たぬき娘と魔法使い
「ん……」
差し込む朝日に、エランはぱちりと瞼を開けた。徐々にはっきりとしてくる視界に鮮やかな赤色が飛び込んできて、思わず息を呑む。つられるように記憶が次々と溢れ出てきて、エランはぱちりぱちりと瞬きした。
──そうだ、昨日は新月で、そしてスレッタがやって来て──そこまで考えて、エランは血相を変えてスレッタの呼吸を確認した。穏やかに一定のリズムを刻んでいるのを確かめて、ほっと息を吐く。あれだけ大量の魔力を奪ってしまったというのに、スレッタは無事なようだ。果たして彼女はどれほど膨大な魔力を秘めているのだろう、とぼんやり考えながら、エランはスレッタの寝顔を見つめていた。
むにゅ、と唇を動かしている姿が可愛らしくて、エランはその丸い頬をそっと撫でた。温かく柔らかいその感覚に、じわじわと体温が上がっていくのを感じる。つつ、と頬を撫でて耳朶を軽く摘み、鮮やかな赤毛をかき分けて形の良い頭からうなじをなぞっていく。
しばらくの間そうしていると、やがてスレッタの唇の端がむにゅむにゅと動き出す。ぴくりぴくりと瞼が微かに震えているのを見て、エランはくすりと笑った。
「起きてるでしょ、スレッタ」
「…………うぅ……エランさんが、いたずらするから……」
「ごめんね」
ゆっくりと現れた空色の瞳が、どこかいじけたように上目遣いでエランを見つめる。少しだけぷくりと膨らませられた頬をつんと突くと、ぷしゅ、としぼんでいった。
ひどく穏やかで幸せな気持ちでそれを眺めていると、スレッタの頬がじわじわと赤みを帯びていく。どうしたの、とその輪郭を撫でれば、スレッタはふわりと微笑んだ。
「嬉しい、です。……笑ってくれるようになって」
思わずその微笑みに見惚れてしまったエランに、スレッタはやわく笑った。心底幸せなのだと告げるようなその笑みに、エランの胸が熱くなる。それは、生まれて初めて感じるような熱さだった。
「あんまり、笑ってるところ、見たことがなかったから、……エランさんが笑ってくれたら、私、嬉しいです」
そう言って、嬉しそうに幸せそうに、花がほころぶように笑ったスレッタを見つめて、エランの心臓がどくんと高鳴った。
どくどくと激しく鼓動するそれは、エランにある一つの真実を伝えてくれた。
「……きみ、は、……僕のことを、慕ってくれているの?」
恐る恐る、微かに震える声で口にした問いかけに、スレッタはぽっと顔を赤くした。ぽっぽと湯気を出すようにしながら、スレッタは小さくこくりと頷く。それにどうしようもないくらい胸が熱くなって、エランはその全身をぎゅうと抱きしめた。
ひゃあ、と声を上げたスレッタの頬を両手で包んで持ち上げて、ゆっくりとその唇に自分のそれを近付ける。受け入れるように閉じられた瞳に安堵しながら、エランはそっと口付けた。
「──嬉しい。僕も、だよ」
小さく告げた言葉に、スレッタはぽろぽろと涙を零した。透明な雫がころりころりと丸い頬を転がっていく姿が、息を呑むほど美しい。それを一つ一つ指で拭いながら、エランはどうしようもないくらいの幸福感に微笑んだ。
「この家は、一人暮らし用なんだ」
その言葉に、スレッタが傷付いたような表情になる。そうじゃないよ、と柔らかく頬を撫でながら、エランは最後の確認をするように問いかけた。
「だから、君と二人で暮らすには、少し狭いと思う。──それでもいい?」
大きく目を見開かれた青い瞳がみるみるうちに潤んでいき、たくさんの雫を零し始める。ぽろぽろと大粒の涙を溢れさせながら──スレッタは心底嬉しそうに笑って、こくりこくりと頷いた。
♦︎♦︎♦︎
「エランさん!お花、ここに飾ってもいいですか?」
「うん。……可愛いお花だね」
「!……えへへ、そうですよね。小さいけど頑張って真っ直ぐに上を向いていて、なんだか元気がもらえるんです」
「素敵だね。スレッタみたいだ」
ごく自然に告げられた言葉に、スレッタはひょわあと悲鳴を上げて顔を真っ赤にする。ぴょこん、とたぬきの耳としっぽが飛び出るおまけつきだ。うう〜!と目を瞑ってふるふると顔としっぽを振るスレッタを眺めながら、エランはたまらない幸福に微笑んだ。
(──スレッタ。僕のかわいいかわいいお嫁さん。まさか僕が妻を迎えるなんて思わなかったけど、……嬉しい、な。ずっと大切にしよう)
お嫁さん、という単語に、自分で胸が熱くなる。とくとくと脈打つ心臓をそっと押さえたエランの横で、全身を真っ赤に染め上げたスレッタがふにゃりと笑った。
(エ、エ、エランさんの使い魔になれちゃった!こ、これで、いつかは、ププ、プロポーズして、お、お嫁さんに、なんて……!)
きゃー!と頬を押さえて身悶えるスレッタを、エランは不思議そうに見つめる。すぐにその瞳は、今日も僕のお嫁さんはかわいいな、と緩められたが──スレッタはそれに気付かなかった。
「お慕いしています」という言葉が、恋愛的な好意を表す意味を内包していることを、スレッタはまったく知らなかったのである。
この大いなるすれ違いに二人が気付くのは──また別のお話だ。