たぬき娘と魔法使い
「せ、先日助けてもらったたぬきです!あっ、あなたのちゅ、使い魔にしてください!!」
顔を真っ赤にして、叫ぶようにそう言った赤毛の少女を、エランは呆然と眺めた。
♦︎♦︎♦︎
エランは人里離れた森の奥地に住む魔法使いである。
ほぼ一日中本を読んで暮らし、たまに森へ出て薬草や食糧を採取し、また家に帰って本を読む、という日々を送っていた。
その日は珍しく、エランは森を散歩していた。強い魔力と呪いを持ったエランは、人だけでなく動物からも恐れられている。森を歩いたところで、怯えて逃げ出す動物たちの姿を見るだけだ。それが嫌で常日頃は家に篭って過ごしていたが、その日は何故か少し歩きたくなったのだ。
そして森を一人歩いていると、エランは奇妙なものを発見した。
(……なんだ?)
赤い毛玉が、草の中でじたばたともがいている。よく目を凝らせば、それはどうやら狸であるらしかった。珍しい、赤毛の狸である。
狸は罠にかかってしまったらしく、なんとか抜け出そうと暴れているが、ガチャガチャと嫌な金属音が響くばかりだ。必死でもがくその姿は哀れを誘うが、だからと言ってエランはそれを助けてやろうとは思わなかった。
喰うものがいれば喰われるものがいるのは自然の理であるし、エランとて時には獲物を狩って食うこともある。この罠だって、誰かが狩りのために仕掛けたものだろう。それはエランの気まぐれで手を出すべきことではない。
かわいそうに、と思いつつ通り過ぎようとした瞬間、狸が鋭い声で鳴いた。きゅう、きゅうきゅうという必死の呼びかけは、どうやらエランに向けられたもののようだ。助けてくれと言っているのだろうと予測を立てつつ、誰かに話しかけられるなどもう随分と久しぶりだったエランは少し耳をすませ──そして、驚きに目を見開いた。
「そっちにも罠があります!危ないです!逃げてください!!」
「……!?」
エランは耳を疑った。──今、この狸はなんと言った?
逃げろと言った。エランに。罠があると、危ないと、エランの身を案じる言葉を口にした。自身が罠にかかり、今まさに危機にあるのにも関わらず。
知らず、エランは拳を握っていた。誰かに心配されることなんて、この身を案じてもらうなんて、もうずっとずっと記憶になかったことだ。
「逃げて、……え?あれ?」
エランがすっと杖を一振りすると、軽い音を立てて周囲の罠が崩れていく。それをきょろきょろと眺めているたぬきにゆっくり近付くと、その柔らかい身体に食い込んでいる罠をそっと外した。
きょとん、とした目で見つめてくるたぬきの怪我を治癒して、エランは努めて優しい声を出した。
「これで大丈夫。……もう、ここに来ちゃだめだよ」
そう言ってたぬきを地面に下ろすが、なぜかたぬきはぴくりとも動かない。どうしたのだろうかと少し考え、エランは一つの可能性に行き着いた。
──もしかしたらこの子は、お腹が空いているのかもしれない。
エランは持っていたバスケットの中から、まだ温かいパンを一つ取り出した。ふわりと漂う香ばしい匂いに、たぬきの鼻がぴくりと反応する。いいんですか、とこちらを窺う瞳にこくりと頷くと、たぬきははむ、と一口パンを食んだ。やがてぱくぱくと食べ進めると同時に、じわじわとその瞳が潤んでいく。あ、と思った瞬間、たぬきはぽろぽろと大粒の涙を流した。
「う、ひっく、ふえ……っ!」
ぐすぐすと涙を零しながら、たぬきはぱくぱくとパンを食べていく。エランはその姿をじっと見つめていた。
こくん、と小さく音がして、たぬきが最後の一口を飲み込む。ふえ、と微かに声を上げてエランを見上げる瞳に、エランはそっとそのふわふわした頭を撫でた。
「もう、ここに来たらだめだからね」
ここには恐ろしい魔法使いがいるんだから──真剣な声音でそう言って、エランはもう一度たぬきを一撫ですると、今度こそ立ち上がってたぬきに背を向けた。やはりぴくりとも動かないのが気にはなるが、怪我は全て治癒してある。しっかりとパンも食べていたことだし、心配はいらないだろう。
久しぶりに誰かと会話したことに、誰かの体温を感じたことに、ふわりと心が微かに浮き足立つ。もしもあのたぬきと一緒に暮らせたら、なんて夢想してしまって、何を馬鹿なことをと自嘲した。──そんなこと、できるわけがない。エランは呪われた存在なのだ。
未練を断ち切るように足早に去っていくエランは、その背中をたぬきがじいっと見つめていることに気付かなかった。
翌日。
太陽が昇ると同時に、こんこんと小さなノック音がして、エランは怪訝な表情になった。
(……誰だ?)
