やべー女トレーナーの恋人概念3

やべー女トレーナーの恋人概念3

実は今まで地の文の中でさえ一度も「会いたい」とは言えてなかった


 「ただいま」冷たい部屋にぽつんと声が落ちる。スニーカーを脱いで揃えて、ダッフルコートはクローゼットにしまう。考えてみれば、私、クリスマスイブなのに色気のないスニーカー履いて街を歩いてたんだな。現地観戦で動きやすいようにこのスニーカーを買って、競馬場に行くときはスニーカーを履くようにしてたから、そんなことこれっぽっちも考えたことなかったかも。ウマ娘だったら綺麗なヒールであんなに力強く走れるだけどな。そこまで考えてまた落ち込んだ。

だらしなく玄関に倒れ込んで寝っ転がる。フローリングはひんやりと冷たい。やらなきゃいけないことはいっぱい。手を洗って、化粧を落として、お風呂に入って、あぁそうだお弁当箱洗わなきゃ。

でも、ぜんぶ面倒くさいなぁ。このままずっとフローリングに体を預けて、ずっとここにひとりでいたい。

いやいや、分かってるよ。今やらなきゃ明日もっと苦労するってことくらい。でもさ、人間そんなにずっと頑張ってなんてられないし、ブルーになったときは何もやりたくなくなっちゃうんだよ。そりゃ、いつでもパワフルに、なんにでも全力で!って人もいるけど。あぁそういえばあなたはそういうタイプだったな。私にはそれは無理。

よろよろと起き上がって、洗面所まで歩いた。手を洗っただけでもうなんだかだるい。化粧落としはクレンジングシートで拭くだけでいっか。あぁでもクリスマスイブだしってガッツリメイクしたんだった。ちゃんと落とさないと肌荒れちゃうな。

前髪を上げて手にクレンジングオイルを取った。くるくる掌でオイルを馴染ませていくと、ファンデーションの下の素肌が顕になる。毎日化粧水を浴びて、乳液をつけて、クリームを塗って、マッサージもして、いつでも日焼け止めを塗ってなんとか白く平らに保っている私の肌。必死に、必死にやってやっとこの状態なんだよ。あなたはそんな苦労を知らない。あなたの担当ウマ娘も、そんな苦労は知らない。

そして水で綺麗さっぱりオイルを流すと、鏡の前にはいつもの冴えない女の顔がある。マスカラが落ちると短くて少ない睫毛はあるのかないのか分からなくて、丸い目が不安そうにぽつんとある。睫毛も、目も、鼻も、頑張ったってどうしようもないんだもん。頑張って化粧して理想に近づけた自分の顔と、平たい本当の自分顔はなんだかちょっと落差で笑えた。私、よくこれであなたにすっぴんを見せてたなあ。

洗剤で手が汚れるし、お風呂はお弁当箱洗った後のほうがいいかな。あ、玄関にバッグ置いてきちゃった。玄関にバックを取りに行って開いた。中には、お弁当箱とぱかぷちが詰まっていた。

 ぱかぷちを見た瞬間、どっと疲労感が襲いかかってきた。バックも仕舞わなきゃな、と思ってぱかぷちをひとつずつ取り出していく。

「……あれ、6個?」

バックから出てきたぱかぷちは6個。おかしい、7個のぱかぷちを持って行ったはずなのに。ぱかぷちは今あなたの担当ウマ娘6人全員がいるから、ないのはロブロイちゃんのぱかぷちだ。

 今あるロブロイちゃんのぱかぷちをよく見てみる。なにもついていない。あなたが私にくれたぱかぷちは全部小さなリボンをつけてラッピングされていたから、無くしたのはあなたがくれたぱかぷちっていうことになる。

 どこに無くしてしまったんだろう。折角、あなたがくれたのに。

 記憶を必死に巡る。バックから物を取り出したのは、トイレで女の子にぱかぷちを貸した時と、指定席でご飯を食べた時。アルダンちゃんのぱかぷちを取り出した時に一緒に落としちゃったのかな。どうしよう、競馬場の方に誰か届けてくれているかな。うっかりロブロイちゃんのぱかぷちの制服ver.はレアだって言っちゃったきら、誰かが持って行ってしまったかもしれない。どうしよう、あれはクレーンゲームの下手くそなあなたがせっかく取ってくれたものだったのに。

