やべー女トレーナーの恋人概念
やべー女はトレーナーの安心毛布吐息が耳元をくすぐる。おんなじ枕であなたはすっかり寝入っている。よっぽど疲れたのか、ベッド入るなり3秒でおやすみ。しょうがないもんね、今日は1週間の疲れが溜まった金曜日。身体が資本だって教えるトレーナーが体壊しちゃ説得力ないもん。私もあなたほどハードじゃないけど、仕事で疲れてるし。ちゃんと寝るのがベストだっていうのはわかってるんだよ。くたくたになったスーツを着たあなたがチャイムを鳴らして、私は料理を中断して玄関を開ける。あなたは「ただいま」って言いながら洗面所で手を洗って、晩御飯の匂いに美味しそうだねって笑う。あなたがシャワーを浴びてる間にあなた用のクローゼットから下着とパジャマを出して、料理の盛り付け。一緒にご飯を食べて、今週あったことの話をして、それで2人で歯を磨いて寝る。毎週、まあちょくちょく来れない時もあるけどその繰り返し。
幸せだと思うし、満たされてるとも思う。忙しいのは知ってるし、遅い時間になってもなんとか週一で顔を出してくれるのは愛されてるなって思う。トレーナー職の忙しさは知って付き合ってるし、お仕事頑張ってて、楽しそうにしてるあなたは素敵だなって思うよ。トレーナー寮には家族でもない一般人が入るのは簡単じゃないからって、わざわざこっちに来てくれる。
でもさ、あなたは担当ウマ娘の話ばっかりするじゃん。英雄を目指してるロブロイちゃんと、悪夢を見ることもあったローレルちゃん、オトナの女性になりたいマヤノちゃんに、風を感じたいゼファーちゃん、ガラスの脚でも頑張るアルダンちゃんに、ムードメーカーのヘリオスちゃん。鈍感で優しいあなたは気付いてないけど、私は分かっちゃうんだから。あなたの担当ウマ娘があなたのことが好きってこと。「随分好かれてるんだね」ってちょっと嫌味で言っても、トレーナー冥利に尽きるって嬉しそうにするんだもん。その鈍感さのおかげでウマ娘たちのアプローチも回避できてるんだろうけどさ、あなたの恋人は私なんだよ。正直、ちょっと複雑。
いい年した大人が未成年にこんなこと思っちゃいけないんだけど、ウマ娘はみんなびっくりするくらい可愛くて、スタイルが良い。元々はトゥインクルレースのオタクだったからね。やっぱり可愛いなぁって思うよ。ロブロイちゃんとアルダンちゃんと並んだら多分私は凹凸もなければ細くもない丸太。ローレルちゃんとマヤノちゃんの並んだら私はセクシーさも可愛さもないマネキン。ゼファーちゃんとヘリオスちゃんの勝負服は若くて可愛いから許されるんであって、私があの露出度になったら正直痛いおばさんだ。ああ、若さよカムバック! たとえ若返ったってウマ娘並みのスタイルと顔面になれるわけじゃないんだけどね。
担当ウマ娘ちゃんたちの気持ちは分かる。一心に自分を支えてくれて、優しくて、誠実で、どこかちょっと子供みたいなところのある大人の男の人だもん、好きになっちゃうよ。しかもかっこいいし。分かるけど、恋人は私なんだよ。
あなたは私の存在をウマ娘に教えてないらしい。公私の切り分けきっちりしてるタイプだもんね。多分恋人がいるって分かったらモチベ下がるだろうし、結果的に賢明な判断だと思う。
だけどまあ、その分ウマ娘との関係が取り沙汰されるわけだ。マヤノちゃんの配信であなたが嫉妬されてるのは知ってる。でもあれってただの師弟じゃなくてそういう関係だと思われてるからアンチコメントがつくんでしょ。ずるいよ。私だって大々的にこの人は私のものだってやりたいよ。やったとして誰も見てくれないだろうけど。仕方ないからアンチコメント通報して終わり。やれることはせいぜい右クリック2回。うーん虚しい。
すっかり眠ってしまったあなたの腕の中で、私は未だ眠れない。