エランの家を訪ねてくる者などいるはずもない。まさか、あいつらがここまで追いかけてきたのか。そう考えて、じわりと嫌な汗が浮かぶ。
じっとその気配を窺えば、こんこんというノック音は次第に大きくなっていく。どうあっても立ち去る気配のないそれに、エランは意を決した。杖を片手にしっかりと持ち、限界まで緊張を張り巡らしてゆっくりと扉を開けると──そこに立っていたのは、赤い髪の少女だった。
「せ、先日助けてもらったたぬきです!あっ、あなたのちゅ、使い魔にしてください!!」
「……は?」
ぶん!と勢いよく下げられた頭を呆然と眺めて、エランは間の抜けた声を出した。
♦︎♦︎♦︎
「使い魔なんていらない。帰ってくれ」
「えっ……ま、待ってください!」
扉を閉めようとした瞬間、少女がぐいと扉を押し返した。意外にも力強いそれに少し驚きつつ、少女の手を挟んでしまわないように力加減をしながら扉を押す。ぐぐぐ、と押し合いをしながらも、少女は一歩も退かずに懸命に言い募った。
「わっ、私はスレッタといいます!昨日助けてもらったたぬきです!」
「そうなんだ。帰ってくれスレッタ」
「い、嫌です!恩返しさせてください!」
「今すぐに帰ってくれるのが一番嬉しいんだけど」
「うぅ…!わ、私、あなたの側にいたいんです!お願いします!」
「……っ」
その言葉に、エランは咄嗟に反論ができなかった。そんな、まるで、告白のような言葉を──好意を示すような言葉を聞くのは、もうエランの記憶にはずっとなかったことだ。
扉を押す力が抜けかける。けれどそれは一瞬のことで、すぐにエランは再び力を込めた。
「……僕の側になんて、いられるわけがない」
「え?」
「帰ってくれ」
「ま、待って…!せめて名前だけでも……!」
「僕はエラン。それじゃあさよなら」
「え、えらんさ…わあっ!」
魔力を込めて杖を振ると、少女の身体がふわりと浮き上がる。その瞬間にばたんと扉を閉めて鍵をかけ、エランはふうと息を吐いた。
まさかあのたぬきが、少女の姿になって家までやって来るとは。人形に変身できる動物は、大抵余程長く生きたか強い魔力を持っているかのどちらかである。あの少女はおそらく後者だろう。
(でも、いくら魔力が強くても)
エランの側になんて、いられる訳がない。
微かに湧き上がる感情に気付かないふりをして、エランは再び作業に戻った。
しかし、スレッタと名乗った少女は随分と諦めが悪かった。
「エランさん!」
「こんにちはエランさん!」
「エランさん!見てください、綺麗なお花です!」
「待ってくださいエランさん!」
「エランさん!ご飯できましたよ!一緒に食べましょう!」
毎日毎日エランの家を訪れては、使い魔にしてください、一緒にいさせてくださいと頼み込む。エランがいくら素っ気ない態度を取っても、次の日にはまた再びエランの元を訪れる。
これがあまりに強引であったり、或いは自己中心的な態度であったなら、エランも容赦なく対応できたかもしれない。けれどスレッタはそのどちらでもなかった。
エランが何度か帰ってくれと言えば、むむむと難しい顔をして「ならまた明日来ます!諦めませんから!」と言いつつ、お邪魔しました!と素直に帰っていく。
エランが冷たい態度を取れば、目に見えてしゅんとして悲しがるものだから、なんだか意地悪をしているような気分にすらなってしまう。一度鬱陶しいと言ってしまった時は声もなくぽろぽろと泣かれてしまって、エランは慌てて慰めたのだ。
つまりエランはスレッタにどんどん絆されていってしまっているのである。エランがそのことを自覚したのは、スレッタと一緒に作ったご飯を二人で食べながらふと暦を見たときだった。