 あぁ、でももう、クレーンゲームは苦手じゃないんだっけ。クレーンゲームでぱかぷちを取ってアルダンちゃんにあげたら、大層喜ばれた話をあなたがしていたのを思い出しちゃった。メジロ家のお嬢様がぱかぷちひとつもらって喜ぶのなんて、あなたが取ってくれたからに決まってるでしょ、って言おうとして言えなかった。それであなたがアルダンちゃんを意識し始めるのが怖かった。

 「もう、どうでもいいか」

ロブロイちゃんのぱかぷちは多分もう帰ってこない。今はもうトゥインクルシリーズは見たくもないし、話も聞きたくない。あなたを奪い去ってしまうウマ娘が、それを眺めて称賛するファンが、クリスマスイブまでレースを入れるURAが、そんなものから出来上がっているトゥインクルシリーズが、ただ憎い。

 あなたがくれたぱかぷちは全部あなたに返してしちゃおう。競馬場に行く時履くために買ったスニーカーも捨てちゃおう。それ以外のウマ娘のグッズも全部全部捨てちゃおう。たくさんお金を掛けたけど、たくさん時間も費やしたけど、たくさん大事にしてきたけど、もう全部いいや。

 もうトゥインクルシリーズを憎むまま、全て捨ててしまおう。

 なんとなく心の整理が付くと、安心したのか急に眠くなって、瞼を開けられなくなった。あぁ、お弁当箱洗ってないし、お風呂、はいらなきゃ……。


気がつくと、東京競馬場にいた。4階のスマートシートの前から2列目。雨音がうるさい。雨が差し込んでくるので、合羽を着ていた。指先が冷たいのに、蒸して体は熱い。

 ダートコースは雨でぐちゃぐちゃになっていて、見るも無惨だ。馬場内の芝生エリアには人の姿はない。芝コースも濡れそぼっていた。スタンド前は傘で埋まっている。雨に濡れたターフビジョンを見て、息を呑んだ。

 だって、これは、あのダービーだ。私が初めて現地で見たG1だ。

 必死に首を伸ばしてターフを見つめる。雨で霞む視界の向こう、しかしいくら雨が遮ろうとも輝きを奪うことのできないあの黄金があった。あの日、あの時の、少し落ち着かないような、荒々しい姿の、あの人が、そこにいる。

 ファンファーレが雨音の向こうで鈍く響く。周りの人が急に手拍子を始め、水飛沫が飛ぶ。あの人がゲートに入れようとする誘導員さんの手を払い、睨みつけてからゲートに入った。全員がゲートに入る。

 そして、ゲートが開いた。

 あなたは黄金の髪をたなびかせて、駆けていく。落ち着いた様子でバ群の後ろの内よりに位置取った。後ろから5頭目。赤い勝負服が、白いマスクが、黄金の髪が泥に塗れていく。

 じわじわと逃げ馬との差が埋まっていく。あの人の前方には長い馬群。大きなウマ娘たちの塊の一番後ろをあなたは走っている。向正面であなたは全く焦っている様子もなかった。マスクをつけたまま黙々と走っている。あの人は弾ける瞬間を暴れる瞬間を今か今かと待ち構えいる。その張り詰めた鋭い雰囲気が見えてくる。第3コーナーになっても、あの人の前に道はちっとも開かない。あの人に勝ちたいウマ娘が、必死に抵抗をしている。勝ちたい、勝ちたいのだ、みんなこのレースは勝ちたい。だってこれはダービーなのだ。

 そして、第4コーナー。あなたの前には右にウマ娘、左にウマ娘、前に二頭のウマ娘。完全に囲まれた。あの人は前方に進路を取ろうとするもそんな場所はない。もう道はない。そう見える。

 そう、そう見えた瞬間。あの人のマスクが外れた。

 暴力性を発露したピンクの瞳が、攻撃的な白い牙が、泥まみれのターフと泥まみれのウマ娘たちの中に浮かび上がる。

 あの人が外へと進む。そして、バ群の1番外と2番目に外のウマ娘の間の、僅かな隙間に身体を投げ込んだ。左右からウマ娘があの人を挟み、抜かされまいとするも、内のウマ娘がその速さに追いつけなくなる。あなたは内へと進み、外のウマ娘があの人に併せ、歯を食いしばってくらいつこうとする。

