少しだけ泣きそうな顔の柳が笑う。
でもさ……
「こうでもしないと、橘くん、ぶっ壊れちゃいそうだったから……」
冗談でも無く、至極真面目に花梨は応える。
身体が勝手に動いていた。
彼を救うにはこれしか無いと……そして、これからする事が、多分、たった一つの方法だという確信があったからだ。
「ねぇ……あたしの勇気、アンタにあげる」
……だからアンタの勇気、私にちょうだい。
今夜は……この続き、しようよ。