暦に描かれていたのは大きな黒い月──新月だ。
それを見た瞬間、エランは急に現実に引き戻されたような気持ちになった。
「……帰ってくれ」
「え?」
「帰ってくれ、今すぐ。そして二度と来ないで」
「え、え?な、なんで……?ど、どうしたんですか?」
突然立ち上がり、昏い表情で一方的に宣言するエランに、スレッタが戸惑った声を出した。拙い、けれどエランと共に練習した手付きでスプーンを持っている手が微かに震えている。それを見て、エランは胸が締め付けられるように痛くなった。
ぐ、と唇を噛んで、スレッタの腕を引いて無理矢理引き摺るようにして扉へ向かう。待って、なんでですか、と必死に言い募るスレッタの言葉を敢えて無視して扉を開けると、スレッタの身体をぐいと押し出した。
「わぷ…っ!え、エランさん!?なんで、どうしちゃったんですか!?私、また何か…」
「違うよ。君の問題じゃない、……僕の問題だ」
「ど、どうして」
「君には関係ない。鬱陶しいよ、君は」
ひゅ、とスレッタが息を呑む。傷付くだろうと分かっていて発した言葉は、的確にその役目を果たした。みるみるうちに涙を溜めていく空色の瞳を見たくなくて、エランはばたんと扉を閉じた。
エランさん、開けてください、エランさん、という声とノック音が聞こえるのに背を向けて耳を塞ぐ。どれくらいそうしていたか、エランが気付いた時には空は既に夕闇に溶け込んでいた。
微かに扉を開けて外を窺うと、周囲にはスレッタの姿は見えなかった。ほっと安堵するのと同時に、寂しいとすら感じてしまう自分が憎らしい。
薄暗い森をとぼとぼと歩くスレッタを想像して締め付けられる胸をぐっと押さえて、これでいいんだ、と小さく呟いた。
──エランは呪われた存在である。
エランは生まれながらの魔法使いではない。造られた、人工的な魔法使いなのだ。
本来魔女や魔法使いというのは、生まれながらにして強い魔力を宿した存在がそう呼ばれる場合がほとんどだ。生き物は皆魔力を持っているが、魔法が使えるほど強い魔力を持った者はそうそういない。だからこそ、魔女や魔法使いは畏怖と敬意を持ってそう呼ばれる。
しかし、エランの場合はそうではない。人工的に魔法使いを造り出す実験の被検体であったエランは、魔法を使うことには成功したものの、"呪い"と称された厄介な体質を持っていた。失敗作として処分される寸前でなんとか逃げ出したが、その"呪い"のせいでどこにも行く宛がなく、街を追われ村を追われ、こうして人里離れた森の奥地で一人で暮らしているのだった。
"呪い"──エランの厄介な体質は、新月の夜に周囲の魔力を大量に奪ってしまうのだ。
生き物全てが魔力を持っている以上、動物だろうと人間だろうと関係なく、エランはその魔力を奪ってしまう。魔力を奪われるというのは生命力を奪われることにも繋がり、まして微弱な魔力しか持っていない生物にとっては命に関わる。
本人にそのつもりがなくとも、周囲に危害を加えてしまうエランの体質は、まさに呪いであった。優しく迎えてくれた人が、恐怖と嫌悪の瞳でエランを見、出て行けと声を荒げる──何度も繰り返してきた出来事を思い返して、エランは呻き声を上げた。
「ぐっ……!う、うぐ、うぅ……!」
何重にも結界を張った部屋の中心で、エランは胸を押さえて蹲っていた。身体から湧き出る呪いをなんとか抑え付けようとするが、それを嘲笑うように呪いが次から次へと外へ漏れていく。
「あ、……っ!」
エランから一番離れた場所に飾っていた、スレッタが持ってきてくれた赤色の花が、どんどんと萎えていく。やがて息絶えるようにはらりと散って枯れてしまったのを視界の端に捉えて、エランはもう泣きたくなった。