 しかしあの人は無性にもそれを軽く片手でちぎった。あの人の前にはもう誰もいないい。外から必死に追い上げてくるウマ娘がいる。それはあの人の様子を後方から伺い、あの人を一番警戒していたウマ娘だった。

 そのウマ娘は走って、走って、走って、全力で追い上げようとして。

 しかし、進めば進むほど、その差は長く伸びていく。一バ身、二バ身、三バ身と後続との差はぐんぐん伸びていくのに、あなたには全く届かない、全く追いつけない。

 あの人の瞳がギラギラと輝く。白い顔に泥が飛ぶ。あの人の前には誰もいない。あの人を汚せるのはあの人自身だけ。後を行く17頭に絶望を与え、あの人はゴール板を超える。

 暴力的な強さだった。絶望を齎す走りだった。恐ろしい光景を見せつけたばかりのウマ娘であるのに、少女は美しかった。泥に塗れて茶色く汚れているのに、白い肌、ピンクの瞳、そして何よりその黄金の髪は美しかった。本当に、本当に綺麗だった。

 あの人はウイニングランで力強く人差し指で客席を指した。そして、力強いガッツポーズ。

「オルフェーヴル!!!!!!」

心の底から叫び声が出る。身体が熱い。心が熱い。燃える、燃える、燃える。私は今、とんでもない物を見た。世にも恐ろしく、世にも美しい物を見た。

 オルフェーヴルのトレーナーが飛び出してきた。スーツだというのに泥まみれのオルフェーヴルを力強く抱きしめ、オルフェーヴルに力強くチョップされた。トレーナーはだいぶ痛がってオルフェーヴルから離れ、痛がるトレーナーを見てオルフェーヴルは安心したように笑った。その様子がカメラに抜かれて、ターフビジョンに大きく映っている。

 オルフェーヴルはトレーナーに手を差し伸べ、起き上がらせた。バン、バン、とトレーナーの背を叩く。並んで立つオルフェーヴルとトレーナーは、本当にお似合いで、本当に美しかった。本当に綺麗だった。

 ウマ娘って、なんで可愛くてかっこいいんだろう。ウマ娘とトレーナーの姿は、なんて美しくて綺麗なんだろう。

 一番最初に胸を突き刺した鮮烈な光を初恋と呼ぶのなら、私の初恋は間違いなくそれだった。


 目が覚めた。どうやら玄関で寝てちゃっていたらしい。体の節々が痛い。床にはぱかぷちとバック、お弁当箱が散乱している。バックの中に入れっぱなしのスマホを確認すると、朝3時でびっくり。早く寝てしまった分早く起きたんだろうね。多分日もまだ出てない。ゆっくりと肩を回すと、ゴキゴキ鳴った。

 良い夢見たな。トゥインクルシリーズへの憎悪も忘れて、素直にそう思った。不思議と活力が沸いていた。昨日やらずに寝ちゃったこと済ませなきゃね。そう思ってバックを片付け、お風呂を沸かし、お弁当箱を洗った。お風呂が沸くまでの間、ちょっと時間がある。散乱したぱかぷちを両手に抱えて、寝室に入った。

 寝室のクローゼットはコレクションをしまっているんだ。クローゼットを開けると、そこにはたくさんのあの人---オルフェーヴルのグッズがある。あなたがトレーナーになってからはあなたの担当ウマ娘のグッズも混じっているけれど、元々は全部オルフェーヴルとその後輩たちのグッズだったんだよね。大きいものから小さいものまで、あるだけ集めている。

 その中でも、一際大きいグッズを手に取った。オルフェーヴルがダービーを勝ったときの、抱き合って喜ぶオルフェーヴルとそのトレーナーの写真が使われたポスターだ。このあとチョップすることを思うとちょっと笑えちゃうんだけど、それを考えても、信頼し合ったウマ娘とトレーナーの美しいお似合いな姿だった。考えてみれば、ローレルちゃんとあなたのハグを綺麗で、お似合いだって思っちゃったのは、心のどこかでこの光景と重ねていたからかもな。