そういえば前は私を腕の中に閉じ込めておきながらローレルちゃんの夢を見てたな。寝言でローレルちゃんの名前を呼んでた。あれ、結構ショックだったんだからね。でもあなたがあんまりにもうなされてるのに、そんなつらそうにしてるのに嫉妬心なんてぶつけらんないじゃん。そっと腕を抜けて、素足で冷たいフローリングを歩いて、冷たい水でタオルを濡らしてあなたのおでこを拭ったんだったな。苦しそうなあなたの顔を抱きしめて眠った。どうせならこれでローレルちゃんの悪夢が終わって、私とデートする夢でも見てくれたらいいな、だってあなたならぜったい悪夢を現実にすることはないんだもん、なんて思いながら。
もう12月だ。有馬記念が近い。ステイヤーのマヤノちゃんとローレルちゃん、中距離のアルダンちゃんとロブロイちゃんは言わずもがな、マイラーのヘリオスちゃんまで有馬記念を目指すらしい。だからあなたはてんてこ舞いだ。これから多分しばらく会えなくなる。
でも、あなたは明日担当ウマ娘と出かけるらしい。悔しくて誰と出かけるかは聞かなかった。しばらく会えなくなっちゃうのにな。私、寂しいのにな。あなたは寂しくないの? 寂しくないんだろうな。合宿の時も夜通話してくれたのは3週間くらいで、あとは全然連絡も取れなくなった。恋人の私がひとり寂しくやることもないから資格勉強している時も、担当ウマ娘たちは朝から晩まであなたと一緒だったわけなんでしょ。きっとくっついちゃったりしちゃってさ。私の恋人なんだけどな。
高校生の頃、放課後先生の特別指導を受けてたのが付き合いだしたきっかけだった身分としては時間外労働反対!とは言えないよ。でもこのタイミングで買い出しって必要? それ担当ウマ娘がデートの口実にしてるだけなんじゃないの? それくらい平気でやりそうじゃん。公私の切り分けしっかりするタイプのくせにワーカーホリックなところに漬け込むのは本当にやめてほしい。
性質で優しそうなあなたと可愛くて若いウマ娘。想像してみた。どの子と並んでも絵になっていて、お似合いで、吐き気がした。
ふざけるな。私の恋人だ。私の男だ。
力強いあなたの腕の隙間から短い腕を伸ばして目覚まし時計を取った。設定は10時。ギリギリまで寝るつもりだったんだろうね。疲れてるみたいだし。最近あんまりご飯食べれなくなってきてるのには気付いていた。心身共にしんどいんだろうな。
その設定を私はオフにした。
いい気味だ。これで明日あの人は寝坊する。そうしたら約束の時間には間に合わない。人の男をデートに連れ出そうとした担当ウマ娘はこれで待ちぼうけを食らうことになる。ざまーみろ。そうしたら、目が覚めた時には手遅れで、あなたはきっと寝ぼけ眼で目覚まし時計を止めたと勘違いして、それで慌てて担当ウマ娘に謝りのLANEを入れて、ただでさえ心身ともに疲れ切ってるのに自分の気が緩んでいたことを猛省して………。
何故だか涙が出そうになった。あなたを困らせたいわけではなかった。急にとんでもないことをしてしまった気になった。バレてしまったらどうしよう。あなたに嫌われたらどうしよう。それでもどうしても目覚まし時計を再セットする気にはなれなかった。めちゃくちゃな気持ちだった。
あなたを私だけのものにしたい。私の好きなあなたを、私だけのものに。私の好きな、陸上の夢破れ、その後を支えてくれた恩師のようになりたいとトレーナーを志し、キラキラした顔でトゥインクルシリーズの動画を私に見せてきて、夢を叶えるために私に教えられてばかりだった勉強も学年上位になるくらいまで頑張って、ウマ娘トレーナーになって、高校生の時と変わらないキラキラした笑顔で教え子の話をするあなた。そんなあなたを、私だけのものに。
無理なんだよ。そんなの、できっこないんだもん。でも悔しいんだよ。私の恋人なのに。私だってウマ娘に生まれたかったよ。可愛くて、美人で、セクシーで、スタイルが良くて。ウマ娘になって、トレーナーのあなたに世界で一番大事にされて、たくさんアピールして、あなたの頭を独り占めしたかったよ。
ずるい、ずるいよ。私が恋人なのに。