「スレッ、タ……!」
彼女は今どこにいるのだろう。エランの呪いの効果が及ぶ範囲にいなければいいが──ああこんな事なら彼女の家を確認しておくんだった、いやもっと早くに追い出しておけばよかった、頼むからどこか遠くにいてくれ、この呪いから逃げていてくれ──祈るように眉を寄せて名前を呼んだ瞬間、耳に馴染んだ声が飛び込んできた。
「──エランさん!」
「っ!?」
ばっと顔を上げて入り口の扉を見る。どんどんと激しく叩かれる扉はぎしぎしと軋んでいて、その向こうに彼女がいるのだと教えていた。
「エランさん、エランさん!私です、スレッタです!大丈夫ですか!?」
「ど、して」
聞こえる筈もない問いかけを無意識に呟き、エランは呆然とした。
何故スレッタがここにいるのだ。
エランの呪いは家の外にまで及ぶ。だからこそエランは森の奥深く、草木も動物もいないような場所に住処を構えているのに。そもそも結界はどうしたのだ。万が一のことを考え、エランは家の外にも結界を張っていたというのに。
まさか、それを破ったのか。スレッタが。
そんな馬鹿な、と考えて、今はそれどころじゃないと我に返る。呻き声ばかりが漏れる口を必死に動かして、エランは声を上げた。
「くる、な!帰ってくれ、!離れ、て……ぐっ、!」
「エランさん!?……待っててください、今行きますから!」
「な、待っ……」
「うぅぅ……!えい!」
ガチャン!と音がして、エランが家の扉に張った結界が壊れる。唖然としてそれを見ていたエランの目の前で扉が開き、血相を変えたスレッタが部屋へと飛び込んできた。
「エランさん!?大丈夫…じゃない!どうしたんですか!?あの、すぐにお医者さんを…」
「触るな!」
「っ!」
蹲るエランに向かって伸ばされたスレッタの手を叩き落とすように、強い言葉を投げつける。弾かれたように手を引っ込めたスレッタの瞳が揺れて、けれどそれは一瞬のことだった。
「そ、そんなこと言ってもダメです!えっと、お薬はないんですか!?」
「くすり、なんて、ない、…はな、れて、まりょくが、うばわれ、」
「ま、魔力なら私、いっぱいあるので大丈夫です!……えい!」
「なっ…!?」
短い言い合いの後のスレッタの行動に、エランは呼吸も忘れて目を見開いた。
──スレッタは、ぎゅうとエランに抱きついたのだ。
エランに近付けば近付くほど、奪われる魔力の量は増える。ましてや抱きつくなど言語道断だ。下手をすればものの数分で命を奪われてしまう。慌てて振り払おうとするエランに、ぎゅうぎゅうとスレッタが強くしがみつく。徐々にスレッタの顔色が青褪めていくのを目の当たりにして、エランは絶望的な気持ちになった。
「はなれて、たのむ、から…!きみに、なにかあったら、!」
「いや、です!絶対に、離れたり、しません!」
「なんで…っ!」
「だ、だって…!ひとりぼっちなんて、そんなの、寂しい、じゃないですか…!」
「……っ!きみに、なにがわかる!!」
スレッタの言葉に、エランは思わず声を荒げた。頭にかっと血が昇り、わなわなと唇が震える。
どうしてこの少女はこうも頑ななのだ。
人間からも動物からも植物からも忌み嫌われるエランの孤独など、誰にも分かるはずがない。いつも暗く、無口で何にも興味を示さなように生きてきたエランと違って、スレッタはにこにこと笑い、しょんぼりと悲しみ、ころころと表情を変え、何に対しても真っ直ぐに一生懸命な少女なのだ。そんな愛されるべき少女が、エランの苦しみを理解できるわけがない。
(きみに、傷付いてほしくないのに……!)
