どこまでも 序章
t匿名ゴリラtfall asleep → 眠りに落ちる
fall in love → 恋に落ちる
直は眠そうな目を見開いて、じっと見つめた。
「わかんないな…」
学者のように腕を組んだ。
兄に恋人がいる。
恋、というものが、直にはわからなかった。
わからないことは、辞書を引くとたいてい、解決してきた。
今回ばかりは、謎が深まるばかりである。
眠りになら、直も毎日落ちている。
同じ落ちるにしても、どうも
この、感情だか感覚だか、欲求だか何なんだかわからない抽象的なものが、日英どちらでも、「落ちる」と表現されることが不思議でたまらなかった。
兄、作之助には恋人がいるらしい。
直は来客があると兄の部屋の壁に耳をぺたりとくっつけて、会話を盗み聴く。
そのとき、上原とかいう、兄の友人が言っていたのだ。
少なからず…いや、かなり衝撃的だった。
兄が遠くに行ってしまうのではないかと、不安になった。
母の次は兄までいなくなるかもしれない。
母は占いが好きすぎて、いなくなった。
直の両親は離婚している。
母は別居しているものの、同じアパートに住んでいる。
兄弟の誕生日や盆と正月、だれかが病気になった時など、すぐ駆けつけるためだ。
母がいなくなって、まず直が取り組んだことは、取り急ぎ視力を下げることだった。
ひたすら暗い部屋で細かい活字を追った。
母とおそろいの、黒縁の眼鏡をかけるためだ。
はたして試みは成功し、直は憧れの眼鏡を手に入れた。
今も薄暗がりで本を読み、低い視力を維持する努力は欠かしていない。おかげで、今でも眼鏡を外すと、ぼんやりとしか見えない。
上原の話をきくまで、心優しく、ぼんやりしているいつもの兄だった。
今は、少し遠くて、大人に見える。
たまらなくなり、姉を探した。
窓の向こう、アパートの外にいる姉を求め階段を駆け下りた。
「姉貴は兄貴の恋人に会ったことあるの」
直が蛍石を手でもてあそびながら、息せき切って、なおしずかに、ゆっくりとたずねた。
「ない。スーニャはそんなこときいて、どうするの」
原付を磨く手を止めることも、直の目を見ることもせず、姉は冷ややかな声で言い切った。
「わかんない。
でも、きになる」
掌の中で、蛍石を握りしめた。
「スーニャ、私にきいても意味がない。何もはじまらない。
知りたければ、兄さんにきけばいいじゃない。回りくどいよ」
姉は原付に跨がると、エンジンを吹かした。
「どこに行くの」
直は、自分でも驚くほど大きな悲鳴をあげた。
「坂を下りて海まで」
姉は、坂の向こうに消えていった。
掌に、爪跡がよっつ、並んでいた。
爪痕を見た瞬間から、じわじわ痛みが広がってきた。
直は立ち尽くしていた。
「どうしたんだ?」
作之助の声が降ってきた。
直の細くて、すぐパチパチと静電気に浮かれる髪をぐしゃぐしゃと片手で撫でた。
すこし乾燥して、暖かくて大きい手だ。
直は、眠そうながら、あけすけなくらい心模様を映し出す大きな目で兄を見つめた。
兄はすこし屈んで、素直と視線を合わせてくれた。
「もしかして、困ってるのか」
直は兄を慕っていた。
母にはない頼もしさと、父にはないぬくもりを感じるのだ。
「困っては、いないけどさ」
直はゆっくり言葉を探った。
兄が会ってきた人には会ったことはないけれど、その人に会ったら寂しくなるような予感がしたのだと伝えたい。でもうまく伝えられず、蛍石を手でもてあそびながら、右足のつま先で左足のかかとを蹴り続けた。
兄は急かすこともなく待っていた。しばらく考えて口を開いたが、再び閉じたことを許さずに言葉を引き出してしまったのは兄だった。
「もしかして最近よく家に来る、上原のことが気になっているのか? それとも蛍子さんが誕生日来れなかったことか? 昨日来た詩織の友達か?」
兄は次々に、「スーニャ」の日常に闖入してくる人たちの顔を思い浮かべながら言い当てた。直はたしかに特定の顔ぶれに不安を感じていたのだが、しかしどれも的はずれだった。
兄は母を『蛍子さん』と他人行儀に呼ぶ。曰く、家に同居してないならもはや他人とのこと。
「母さんはいない日の方が多いからいいもん。
兄貴のぜんぶ、大間違いだし!」
叫ぶと、さすがの兄も面食らって目をぱちくりさせた。
「ああ、すまない。でもだったら誰だ」
直は膨れっ面をした。
「兄貴が自分で考えといて」
「いってくれないと俺も考えようがないぞ」
兄は困り、鼻をかいた。
「けち」
直は、猫の喉をくすぐるように頭を撫でる兄と、意図的に目を合わせてやらなかった。
兄は愛おしそうに息をつき、背中をやさしく叩きながら言い聞かせた。
「あんまり考えすぎるなよ。
世の中思い通りにいかないもんだぞ。
だから、スーニャが考えるほど、悪くはならないはずだ」
その後兄は出かける用意をして出ていった。
また、おしゃれをしていた。
直は靴紐を結ぶ兄をぼんやり眺めた。
なぜ兄の革靴がぴかぴか光るほど磨かれているのかもよくわからない。
兄の後ろ姿は背も高く肩幅も広いから、きりっとしてみえる。
ぼんやりと眠そうな目をしている兄が、男前に思えるせいで余計不満だった。
作之助と二人きりでいる時間は少ないなとはおもう。しかし日中は、互いの都合を考えたり話さなければならないことをためらったりしているうちにいつのまにか時間が過ぎてしまうのだった。
早く大人になりたい。
直は出かけた兄の部屋に無断で立ち入った。
兄のズボンを履き、ベルトを締めようとするが、余ってしまった。
これじゃまるで、しっぽみたいに見える。
「寂しくないもん」
壁に背をあずけて、膝に顔を埋めた。
兄にも姉にも、直の知らない、自分の世界があってずるいと思った。
父は天文学に夢中で、ほとんど大学の研究室にこもりきり。
母も人生を楽しむエネルギーに溢れ、今もどこか、海外のパワースポットにいるらしい。
自分なんか、いなくたって困らないくらい充実している家族が憎らしい。
そして、閃いたのだった。
夏休みに家出してしまおう、と。
光さす薄暗い部屋に、きらきらとホコリが舞っていた。