鼻の奥がツンとした。あ、やばい。泣く。腕のあたりが冷たくなったら流石に気づかれるかもしれないからね。疲れてるあなたを起こしたいわけじゃないし。私はあなたの温かい腕を避けて、台所に駆け込んだ。
「う、う、うぅ……」
嗚咽が溢れる。目の前には包丁があった。
いつか、いつか本当に耐えられなくなったら、この包丁で彼の担当ウマ娘を全員刺してしまおう。向こうからしたら善良なファンと見分けがつかない、気付かれる前に刺すことはヒトミミにだって出来るはずだ。
包丁はここにある。いつでも私はあなたに群がるウマ娘を刺すことができる。包丁はずっと家にある。いつでも出来る。やろうと思えば一瞬だ。何の取り柄もないヒトミミでも、その気になればいつでも出来るのだ。
いつでも出来るから、今日はまだ、担当ウマ娘ごとあなたを応援する、あなたの恋人でいよう。
冷蔵庫の中身を見た。賞味期限の近い豆腐がある。この時間なら自然解凍で挽肉も朝に間に合う。合わせて豆腐ハンバーグを作ろう。重いものは食べるのしんどいみたいだけど、多分大丈夫。重くないけど、腹持ちがいいもの。豆腐ハンバーグ。これなら出先で2人でご飯を食べた後、あなたはスイーツを食べる気にはならないだろう。半分こでアーンなんかさせない。へへ、ざまーみろ。我ながら良いアイデアだ。
時間はたっぷりある。あっさりとした和食メインで、大量におかずを作ってしまおう。大根の皮を剥きながら、私はこの包丁であの子たちを刺す瞬間を夢想する。
ふとそのとき、肩が重くなった。あなただった。頭の中のスプラッタはたちまちつゆと消える。
「何やってるの」
「寝付けなくて。折角だし豪華な朝ごはんにしちゃおうかなって」
「なら俺もやるよ」
「いいよいいよ。疲れてるんだし寝なって。今日教え子と約束あるんでしょ」
あんなに憎悪を燃やしていても、案外すんなりと言えた。私には包丁があるという安心感があった。しかしあなたはなおも引き下がらない。
「そんなの、君だってそうだろ。毎回料理を任せてるの、悪いし」
「まー、早く帰って来れたらお願いするんだけどね。私は定時で上がれるから、適材適所だよ」
おんぶお化けになったあなたの頭を軽く撫でると、あなたは腕の力を強くした。
「目が覚めたら、君がいなくて寒かった」
「私は毛布かい!」
「そうかも」
冗談まじりにそう言うと、思いの外真剣に返された。いや真剣に毛布って何よ。私は恋人なんですけど。そりゃ毛布なら放置したって問題ないですよね、他の人と一緒にいたって毛布が寂しがるわけないですもんね、と毒づきたくなった。しかし妙にあなたが真剣なので、何も言えなくなってしまう。あーあ、惚れた弱みだなあ。
「ねえ、寝ようよ。無理したら身体壊すよ。折角一緒にいるんだから、一緒に寝ようよ」
説得しているような口調で、あなたは私の手から包丁を奪った。ああ。これで今はもう担当ウマ娘を刺せなくなった。
「君が寝付けるまで何でもするよ。僕が悪夢を見てよく寝れないとき、抱きしめてくれたじゃないか。ね?」
あなたがあんまりにも穏やかに笑うので、私は何も言えなくなる。あんなに教え子の名前を言ってたくせに、ちゃんと覚えているのか。
2人で布団に入った。布団は冷え始めていたので、暖を求めて足を絡めあった。暖かかった。暖かくて、胸が苦しくなった。
「ごめん」
「何?」
「目覚まし時計、勝手に止めちゃった」
「僕こそ、一緒に寝てるのに目覚まし時計掛けてごめんね。君まで巻き込んで起こしちゃうところだった」
「いいの。……いいの」
「それは悪いよ」
「ううん。一緒に起きて、朝ごはん作らなきゃ。ご飯食べてから、担当ウマ娘ちゃんのところ行くでしょ」
「いいの?」
「いいの」
だって、あなたが包丁をしまってしまったから。今の私は包丁で担当ウマ娘を刺すことができないから。だから、今日はまだ、担当ウマ娘ごとあなたを応援する、あなたの恋人でいるよ。