スレッタを傷付けたくないのに、呪いに巻き込みたくないのに、どうしてこんなにも分からずやなのだ。
本気の怒りを纏ったエランの言葉に、それでもスレッタは引かなかった。ぐい、とエランの襟元を引っ張ると、──ちゅう、とその頬に口付けたのだ。
「……っ!」
口付けられた箇所から、一気に大量の魔力が流れこんでくる。途端に楽になる呼吸に、けれどエランは真っ青になった。これ程大量の魔力を奪われたら、スレッタは。
スレッタ、大丈夫、と名前を呼ぼうとした瞬間、エランの頬に熱いものがぽたりと落ちた。
ぽろぽろと涙を零しながら、スレッタは声もなく泣いていた。空色の瞳は涙を溜めてゆらゆらと揺れ、溢れる雫は光を反射してきらきらと輝いている。その煌めきに見惚れているエランの眼前で、スレッタはゆっくりと唇を動かした。
「分かり、ます。……私も、ひとりぼっちだから」
エランは瞠目した。──ひとりぼっち?スレッタが?
「お母さんは、ずっと前にどこかに行っちゃって、帰ってきてくれません」
「森の動物たちも、仲間に入れてくれなくて」
「町の人たちは、化け狸めって……」
静かに零される言葉を、エランは信じられない思いで聞きながら、けれど心のどこかで合点がいっていた。
スレッタの持つ魔力量は桁外れだ。これほど強い魔力を持っていれば、群れの長として担ぎ上げられ利用されるか、或いは迫害され追い出されるかのどちらかだろう。突出した何かを持った者は、時としてそれに居場所を奪われる。
何も言えずにただ見つめるエランの頬に、ぽたぽたとスレッタの零した涙が伝っていく。たくさんの涙を流しながら、それでもスレッタは嬉しそうに微笑んだ。
「だから、あなたに助けてもらったとき、本当に嬉しかったんです」
「スレッ、タ……」
「あなたの役に立ちたい、あなたの側にいたいんです」
きゅう、とエランを抱きしめて、スレッタはその傷に寄り添うように静かに言葉を紡いだ。
「お慕い、しています……」
エランはもう胸がいっぱいになってしまって、何も言うことができなかった。涙の跡が残る顔で、それでも心底嬉しそうに微笑むスレッタは、エランがこれまで見た何よりも強く、美しく、可憐だった。
どくんどくんと心臓が高鳴る。エランが恐る恐る手を伸ばすと、スレッタはその掌にすり、と頬を擦り寄せた。触れ合った箇所からたくさんの魔力と、それ以上に温かな体温が流れ込んでくる。エランはゆっくりと身体を動かして、宝物を抱くようにスレッタを抱きしめた。
「スレッタ」
「大丈夫、です。……そばに、います」
最後の躊躇いを表すかのように震えていた手を、スレッタの小麦色の手がそっと握る。その小ささが堪らなく愛おしくて、エランはその手をきゅっと握り返した。
こつんと額を触れ合わせて瞳を覗く。美しい空色に映った自分が、初めてみるくらいに穏やかで安心した表情をしているのを見て、エランはそっと瞼を閉じた。
その夜、エランは生まれて初めてゆっくりと眠ることができた。
♦︎♦︎♦︎
「ん……」
差し込む朝日に、エランはぱちりと瞼を開けた。徐々にはっきりとしてくる視界に鮮やかな赤色が飛び込んできて、思わず息を呑む。つられるように記憶が次々と溢れ出てきて、エランはぱちりぱちりと瞬きした。
──そうだ、昨日は新月で、そしてスレッタがやって来て──そこまで考えて、エランは血相を変えてスレッタの呼吸を確認した。穏やかに一定のリズムを刻んでいるのを確かめて、ほっと息を吐く。あれだけ大量の魔力を奪ってしまったというのに、スレッタは無事なようだ。果たして彼女はどれほど膨大な魔力を秘めているのだろう、とぼんやり考えながら、エランはスレッタの寝顔を見つめていた。
むにゅ、と唇を動かしている姿が可愛らしくて、エランはその丸い頬をそっと撫でた。温かく柔らかいその感覚に、じわじわと体温が上がっていくのを感じる。つつ、と頬を撫でて耳朶を軽く摘み、鮮やかな赤毛をかき分けて形の良い頭からうなじをなぞっていく。