 そうだ。私にとってトゥインクルシリーズとは、もともとオルフェーヴルとそのトレーナーのことだった。その後、トゥインクルシリーズを見るようになって、他に応援するウマ娘が出来て、あなたがトレーナーとしてウマ娘を担当するようになって、私のトゥインクルシリーズは広くなった。あなたとその担当ウマ娘のことでトゥインクルシリーズが憎くなっていたけれど、私はあなたと出会う前から私はトゥインクルシリーズが好きだった。私はもとからそういう人間だった。

 トゥインクルシリーズを憎むのはやめようと思った。だって、トゥインクルシリーズはあなたとあなたの担当ウマ娘だけじゃない。あの日、オルフェーヴルとそのトレーナーを美しいと思った自分のことも、その後彼女とその後輩、それから次第に彼女とは無関係なウマ娘を応援するようになった自分のことも、否定しなくていい。あなたと担当ウマ娘のことで複雑な気持ちになったとしても、トゥインクルシリーズ全体を憎まなくていいんだ。トゥインクルシリーズを愛した自分を否定しなくていいんだ。

 私は私を否定しなくていい。肯定してあげていい。そう思うと、とても爽やかな気分だった。

 お風呂が沸いたと音楽が鳴る。私は服を脱いで洗濯機に突っ込み、洗剤を入れてそのまま洗濯を開始した。お風呂に入って、体を洗う。汗とか、匂いとか、諸々全部飛んでいって爽快だ。

 あのダービーの後、オルフェーヴルとそのトレーナーは三冠を達成し、そのまま有馬まで勝った。有馬記念が私の2回目の現地観戦したG1である。考えてみればダービーと有馬が最初ってなかなかチャレンジャーなことしてるな、私。しかし、年明けの阪神大賞典で敗れ、メンタルの調子を崩し天皇賞・春で大敗。関西のレースは現地観戦が出来ないからテレビで見たけれど、現実感が湧かなかった。その後宝塚で復活し、凱旋門賞に挑戦した。

 凱旋門賞で、オルフェーヴルは2着だった。最後の最後、最終直線。オルフェーヴルはいつもの走りを出来なかった。ゴール板を越え、敗北を理解したオルフェーヴルは泣いていた。それを慰めるオルフェーヴルトレーナーの姿は無かった。凱旋門賞では、現地のトレーナーがオルフェーヴルを担当していた。

 2回目の凱旋門賞もオルフェーヴルを担当したのは現地のトレーナーだった。オルフェーヴルは2着に敗れたが、その着差は去年より開いていた。その後、日本に帰国し自らのトレーナーと挑んだラストラン、有馬記念でオルフェーヴルは8馬身差の圧倒的勝利をして、最強のままターフを去った。

 悔しかったよ。本当に悔しかった。オルフェーヴルは強いのに、あんなに強いオルフェーヴルでも勝てなかったのが本当に悔しかった。毎年凱旋門賞が来る度に、お願い勝ってって、誰かがオルフェーヴルの見た夢の続きをって、ずっと祈ってた。そして日本のウマ娘が負ける度に、今年も駄目だったかって、悲しくなった。

 来年は、ローレルちゃんが凱旋門賞に挑む。フランスでも変わらずあの人が指導させてもらえるかもしれない。昨日のローレルちゃんは本当に強かった。だから今年こそ、オルフェーヴルの見た夢を叶えてもらえるかもしれない。

 応援したい、と思った。今年オルフェーヴルの無念を晴らしてくれるのはローレルちゃんしかいないんだもん。応援しないわけにいかないよ。

 でもやっぱり、あの人と並んであんなに絵になってて、お似合いって言われてるんだろうなと思うと妬ましくて仕方ないのも本当。トゥインクルシリーズも、オルフェーヴルの夢の続きを見せてくれるローレルちゃんも、好きなのにね。私はあなたと担当ウマ娘の関係にどうしても嫉妬してしまう。多分これはこれから先もずっとそう。私があなたを好きでいるうちはずっと。

 それでもさ、今の私は前より上手に割り切れるから。ローレルちゃんにちゃんと頑張れって、おめでとうって言えるから。トゥインクルシリーズが好きな私として、トレーナーとしてのあなたの背を押すことができるから。あなたに、迷惑を掛けないでいられるから。

「会いたいなぁ……」

だから、やっとあなたに会いたいと言えるようになったよ。

 


Report Page