しばらくの間そうしていると、やがてスレッタの唇の端がむにゅむにゅと動き出す。ぴくりぴくりと瞼が微かに震えているのを見て、エランはくすりと笑った。
「起きてるでしょ、スレッタ」
「…………うぅ……エランさんが、いたずらするから……」
「ごめんね」
ゆっくりと現れた空色の瞳が、どこかいじけたように上目遣いでエランを見つめる。少しだけぷくりと膨らませられた頬をつんと突くと、ぷしゅ、としぼんでいった。
ひどく穏やかで幸せな気持ちでそれを眺めていると、スレッタの頬がじわじわと赤みを帯びていく。どうしたの、とその輪郭を撫でれば、スレッタはふわりと微笑んだ。
「嬉しい、です。……笑ってくれるようになって」
思わずその微笑みに見惚れてしまったエランに、スレッタはやわく笑った。心底幸せなのだと告げるようなその笑みに、エランの胸が熱くなる。それは、生まれて初めて感じるような熱さだった。
「あんまり、笑ってるところ、見たことがなかったから、……エランさんが笑ってくれたら、私、嬉しいです」
そう言って、嬉しそうに幸せそうに、花がほころぶように笑ったスレッタを見つめて、エランの心臓がどくんと高鳴った。
どくどくと激しく鼓動するそれは、エランにある一つの真実を伝えてくれた。
「……きみ、は、……僕のことを、慕ってくれているの?」
恐る恐る、微かに震える声で口にした問いかけに、スレッタはぽっと顔を赤くした。ぽっぽと湯気を出すようにしながら、スレッタは小さくこくりと頷く。それにどうしようもないくらい胸が熱くなって、エランはその全身をぎゅうと抱きしめた。
ひゃあ、と声を上げたスレッタの頬を両手で包んで持ち上げて、ゆっくりとその唇に自分のそれを近付ける。受け入れるように閉じられた瞳に安堵しながら、エランはそっと口付けた。
「──嬉しい。僕も、だよ」
小さく告げた言葉に、スレッタはぽろぽろと涙を零した。透明な雫がころりころりと丸い頬を転がっていく姿が、息を呑むほど美しい。それを一つ一つ指で拭いながら、エランはどうしようもないくらいの幸福感に微笑んだ。
「この家は、一人暮らし用なんだ」
その言葉に、スレッタが傷付いたような表情になる。そうじゃないよ、と柔らかく頬を撫でながら、エランは最後の確認をするように問いかけた。
「だから、君と二人で暮らすには、少し狭いと思う。──それでもいい?」
大きく目を見開かれた青い瞳がみるみるうちに潤んでいき、たくさんの雫を零し始める。ぽろぽろと大粒の涙を溢れさせながら──スレッタは心底嬉しそうに笑って、こくりこくりと頷いた。
♦︎♦︎♦︎
「エランさん!お花、ここに飾ってもいいですか?」
「うん。……可愛いお花だね」
「!……えへへ、そうですよね。小さいけど頑張って真っ直ぐに上を向いていて、なんだか元気がもらえるんです」
「素敵だね。スレッタみたいだ」
ごく自然に告げられた言葉に、スレッタはひょわあと悲鳴を上げて顔を真っ赤にする。ぴょこん、とたぬきの耳としっぽが飛び出るおまけつきだ。うう〜!と目を瞑ってふるふると顔としっぽを振るスレッタを眺めながら、エランはたまらない幸福に微笑んだ。
(──スレッタ。僕のかわいいかわいいお嫁さん。まさか僕が妻を迎えるなんて思わなかったけど、……嬉しい、な。ずっと大切にしよう)
お嫁さん、という単語に、自分で胸が熱くなる。とくとくと脈打つ心臓をそっと押さえたエランの横で、全身を真っ赤に染め上げたスレッタがふにゃりと笑った。
(エ、エ、エランさんの使い魔になれちゃった!こ、これで、いつかは、ププ、プロポーズして、お、お嫁さんに、なんて……!)
きゃー!と頬を押さえて身悶えるスレッタを、エランは不思議そうに見つめる。すぐにその瞳は、今日も僕のお嫁さんはかわいいな、と緩められたが──スレッタはそれに気付かなかった。
「お慕いしています」という言葉が、恋愛的な好意を表す意味を内包していることを、スレッタはまったく知らなかったのである。
この大いなるすれ違いに二人が気付くのは──また別のお話だ。